第239話 帰らざるの門
山の斜面をゴロゴロと転がる。こういうの多いな、あちこちぶつかった挙句、ドシン、と草地に落ちた。痛え。でも、斜面が比較的緩かだったのと、分厚い河童のキグルミのおかげで、あまり大した事はなかった。
起き上がる。クソッ、あの紫の瞳の白面女、最後聞こえたのは、間違いなく麗奈の声だよな。幽世の魔物じゃなくて。麗奈が仮装でもしてたのか? 迷惑な。こっちは常在戦場モードだから、あんなことされたら、魔物だと思っちまう……
さて、戻るか。この斜面、そんなに急じゃないから、何とか登れるはずだ。上の方からは、勇希ーっ、と、声がしている。懐中電灯のライトも見える。なんだかんだで、みんな心配してくれてるんだ。そっちに向けて、俺も大丈夫だよと大声を出そうとしたその時、
背後に人の気配。オレはぎょっとして振り向く。
黒い人影。向こうは懐中電灯で、オレを照らす。
「なんだ、河童か」
人影が言う。なんだ河童って……この辺じゃ、河童が普通に棲んでいるのか? あれ? この声、どこかで聞いたことあるような……
人影は、オレに近づいてきて、さらにライトを向けて、オレの顔を覗き込む。
「おや、なんと。見知った顔じゃな」
え? オレはライトに照らされて目をぱちくりしながら、相手を見定める。
「あ」
人影。つるつるに剃った頭に、袈裟法衣。坊さんだ。オレのよく知っているーー
「仁覧和尚!」
現れたのは、鎌倉の廃寺で会った怪しい生臭坊主仁覧和尚だ。
「あの……なんでここに?」
オレは、目をぱちくり。
「それを聞きたいのはこちらじゃ。鎌倉で女成寺に迷い込んできた高校生じゃな? お主こそ、その格好で何をしている。俗世間を離れ、ここで河童をしておるのか? 諸行無常じゃのう」
「あ、いや」
オレは、林間学校でこの山寺に宿泊に来て、肝試しをしてたら、山頂から転げ落ちたと話す。
仁覧和尚、大声で笑う。
「そうか。確か今日は、高校生の一団がお客だったのう」
「で、和尚さんは、ここでなにを?」
「わしか。わしはここの住職じゃ」
「え?」
「前に言ったじゃろ? 他の寺で住職をしていて、女成寺には、たまに行くだけじゃと。普段はこの寺にいるのじゃ」
仁覧和尚がこの寺の住職? じゃあ、この派手に観光ビジネスしてる寺のトップってことか。どおりで生臭なんだ。しかも、校長と昵懇てことになるんだよね。なんだかますます怪しい。
仁覧和尚、ふふ、と笑い、
「面白いものを見せてやろう。やはりおぬしとは仏縁があるのう。ついてくるがよい」
「でも、みんな心配してオレを探してるし」
「なに、すぐじゃ。仏縁は大切にせんといかんのう」
と言って、スタスタと歩き出す。
なんだか。オレも断りきれずについていく。今度は何を見せてくれるんだ? また髑髏とか? もうこの現世で、びっくりさせられるのは、やめにしてほしいんだけどな。
◇
「ねぇ、どこに行くんですか?」
仁覧和尚、暗い山の中を、勝手知ったる我が庭のように、スタスタと歩いていく。オレは、山の上に、懐中電灯を落としてきてしまった。和尚のライトが頼りだ。
「ほれ、もう目の前じゃ」
え?
目の前。和尚が、懐中電灯で照らす。
「あ、これ……」
木立の間、岩がむき出しになっていて、小さな泉がある。いや、湯気が立っている。ひょっとして温泉?
「ここの自慢の隠し湯じゃ。この聖なる山の霊気をいっぱいに吸いながら湯に浸かると、実に気持ちよいぞ。わしはここで一風呂浴びて、散策しながら涼んでおったのじゃ。まさか河童がおるとはな。お主も浸かってゆくか?」
仁覧和尚、ニヤリとする。
またまた名物隠し湯秘湯の登場か。そういえば、宿舎の僧院の大浴場も、天然温泉と言っていた。この山、温泉場なんだろう。それにしても、この生臭坊主、ただ温泉に浸かりたくて、坊さんやってるのか?
「いえ、結構です」
みんなオレのことを心配してる筈だ。のんきに湯に浸かってる場合じゃない。
戻ろうとするオレを、仁覧和尚、引き止める。
「もう一つけ、面白い話をしてやろう」
「なんです?」
「来るがよい。すぐ、そこじゃ」
またまた、スタスタと歩き出す。なんだかオレ、ついていくしかなくて。
小さな隠し湯から少し行くと、塀にぶつかった。
和尚がライトを当てると、そこに小さな門があった。ピッタリと閉じている。
「この塀は、尼僧院を囲んでいる塀じゃ」
尼僧院。男子禁制エリアは、すっぽりと周りを塀で囲われているって話だ。ここまで塀が続いているってことは、結構広いんだな。
「そして、この門は、帰らざるの門。または結びの門ともいう」
「帰らざる? 結び?」
「そうじゃ。今は使ってない。この門には、面白い話があるのじゃ」
仁覧和尚は話し出した。
ーー 大昔、この山の僧院も尼僧院も、大層栄えておった頃のことじゃ。この山に迷い込んだ旅の男がいた。ここが寺の領域とは、知らんかったのじゃ。山の中で道に迷い、日も暮れた。仕方ない、野宿するかと思っていたところ、ちょうどこの門のところ、塀が崩れているのを見つけた。ほれ、お前さんがこの前、女成寺に入った時のように、塀が崩れていたのじゃ。旅の男は、今日はここに泊めてもらおうと、中に入ってしまった。もちろん男子禁制の尼僧院じゃ。男が入っただけでも、大変な罰当たりじゃ。塀の崩れから入った男を、若い尼僧が見つけ、咎めだてをした。すぐ追い出そうとしたのじゃ。ところが、男の方は、尼僧を見ると、懸想してしまったのじゃ。そして、尼僧の手を引いて、塀の崩れた穴から、外に連れ出してしまったのじゃ。
「うわ」
ここまで聞いたオレは言った。
「とんでもない罰当たりですね。こっぴどく怒られたでしょう」
「ところがじゃ」
仁覧和尚、ニヤリとする。
「尼僧の方も、男に懸想してしまったのじゃ。一目惚れというやつじゃな」
「え? 両想いの一目惚れ? そんなことあるんだ」
「あったのじゃ。尼僧はそのまま寺を出て還俗し、男と一緒になったのじゃ。その後、塀の崩れにこの門をつくったのじゃ。ここは帰らざるの門と呼ばれるようになった。尼僧が還俗して、寺を出る時は、この門から出るようになった。そして、結びの門とも呼ばれるようになった。女子と男子が一緒にこの門を出ると、必ず結ばれる、そう言われるようになったのじゃ」
和尚の話が終わった。例によって、恋愛成就の話だ。何なんだ。一体? この和尚、恋愛成就専門の坊さんなのか? ここを恋愛成就の聖地として売り出そうとでもしてるのか?
「ふふふ、もっとも、昔の話じゃ。この門は、内側からしっかりと閂を下ろして、もう長く開いてはいない。だが、面白い話じゃろ。お主も、誰かと結ばれたいと思ったら、この門を一緒にくぐってみるがよい」
え?
いきなり何?
「あの……そもそも、尼僧院は今でも男子禁制なんですよね? オレがそっちに行ったら、まずいんじゃないんですか?」
「ふふふ。それはどうかのう」
和尚の笑い。どういうことなんだろう。そもそもなんでこの坊さんが、オレの恋愛成就を後押ししてくれるんだ?
なんか剣呑な雰囲気だ。深みに嵌るとまずい。
「面白い話、ありがとうございました。みんなが心配してると思うんで、そろそろ帰ります」
「ふふ。達者での。この山寺を、楽しんでいっておくれ。わしの懐中電灯をもっていくがよい。ここはわしの庭先でな。わしはなくても構わんのじゃ」
オレは、ありがとうございますと、一礼して、懐中電灯を受け取り、引き返す。
戻るぞ。みんなの所へ。
帰らざるの門。結びの門。最後に一度だけ、振り返った。ピッタリと閉じている。




