私が戦った日
二千四百八十一年、五月雨月の二十六日。晴れ後雨。
朝餉を終えた私は特にする事も無く、ただのんびりと縁側に座って麗らか空気を楽しんでいた。
ふと裏庭に目を移した私は、美しい庭園の様な裏庭には似つかわしく無い物がある事に気が付いた。
鳥居だ。
其処にあるには少しばかり古く、何処か由緒正しい神社などから取って来たかの様に立派な鳥居。
何故あんな所にポツンとあるのだろう。と、私が目を凝らして鳥居を見つめていると、次の瞬間には私の視界一杯に少年の顔が映り込んだ。
私が驚いて身を引くと、其処には先日覚を追い掛け回していた少年、禍の姿があった。
「ど、どうかしたか?」
私は声を詰まらせながら禍に尋ねると、彼は私をジッと見つめて来た。そして持っていた菷で、頬杖をついてニカッと笑った。
「きみが鴉天狗だろ?雪姉が認めたっていう」
「雪姉…が誰かは分からんが、私が鴉天狗で間違いない」
私が鴉天狗である事を認めると、禍は目を輝かせて其の場に菷を捨てると、私の方に駆け寄り私の隣に腰掛けた。
「雪姉は雪女っていう妖。ぼく、きみに会えるのを楽しみにしてたんだ!雪姉は早々に誰かを認める事が少ないから!」
元気一杯の声で禍は私に話し掛けてくれるが、とても早口な所為であまり詳しい内容が聞き取れない。
聞き取れた部分のみで内容を理解するが、どうやら禍は私と初めて会ったと思っているらしい。
併しわざわざ訂正する事も無いと思い、私は黙って禍の話を聞いていた。
「ちょっと!何サボってんの!?えんちゃんが言ったところの掃除は終わったの!?」
と、縁側に続く廊下から少年の声が聞こえて来た。其の声に禍がビクッと身体を震わせる。
声の方に顔を向けると、其処には煙々羅の姿があった。
「あら。鴉天狗さんもいらっしゃったのね」
煙々羅は私の姿を見つけると、にこやかな表情で此方にやって来た。其れも、私の隣に座る禍を睨み付けながら。
「わーくん。掃除は終わった?」
先程よりも低い煙々羅の声が響く。其の声に禍はビクッと再度身体を震わせると、縁側から飛び降りて捨ててあった菷を手に取った。
「掃除してくる!」
そう叫んで禍は裏庭の奥の畑の方へ走って行った。
私の隣まで歩いて来ていた煙々羅は禍が走って行った方を見ながら、腰に手を当てて立ち止まった。
「まったく。わーくんはやれば出来る子なんだから、最初からやればいいのに……」
そう言うと、煙々羅は私の方に視線を移した。
「鴉天狗さんも巻き込んでごめんね?」
「否、問題無いさ」
私がそう答えると、煙々羅は手を後ろで組んで、太陽の様に明るく微笑んだ。
「ありがとう」
私も煙々羅に向かって微笑んでいると、背後から私の顔に影が掛かった。
見上げると其処には、私の顔を覗き込む主の姿があった。
突然近くにあった主の顔に、私は少し照れ臭くなり主から顔を背けた。
「屋敷に馴染めたようで安心した」
主が私の顔の上で微笑んだのが、私の視界の端に映る。
「鴉天狗、ちょっと話したいことがあるから、黄昏頃に執務室に来てくれる?」
「あ、ああ。分かった」
主の言葉に私が返事をすると、主はまた微笑んで私の後ろを通り過ぎて行った。そして、縁側に面した執務室の障子を開けた時、主は再度此方に顔を向けた。
「待ってるね」
主の言葉に私の心臓は跳ね上がった。主の笑顔が増えた事で、少しずつだが私を信頼してくれている様だった。
其れと同時に私は主の笑顔を見る度に、私の心臓は不思議と嫌では無い痛みを訴えてくる。
私は未だ熱いままの顔を片手で覆うのだった。
黄昏頃。私は主に言われた様に執務室に座っていた。
昼から天候が急に悪化した所為で、雨の音が執務室に響いていた。
主は何を言うでも無く、私の前で机に向かっている。主の隣には幾つかの本が積み上げられていた。
コンコン。
ふと障子の木の部分を叩く音が執務室に響いた。
「主ー。入るよー」
そう声がかかると障子がスッと開き、積み上げられた書物を持った火車が入って来た。
「わっ!鴉か……。居るなら言ってよ」
火車は私を見ると大袈裟に驚き、後ろに退いた。
私が此処に居る事を火車は知らなかったらしい。主は私が此処に来る事を火車に伝えていなかったのだろうか。
まぁ、伝えていなかったから、火車はこんなに驚いているのだろうが。
「済まんな。主から呼ばれて、こうして主からの言葉を待っているのだ」
「えっ!主が呼んだのにほったらかしてんの?」
「まぁ、そうなるな」
私がそう答えると、火車は持っていた書物を其の場に置き、主の肩に手を置いた。
主は其れに反応する事無く、つらつらと筆を走らせている。
「あ、る、じ!鴉に言う事あるならさっさと言いなよ!」
火車が激しく身体を揺らした為か、主は走らせていた筆を止めた。そして火車の方を一瞥すると、溜め息を付いて私の目を見つめた。
「鴉天狗。そろそろ屋敷に慣れたよね?朝方も楽しそうに話してたし」
私は思っても見ない言葉が主の口から出て来た事に驚いた。だが主の問いに答えない訳にもいかない。
「ああ。皆親切で優しいからな」
私の言葉を聞いて主は微笑んだ。優しい、親が子を見つめる様な微笑みだった。
そして、主は持っていた筆の様な物を机に置くと、膝に手を置き再度私を見つめた。
「じゃあ、今日から鴉天狗には当番に参加してもらう。最初は戦当番の夜ノ陣から。貴方にとっては最悪の状況だけど……」
まさか戦当番からやらせて貰えるとは思っていなかった。併しながら、主の言う通り私にとって不利な状況な事には変わり無い。
今日は雨が降っていて視界が悪い。加えて朝から降り続く雨の所為で下が泥濘んでいて足場も悪い。
何より戦場は夜だ。ただでさえ視界が悪いのにも関わらず、目の前は真っ暗になる。普通であれば、暗闇に目が慣れれば大丈夫なのだが。
――何を隠そう私は鳥目なのだ。
主は其れら全てを分かっていて私を戦場に送り出すつもりなのだろう。主は何時だって私達の考えを上回る。判断を間違える事は無いに等しいのだ。
「ああ。分かった」
私は少しの間目を閉じ考えた後、主に視線を向けながら答える。主は心配そうに私を見ていた。此れまで向けた事の無い視線を私に――
またキュンと心臓が痛んだ。矢張り病気にでもなったのだろうか?
併し、私の心臓が痛む時は何時だって主が前に居た。特定の人物の前でのみ発症する病気などあるのだろうか?
「夜ノ陣は午後九時から。それまでによく準備しておくように。共に出陣する妖は……多分、自分から話しかけてくると思うから…」
主はそう言って、もう戻っていいよ。と視線だけを障子に向けた。では、失礼しよう。
私は立ち上がり、障子を開けて外に出た。
「失礼する」
そう言って私は障子をスッと閉めた。
私の耳に雨の音だけが響く。まだ黄昏時の筈なのに雨の所為で、辺りは暗くなっている。
執務室は裏庭に面しているからか尚更廊下は暗い。執務室からの灯りで廊下や裏庭に、私の影が映し出されていた。
其れはまるで――
「鴉の様だな……」
私は沈んだ口角を無理矢理上げ、微笑むと此処では無い何処かへ行こうと足を進めたのだった。
小夜時。私は支度を整え屋敷の裏庭に傘を差し立っていた。
此処で待っていろ。と共に戦場に向かう覚に釘を刺されたのだ。
併し屋敷の裏庭は季節の草花と異様な空気を放つ鳥居しか無い。一体此処で何をするというのか。
「鴉天狗!」
声のした方に目を向けると覚が傘も差さずに此方へ走って来ていた。服装は何時ものじゃーじと違い、西洋の格式張った様な衣装を見に纏っていた。
「そんなに急がずとも、まだ出陣にはまだ早い」
「それはそうだけど、早めに準備しておいた方が慌てなくて済むから」
そう言って覚は異様な存在である鳥居に手を添えた。フォンと鳥居に何かが浮き出る。
私は覚を傘に入れると同時に其れを見た。文字の様だが、雨の所為かぼやけていて見えない。
「此れは何と書いてあるのだ?」
「讃藩だよ。ボク達が今日行く戦場の場所」
聞いた事の無い場所だ。私の頭の辞書にも、そんな場所は見当たらない。
「ここはキミが存在していた時代よりも時が進んでいるんだ。知らなくても普通だよ」
覚は私の気持ちを読んだとでも言う様に、私の疑問を払拭した。
彼の濁った瞳が私を捉える。盲目であるのに、まるで私が見えているかの様に。かと思えば、雨の降り続く裏庭の一点を見つめた。
夜で辺りは真っ暗な上、雨で視界も悪く殆ど何も見えない裏庭を。ただでさえ盲目で何も見えていないだろうに。ただ一点を。ひたすらに。
私が覚に尋ねようと、彼の耳元に顔を近付けた時だった。
彼が私の手を引っ張り、鳥居の中に入って行く。私は驚いて思わず持っていた傘から手を離してしまった。
トサッと傘が音を立てて落ちた。
其れと同時に私の視界は暗くなったのだった。
次に目を開けた時に、私は見ず知らずの場所に居た。
周りには何も無い。建物も植物も人工物でさえ。あるのは足元に広がる砂浜と、ザザーンという音。そして、潮と雨の混ざる匂い。
「此処は、何処だ?」
暗さに目が慣れても尚、鳥目の私は辺りの状況が何一つ分からない。雨に濡れて身に着けている着物も重くなって来た。
気配も何も感じない。誰か味方が周りにいれば。
そうだ。そういえば――
「覚は何処だ?」
姿所か気配さえ感じられない。本当に何処へ行ってしまったのだ。
かといって、無闇矢鱈に動き回るのもよく無いだろう。取り敢えずは此の場に留まって――
手元に、桜の花弁と共に金剛杖が現れる。私は其れを持ち背後から感じた気配に向けて勢いよく振る。
「待って」
ピチョン。
金剛杖を其の気配に当たる寸前で止める。
其処に居たのは覚だった。併し、気配は覚だけのものでは無い。段々増えている様だ。
「敵のお出ましか?」
「そうだよ。早急に片付けよう」
私は覚と背中を合わせ金剛杖を構える。一拍置き、私達は同時に敵に向けて飛び込んだ。
雨であまり見えないが、金剛杖を兎に角気配に向けて振り回す。
敵の形は様々。輪郭しか分からないが、動物に似た敵も居れば、綿雲の様に決まった形が無い様な敵も居る。此れが「アンノウン」という存在か。
金剛杖で凪払うと敵は墨の様に飛び散って消えていく。飛び散った物や雨が私の頬に当たる。水滴が瞼に当たり私は思わず目を瞑った。
「鴉天狗!危ない!!」
覚の声に私は振り返る。背後からの攻撃を避けようと身体を動かすが、避けきれず左肩に鋭い痛みが走る。
「……ッ!」
身体を回転させた遠心力で、右手に握った金剛杖を思いっきりアンノウンに打ち付ける。幸い其処まで深い傷では無さそうだ。こんな事で戦いを止める訳にはいかない。
「私を見くびって貰っては困るなぁ…!」
金剛杖に手を当て、其の杖に沿って手を動かす。手のあった場所から桜の花弁がヒラヒラと舞い、少しずつ刀の姿に変化していく。
先まで手を動かすと金剛杖の姿は消え、反りが美しい太刀の姿が現れた。私は其れを再度構える。刃に雨が当たり、切先から雫が溢れ落ちる。
太刀をアンノウンの群れに沿って凪払った。
暫く太刀を振るっていると、周りのアンノウンは一匹残らず消えていた。雨も何時の間にか止んでいた様だ。
「大丈夫?」
太刀を握ったまま立ち尽くしていた私に、覚が後ろから声を掛けて来た。私が太刀を離すと、太刀は桜の花弁となって消えて行った。そして、私は彼の方を向く。
「ああ、問題無いさ。幸い傷は浅い」
「でも、大事に越したことはないから。早めに切り上げようか」
覚はそう言うと、自身の懐から懐中時計を取り出し上部の突起を押した。すると、屋敷の裏庭にある物と同じ様な鳥居が、私達の目の前に現れた。
真っ暗な砂浜が広がる目の前の世界に現れた鳥居が異様な雰囲気を放っている。
「あなや……」
私が目の前の光景に驚いていると、覚が笑った。そして目の前の鳥居に触れる。
裏庭の時とは違い、文字などは現れず直ぐに鳥居の内側が光輝いた。まるで天国の門が鳥居の内側に開かれている様に。
「さぁ、帰ろう。鴉天狗」
覚が私に手を伸ばす。私は微笑みながら彼の手を取った。私達は二人で同時に鳥居を潜った。
私は戻って直ぐに、鳥居の側で待ち構えていた主に手を引かれ、とある部屋に主と共に入った。
部屋は中に布団と座布団、箪笥しか無い様な質素な部屋だった。部屋の中に入れられた瞬間、主は私を座布団の上に座らせ、心配そうな表情で口を開いた。
「怪我をした方の着物を脱いでくれる?治療するから…」
訳も分からなかった私は主の言う通り着物の左側を脱いだ。
主はこういった事には慣れているのか、私の腕を持ち隅々まで見ていた。真剣に向けられる瞳に、此方が先に恥ずかしくなる。
私の肩の怪我を見つけると、主は私の肩に小さな札を張った。ピリッと肩に痛みが走る。
「ちょっと我慢して」
主が其の札に手を当てると、札は淡い光を放ち元から私の一部であったのだという様に、私の肌に馴染んでしまった。
札の跡形も無く、其れは私の肌其の物だ。
「此れは……?」
「私の霊力を込めた札で、貴方の身体を修復したの。これくらいなら応急措置をして自然回復を待ってもいいんだけど、初めての出陣だったし、ね」
主は哀しそうに微笑んだ。
本当に何処までも不可思議な存在だ。私も、彼女も。
主は其の後、私に着替えて此の部屋の布団で休むよう伝えると、其のまま部屋を出て行ってしまった。
――今は主の言う通り休ませて貰おう。
私は着ていた戦装束を脱いで畳むと、布団の上に置かれていた私のじゃーじに袖を通した。
さて、休むか。と灯りを消そうとした時、コンコンと障子が叩かれた。
「なんだ?」
「火車でーす。洗濯物取りに来ましたー」
私がそう尋ねると、障子が開き火車が部屋に入って来た。
火車はそう言って畳んであった私の戦装束を手に取る。そして少し戦装束を見回すと、ニコッと私に向かって微笑んだ。
「初めてだったのによくやったじゃん。今日はゆっくり休んでね」
「ああ。有り難う」
火車はまた微笑むと、手を振って部屋を出て行った。障子がスッと閉じられる。
私は灯りを消し、敷かれた布団に入り目を閉じた。私の意識が遠くなり、其の日に幕を下ろしたのだった。