第139話 姉妹のふれあいすれ違い
「ただいま」
麗紗は、蘭鳳院の豪邸へ帰宅した。
時間を見る。姉は、まだ部活だろう。麗紗も部活はやっていた。管弦楽部だ。麗紗の楽器はヴァイオリンである。昔から好きでヴァイオリンを弾いていたが、プロを目指しているわけではない。楽しく弾ければいいやという気持ちだった。所属しているのは、必死に練習に明け暮れるAグループではなく、楽しみたい派のBグループだった。
「麗奈が帰ってくるまで、ちょっと練習しよっかな」
蘭鳳院家には、完璧な防音設備のある、広い音楽室があった。もっとも、蘭鳳院の豪邸は、木立というよりちょっとした森、鬱蒼とした樹々に囲まれた広大な敷地の中にある。防音設備なしで演奏しても、近所迷惑にはならない。防音設備は、もっぱら家族の迷惑にならないためだ。
麗紗は、セーラー服のまま、愛用のヴァイオリンを手にする。やがて、音楽室に、美しい音色が響き出す。
麗紗はAグループに上がれ上がれと言われている腕前である。夢中で弾いた。高く低く、早く緩く。旋律が幾重にも重なって。
ひとしきり弾いた。
ふうっと息をつく。
「麗奈はまだ帰ってこないかな」
その時、びくっとなった。帰ってきたらどうすればいいんだろう。今までだったら、帰ってきた麗奈にすぐ飛びついて、じゃれついて、いっぱいおしゃべりして。そして麗奈にとびきりの優しい笑顔で、お姉さんはやることがあるから、その辺にしてねと言われて、はーいと言ってーー
でも今はどうだろう。何か変わった。急に。
「麗紗、あなたはもう、中学3年生。来年は高校1年生よ。いつまでも子供のままじゃダメ」
そう言われる。
いつまでも、子供のままじゃダメ。でも、急に突き放されるのはーー
胸が痛い。
ヴァイオリンの弦を持つ手。もう動かす気になれない。麗紗は楽器を置くと、音楽室を出る。
「お帰りなさいませ」
メイドの声がする。正面玄関の方で。麗紗の胸が疼く。思わず走っていく。
「ただいま」
麗奈だ。天輦学園高等部の、セーラー服。
妹から見ても、うっとりする、冴え冴えしい美しさ。
本当に姉は完璧だ。誰よりも誰よりも、美しく。そして気高く。
宏壮な邸宅の正面玄関。姉妹は、見つめ合う。
どうしよう。麗紗は思った。このまま飛びついて、抱きつくのはーー
すごくそうしたい。麗紗の頬が、ぽっと桃色に染まる。
◇
蘭鳳院家の居間。大きなテーブル。たっぷり10人は並んで座れる。
麗奈と麗紗、2人だけ。向き合って座っている。
白いテーブルクロス。大きな花瓶の薔薇。お客がいないときでも、完璧な豪勢さだ。
夕食の時間だ。両親は、仕事だ社交だで、留守にすることが多かった。でも、姉妹は一緒だった。ずっと。麗紗は麗奈がいればそれでよかった。麗奈がいれば寂しくなかった。安心だった。
執事の逢留十が大きな銀蓋銀皿を運んでくる。料理は、腕の立つ家政スタッフが、交代で担当していた。家政スタッフトップである執事の逢留十は料理までしなくていい立場だったが、本人が料理の腕自慢で、主一家に、我が料理を振る舞いたいと、何かと買って出ていたのである。
「お嬢様、さぁ、どうぞ」
逢留十が、てきぱきした、そして、優雅な動作で、皿を並べ、銀蓋を外す。
「本日のお夕食はーー」
逢留十は60前の初老の男性。長身で肩幅が広く、がっちりとした腕と大きな手。眼は優しい。自分の自信作料理を胸を張って勧める。主一家、ことに、二人のお嬢様姉妹が大好きなのだ。
「アサリのスープに、春野菜とエビのキャセロール蒸しでーー」
逢留十の説明に姉妹は礼儀正しくうなずき、笑顔でありがとうと言う。
「では、麗奈お嬢様、麗紗お嬢様、ごゆっくりと」
大仰に一礼し、逢留十は引き下がる。
「いただきます」
姉妹は、ナイフとフォークを手に。
豪華な夕食。しかし、麗紗は、逢留十の自信作よりも、姉のことで頭がいっぱいだった。正面玄関で。結局、麗奈には抱きつけなかった。麗奈を前にしても、体が動かなかったのだ。もうよしなさい、といわれるのが怖くて。麗奈は優しい笑顔を向けてはくれるのだけど。
姉と線を引いてしまっている。麗紗は悲しかった。胸が締め付けられる。これでいいのかな。いつまでも子供のままでいちゃダメ、そう言われた。こういうのを、姉は望んでるのかな。
麗奈に拒絶される? そんなこと。麗紗は、ぶるっと震える。あるわけない。お互い、ちょっと大人になった。それだけ。
それだけーー
なのかな。




