プロローグ ユージェニー
十五年前 王都
時を同じくしてポールソン伯爵家の馬車が走り去った貴族街と一般道が交わる大通りを一本入った広場の近くで平民の子どもたちが数人遊んでいた。そのなかの特に小さいひとりにひとりの子どもが近づいて手を振りかぶった。
バシンッ!
三歳のユージェニーが感じたのは、痛みよりもその音に対しての驚きだった。音の後にヒリヒリとした痛みが広がってようやく、自分より大きな男の子になぜか叩かれたのだということに気がついた。
「お前、父ちゃんいないんだろ!? お前の母ちゃんは戦地へ行く騎士に騙されたバカ女だ」
ユージェニーはぽかんと男の子を見た。彼の言葉の意味の半分も理解できない。なぜ大きな声を上げて、ニヤニヤ笑っているのだろう?
「お前はそのうち、売られるって聞いたぞ」
理解が出来ず、ユージェニーは子猫のようにまんまるな青灰色の大きな瞳を見開いて、男の子を見つめていた。
何を言ってるの……?
「こら、何をケンカしているんだ!?」
近くのパン屋の二代目ダリルが速足で近付いてきた。同じ商店街のカフェ兼酒場で働く女性の娘……小さなユージェニーが男の子に叩かれ、意地悪を言われているのが店頭にいて聞こえたからだ。
確かにユージェニーの母親は仕事先で出会った王都の花形職業の魔法騎士のひとりと恋に落ちて、結婚前にユージェニーを授かった。
そこまでならば、よくある情熱的な若者同士の結婚譚だ。しかし運命のいたずらか、一番幸せなはずの時期に帰ってきたのは、モンスター討伐に出かけた彼の戦死を告げるたった一枚の紙だけだった。
大きなおなかを抱えて訃報に泣き叫ぶ背をさすり、一緒に目が腫れるほど泣いたのはダリルの母親だった。
彼の恋人と騎士たちが顔見知りだったこと、遺品の中に提出するだけの婚姻届けがあったことから、報奨金は母娘に授与された。
しかし正式に籍が入っていなかったせいで寡婦年金は受け取れず、母娘はボロアパート住まいだ。それでもふたりは幸せそうだ。そんなふうにふたりで笑顔で暮らしていても、彼女たちを見守るのはパン屋たちのような優しい人間だけではない。
妬み、嫉み、嫌悪……いろいろと複雑な感情を大人たちが持っていることをダリルは知っている。
「おい坊主! そのお嬢ちゃんの父ちゃんは、英雄様だぞ」
あの戦いに赴き、虹のたもとへと旅立った騎士は皆英雄と呼ばれている。身を挺し、王都を守ったのだから。
「英雄……? 嘘だ、そんなの」
男の子は顔を真っ赤にして腕を振り回し始めた。ダリルのような大人に指摘されたこと、周囲の注目と冷たい視線を集め始めていることが気まずく、恥ずかしかったのだろうか。
侮辱されたことも叩かれたこともなぜなのかを理解していない幼いユージェニーはぼんやりしていた。パン屋がユージェニーの肩に手を伸ばすのと、男の子の手がその小さな身体に手があたったのはほぼ同時だった。
「危ない!」
バランスを崩して倒れたところにあったベンチにごちんっとユージェニーは頭をぶつけ、気を失った。
慌てたダリルはユージェニーを抱えた。驚いたのか男の子は人混みに交じり、走って逃げてしまったが、追いかけるか迷うことはなく、彼はまっすぐに神殿に走った。
彼のその迅速な行動がユージェニーの命を救ったと神官たちは話し、この日をきっかけにパン屋とユージェニーの母親が親しくなったのだけれど……それはまた、別のお話し。