私の前に彼が現れた日
二千四百八十一年、葵月の二十七日。晴れ。
黎明時。私は主と共に、私が呼ばれた時の部屋にいた。
「主、此処で何をするんだ?」
私が主に聞くと、主は小さな札をヒラヒラとさせて微笑んだ。
「新しい妖を、と思ってね。ちょうど新しい要石をおじいちゃんから貰ったし」
そう言って主は服のぽけっとから小さな透明な石を取り出した。
私の要石は黒いものだったからか、透明な其の要石が珍しく見えた。
「要石は透明なんだな」
「最初はね。縁を結んだ瞬間に其の妖の色に染まるの。鴉天狗なら黒、火車なら赤、みたいにね」
火車は赤なのか。
主の言葉から、私は最初にそう思った。
「透明な要石を貴方達妖の霊力で染めるようなものだから。要石の色は霊力の色って感じかな」
「では私の霊力の色は黒なのか……」
――主の霊力は何色だ?
そんな言葉、私は口が裂けても言えないだろう。
「さて……」
主が部屋の中央に透明な要石を置いた。そして、手に持っていた札に主が気を込めると、札が淡く光る。
淡く光った其の札を要石に貼った。すると要石から光が漏れ出し、部屋が眩しくて目も開けられない程の光で満たされた。
目を開けた先に居たのは、白い着物のよく似合う青年だった。
「ある――」
私が主の方を見て声を掛けようとして、私は口を噤んだ。
主は目を見開いて、瞳を揺らしていた。
彼をジッと見つめ、何かを言いたげな表情を浮かべる今の主に、私は声を掛ける事が出来なかった。
白い着物のよく似合う彼は目を開けると、私達に気が付き口元が弧を描く。
「白龍だ。神様とも妖とも言われる俺が来て、言葉も出ないか?」
彼――白龍の言葉に反応する様子は無く、主は只々ずっと白龍を見つめている。
白龍も其の空気に耐えられなくなったのか、頭を掻いて微笑んだ。
「あー、こういう時なんて言うんだ?えーっと。初めましてだな」
白龍が其の言葉を言った瞬間、主の目がこれまでに無い程見開かれた。そして悲しそうに目を閉じ、開かれた頃に何事も無かったかの様に主は口を開いた。
併し主は悲しそうな、愛おしそうな瞳で彼を見つめている。
「初めまして、白龍。私はこの屋敷の主。今から屋敷を案内するね」
「ああ!宜しく頼むぜ」
主は白龍に微笑んでいたが、其の瞳の奥では悲しんでいる様な、失望している様な感情が感じ取れた。
そんな主の姿を見て、私の胸はチクリと痛んだのだった。
其れから暫くは主と共に、白龍に屋敷を案内して回った。私の時と同じ様に。
「そういや、きみも妖なのかい?」
白龍がふと私に尋ねた。
私は微笑んで頷き、軽く頭を下げた。
「自己紹介が遅れたな。私は鴉天狗。お前と同じく主に呼び出され、縁を結んだ妖だ」
「そうか。そうか。宜しくな、鴉天狗」
「あぁ」
私と白龍の会話を主は黙って聞いていた。
其の頃には白龍が来た時の事が嘘だった様に、何時もの主に戻っていた。
あの悲し気な、愛おし気な表情は何だったのかと思う程に。
私と白龍が握手をしていると、廊下の先で物を落とす様な大きな音が響いた。
目を向けると其処には火車が沢山の本を落とし、目を見開いて此方に目を向け立ち尽くしていた。
「あいつも妖か?」
「ああ。彼は火車と言って――」
白龍の問いに私が答えていると、火車が彼の胸元に飛び込んだ。
火車は白龍の胸倉を掴んで、グッと自身の顔の方に近付けていた。
「いつまで待たせんだよ!アンタが来るまでこっちは!――」
火車が其処まで言った時、主が手で其れを制した。そして首を横に振る。
其れだけで火車は主が何を言いたいのか気が付いたのだろう。
目を見開いて白龍から手を離すと、主の肩を掴み、縋り付く様にしゃがみ込んだ。
「嘘でしょ?主、嘘って言ってよ……」
火車の必死な言葉とは裏腹に主はただ首を横に振っている。
「どういう事だ?」
白龍が尋ねて来たが、其れは私が聞きたい。
私は何が何だか分からず、黙って首を横に振るしか無かった。
白龍は私の表情や行動から何かを感じ取ったのだろう。其れ以上は何も話さなかった。
火車は其れから少しの間ずっと主に縋り付いていたが、主の返答が変わらない事に諦めたのか、立ち上がり白龍の方を見た。
其の表情は怒っている様な、悲しんでいる様な何とも言えないものだった。
「アンタ、本当に俺の事分かんない?」
突然の言葉に白龍も驚いたのだろう。白龍は言葉を失ったまま火車を無言で見つめている。
火車は其れで分かったのか、俯いて歯を食い縛った。
「ごめん、忘れて……。俺は火車。これからよろしくね」
火車は俯いたままそう言うと、スタスタと本を落とした所まで歩いて行き、本を全て拾うとそのまま私達とすれ違って去って行った。
「どういう事なんだ?主」
私は主に釈明を求めた。
白龍も先程の事について気になるのか、主をジッと見つめている。
主はジッと私の瞳を見つめ返していたが、はぁと溜息を付くとポツリと呟いた。
「過去に囚われているんだよ。火車も、私も、ね……」
主の言葉に何かが込められている事は分かったが、其れが何なのかは今の私には分からなかった。
そして、私の隣で白龍が静かに顔を歪ませ、頭に手を当てている事には、此の時の私は気が付いていないのだった。