リュシセスの花 ⭐︎エステル視点⭐︎
リュシセスの花、などとくだらない呼び名が付いたのはいつのことだっただろう。
リード伯爵家の娘として生を受けたからには義務を果たさないといけないと厳しく教えられてきた。
素直に研鑽を積み、気がつけばリュシセスの花と呼ばれていた。この国随一の美姫、という表現らしいけれど、それを誉れとしてとらえるほど純粋な気質ではなかった。
「花……か」
侍女のサリィが庭の花を花瓶に生けながら、ちらりとこちらを見た。
「花って、今だけってことよね? 萎れたら、枯れたらおしまい。それまで見て楽しむもの、でしょ」
サリィは口元に困ったような笑みを浮かべているだけで、答えなかった。なんとも言いようがなかったのだろう。
「枯れたリュシセスの花には価値があるのかしら」
ボンヤリとつぶやいても、答えなど見つかるはずもない。
「さぁさぁ、来月にはアカデミーに入学なのですから。仕立てた動きやすいドレスの試着が待ってますよ」
サリィが明るい声で言った。
リュシセス・アカデミースクール。
かつて父や兄が通っていた時代には男子の入学しか許されていなかった。昨今の革新派の活躍で議会で承認されてから、アカデミーに娘を通わせることが教養のひとつのようになり、貴族中心に積極的に進学させるようになった。
父のように交渉術に長けているわけでも、兄のように秀でた魔術もない私は大したことのない生活魔法が少し使えるだけで、魔法を使えない人々と何ら変わりがない。アカデミーに通って何になるのか、少し不貞腐れていた。
アカデミーは神殿の隣に位置し、多くの神官も出入りしており、荘厳さと華やぎを併せ持っていた。男性陣はそう違いは顕著ではなかったけれど、女性陣は貴族であっても色味を抑えたドレス、平民にとっては一張羅らしいワンピースなど少しずつの違いが面白く、私は知り合いの令嬢たちとともにたくさんの人々を眺めていた。
「そういえば今年、一番で入学した方! 六歳から神殿で神官候補生だった方だそうですわよ」
「異例の候補生だったのですって。神力が出現しないにも関わらず、特待生扱いで」
「お父様から聞きましたわ。どうやら……よみがえりのなり損ない、だそうよ」
「まぁぁ! それは肩身が狭いわね。落ちこぼれなんて」
リュシセス国にはごく稀に、前世の記憶を持ち生まれてくる特別な子がいる。期待通りに育つ子もいれば、大した功績を残せぬ子もいる。どうやら件の候補生は後者なのだろう。本人の望むところではないだろうに、こうして無責任な噂が立つんだから可哀想なことだ。
「あ! あの子よ」
言われるがままに顔を向けて、びっくりした……ダサい。というか、手入れもなにも最低限、たぶん汚くなければいいでしょ?と言わんばかりの無法地帯だ。
顔立ちは悪くない、それに髪もきちんとまとめられている。失礼のない色彩のごく普通の服。
だけど印象的なのはギョロリと大きな目の下のクマだ。せっかくの美しい青灰色の瞳が恐ろしいものに見えるほど、黒々としている。
「……ユージェニーよ」
絶句した令嬢たちのなかのひとりが口を開いた。
「一昨年、隣国からお客様がいらした時に神殿に通訳を頼んだ時に来てくれたの」
一昨年といえば。二年も前だ。
「十四で通訳を?」
普通に話す、読むだけでなく通訳を仕事として請け負うというのは習得レベルが違う。
「驚くのはそこだけじゃないわ。四カ国語、話せるの。商談もスムーズに進んだし、こんな若くてしっかりした通訳がいるなんて……とリュシセス国の学力レベルに感動してお客様はお帰りになられたわ」
ユージェニーは淡々と歩みを進めていく。まるで自分が異質だと良く知っているかのようだ。空気が違う。彼女の周りだけ、奇妙にひっそりとしているのだ。
「おい、ユージェニー!」
こっちだ、と人混みの中で手を上げた男性を見ても表情ひとつ変えなかった。背はさほど高くないが細身で整った顔立ちの、砂色の髪をした男性だ。明らかに神官候補生の雰囲気を漂わせ、あたりに虹色に見える魔力が散るのが見えるようだった。
「気を遣わなくてもいいのに」
ユージェニーが見た目に似合わない、意外と可愛い甘い声を出した。甘えているとかではなく、声質が甘いのだ。
「は? 気なんか遣ってないし!」
顔を赤らめた男性は明らかにユージェニーに気がある。気がついていないのか、気が付かないフリなのか、ユージェニーは甘い声色とはうらはらに兄弟と接するような気軽さだった。
「……可哀想に」
誰ともなしにそう呟き、ふたりから目を逸らした。
私はきっとユージェニーよりも恵まれた、高度な教育を綿密に受けたはずだ。だけどなにひとつ、彼女の域に到達していない。
アカデミーにいる誰もが、彼女より劣っているという事実を噛み締めた。悔しくないとはいえない。だけど才能か努力の差があるのは歴然としていた。
何かあるたび、ついユージェニーの一挙手一投足を見つめていた。彼女は全体にそつなくこなし、作法は苦手のようだったがなんとかこなせるよう努力をしていた。
彼女の才に嫉妬した意地悪な生徒たちが悪口を言っているのも聞こえてはいたが、泣くことも怒ることもなく、ただ飄々としている彼女に私はなにも言えなかった。令嬢同士でもある小競り合いは本人にしか解決出来ない。悪意の躱し方も社交術の一環だ。
最終学年になっても、私と彼女に大した接点はなく、茶会の隣同士に席が誂えられた今が一番と言っていいほど近い。
反対隣が既知の令嬢だったこともあって、なかなかユージェニーと言葉を交わす機会がやって来なかった。さすがに話しかけもしないのは礼儀に反すると思っていると、私の方をじぃっと見つめている大きな青灰色の瞳が目に入った。
突然ユージェニーが私の方へと身体を傾けて来た。腕に肘を当たり、倒れるのを防ぐために引き戻そうとしたカップがユージェニーの方へと倒れ、紅茶が勢いよく飛び出してワンピースの上で弾けた。防水処理が施されていなかったのだろう、大きなシミを作ってしまった。
「まぁっ!」
自分のワンピースが汚れてしまったのに、なぜかホッとした顔を見せたユージェニーをびっくりして見つめた。
「申し訳ありませんッ!」
ユージェニーの謝罪の後ろでヒソヒソと、平民はやはりマナーが……などといういつもの陰口が広がった。
わたしにあの陰口を止められるような魔術が使えれば良かった。ユージェニーのように飄々としてはいても、陰口は胸をえぐるはずだ。
ハンカチで紅茶をささっと拭き取った。私のほうが身分と影響力があるのだから、なんていうことではないと示せれば、少し風向きが変わるはずだ。
何を気に入ったのか、ユージェニーは私の手元を惚れ惚れと眺めていた。その横顔の無邪気さに、私は胸の高鳴りが止まらなかった。
私はただ、この子と仲良くなりたかったのだわ……!
すとんといろいろな感情が腑に落ちた。ユージェニーを連れて馬車に乗りこんだ。
「さすがリュシセスの花……」
ユージェニーが呟き、キラキラとした目で私を見ていた。
褒め言葉なのだろうけど、私は一気に悲しい気持ちになった。
「その呼び名、好きじゃないの。花は……萎れたら、枯れたらおしまいだもの」
ユージェニーは首を傾げた。
「咲き終わってしおれた花は、結実するのですよ」
たぶん、なんの気ない言葉だった。
「結実……」
ただ私の心を覆っていた卑屈な感情に日々にヒビが入り、破れていった。
「枯れたら、価値がなくなると思っていたわ」
「実を結ぶのです。努力と同じですね」
容色が枯れた時に、結実するものがあるように。
私の中で何かが決定的に変わった日だった。
私は思わずにこりと笑った。ユージェニーがぽわんと頬を染めた。
「なんて可憐な笑み……! 本当に花が綻ぶようでなんて美しい……」
独り言が全部飛び出してしまったような言い方に、私は吹き出した。
「もう、ユージェニー! あなたお気持ちがぜーんぶ、口から出ていてよ」
こんなに無邪気に笑ったのはいつぶりかしら?
私は必ずいつか来る日のために、頑張ろうと心に誓った。