第154話 天使と大人
オレは、居間のソファで、グターとなっていた。
ただ、ただ、天井を見つめている。
急に天使が舞い降りてきたんだからな。オレはこれでも……なかなかよくやってる方だ。うむ。自分を褒めてあげたい。
風呂で。
湯船の中で、オレは完全に身動きできなくなって、そのままほんとに沈みそうになった。その時、麗紗が、
「そろそろ出よっか」
と言って、オレを引っ張り出してくれたんだ。助かった。まぁ、天使だからな。人を助けるのが仕事なんだ。あれ?天使ってそもそもどういう仕事なんだっけ?考えたことなかった。まぁいいや。とにかく愛くるしい天使。オレを助けてくれた。それだけ。それでいい。何の問題もない。
麗紗は、オレの体を洗ってあげる、髪も洗わせて、と言ってきたけど、オレは、ちょっと湯に浸かりすぎたせいで、ぼーっとしてるからといって、そのまま何とか、風呂場を抜け出した。ヨロヨロと体を拭いて服を着て、やっと居間まできて、ソファに倒れ込んだ。
「勇華、ほんとにのぼせちゃったんだ。ちょっと熱かったかな。麗紗、熱いお湯、全然平気なんだけど」
麗紗。セーラー服を着ている。髪はさらさら。ドライヤーを済ませてきたんだ。
「勇華、オレンジジュースとウーロン茶どっち飲む?」
「……オレンジジュース」
麗紗が、オレンジジュースを入れたコップを2つ持ってくる。あれ? 冷蔵庫に、オレンジジュースなんてあったっけ。
「これも買ってきたんだよ。オレンジジュースとウーロン茶。お風呂上がりに一緒に飲もうと思って」
「ありがとう」
オレは気力を振り絞って、ソファに身を起こし、オレンジジュースを受け取って飲む。
麗紗。今朝、友達になろうって言って別れてから、カレーライスに風呂に、風呂上がりのジュースまで、あれこれ考えて用意してオレの家に乗り込んできたのか。至れり尽くせり。用意周到というか。
冷たいオレンジジュース。頭と体が、少しだけ、しゃんとする。
「勇華の髪、びしょびしょ。そのままじゃダメ。麗紗が乾かしてあげる」
うむ。風呂から出たとき、とてもドライヤーどころじゃなかった。ソファにたどり着くのがやっとだったんだ。
麗紗が、ドライヤーとタオルを持ってくる。ソファに座っているオレの首にタオルをかけ、ドライヤーをかけてくれる。抵抗できない。別に抵抗する必要ないし。
天使が髪を乾かしてくれるんだ。すべてよし。
「前はよく、麗奈の髪、乾かしたり、編んだりしてたの。麗紗、麗奈の髪、大好き。触ってると、本当に幸せ」
姉の話になると、麗紗、気持ちが高ぶるようだ。
麗奈の髪か。漆黒の艶やかな髪。確かにあれはいいな。
「でも、高校に入って少ししてから、麗奈、麗紗に髪を触らせて来れなくなっちゃったの。もう大人だからって」
すごく悲しそう。
「麗奈、麗紗の髪を編んだりしてくれたのも、自分でしなさいって言って、やってくれなくなっちゃったの。高校生になると、そんなに急に変わるものなのかな。大人になるって、一緒に髪いじったりしちゃいけないものなの?」
麗紗、妙に真剣な口調だ。
大人になる……まぁ。高校生になったら、そろそろ、いろいろ将来とか、ちゃんと意識しなくちゃいけない……のかな。オレは高校生になりたての頃は、何も考えてなくて、ただただ女子高生ライフを満喫しようとか、そんな呑気な感じだったけど。あのお嬢様、麗奈は、なんだか立派な将来の目標があるって言ってたよな。それに部活にも打ち込んでいるし。オレとは違うんだ。
で、大人になるってのと、姉妹での髪がどうとかと、関係あるのかな。オレにはよくわかんない。まぁ、優等生の子だからな、きっと何かあるんだろう。
オレは何を言えばいいのか? オレンジジュース飲ませてもらって、髪を乾かしてもらって。なんだか。少なくともオレは大人じゃない。赤ちゃんみたいだ。天使にあやされている赤ちゃん。
「ごめんね」
麗紗が言った。
「麗奈のこと、勇華にはわかんないよね。麗紗だって、わかんないんだもん」
うん。わからない。麗奈のことがよくわかるようになる……それは、それは、きっと、
オレが、本物のヒーローになった時。オレが本物のヒーローだと麗奈に、わからせた時。
なんで、そんなこと思ったんだろう。でも、ふと、そう思ったんだ。オレのヒーローの坂道の上、その先に待つもの。
麗紗、ドライヤーを止める。
「乾いたよ」
「ありがとう」
「ねえ」
麗紗の声のトーン、ちょっとだけ変わった。
「勇華、勇希から、麗奈のこと何か聞いてない? 勇希、学園で麗奈の隣の席なんだよね?」
うご、
危うく、あれこれの設定を忘れるとこだった。オレは、勇希の双子の妹の勇華でーー
ええと。なんて言えばいいんだろう。あれこれ言うと、またややこしくなりそうだ。とても収拾がつかなくなる。ここは、
「ごめん。勇希からは、学園の話、全然聞いてないんだ」
「そう」
麗紗の声が沈む。
「麗紗、ちょっと、気になってるの」
「うん?」
「もしかしたら……麗奈に好きな人ができたんじゃないかって」
うごご……
なんだか話が急に。
そしてーー
オレを見つめる麗紗の瞳。
妙な光が。
爛々と。




