私が生まれた日
二千四百八十一年、五月雨月の十九日。雨後の晴れ。
瞼の裏が白い。ふっと目を開くと、視界に光が広がる。
明るさに目が慣れ始め、目の前の状況を脳が処理して行く。
私の目に最初に映ったのは年端も行かぬ少女、と目を丸くする青年。そして私の周りを舞う沢山の桜の花弁。
「えっ……」
青年の口からあり得ないという、吐息の様な声が漏れる。
併し青年とは対極的に、隣に立つ少女は死んだ魚の様な目で私の目を見つめ返している。
何処までも見通す様な、其の藤色の瞳に私は魅了された。其の間ずっと彼女は一言も言葉を発さない。
まるで、私の言葉を待っているかの様に――。
其処で私は気が付いた。自身の名を名乗っていない事に。
「私は……」
自分である筈なのに身体も、此の胡散臭い声も他人様の物の様でしっくり来ない。
加之、此処に来るまでの記憶が一つも無い。
記憶喪失?否、違う。胸に手を当て、脳髄に、心に尋ねる。
嗚呼。思い出せる。私は――
「私は鴉天狗。目が覚めたばかりで右も左も分からないが、宜しく頼む」
私は此の少女に呼び出させられたのだろう。併し、一体何故?
彼女が私を此処へ呼んだ理由は?彼女はどうやって私を呼んだのだろう?
私の脳に複数の疑問が浮かぶが、全てを見透かした様な彼女の瞳を見つめていると全てどうでも良く感じる。
「ようこそ、我が屋敷へ。歓迎します」
形式的な挨拶をする少女は、未だ私から目を離そうとはしない。
彼女は喜びとも悲しみとも取れない、併し無感情とも違う其の表情を浮かべ、丁寧に手を前で重ねた後、優雅にお辞儀をする。
「私はこの屋敷の主人であり、貴方達の主。今から屋敷を案内するから、何かあったら言って」
少女、もとい主は淡々とそう告げた後、自身の後ろにある障子へ此処から出るのだと言う様に手を差し出した。
其の時初めて、また改めて部屋の中を隅々まで見渡した。
煤で焼かれた様な焦げ茶の天井、其れを支える太い柱。真新しい様なピンッと張った四方の障子。先程まで桜が舞っていたにも関わらず何も落ちておらず綺麗な畳。
如何にも和風の家屋といった様な部屋だ。
主の案内の元、私は其の部屋を出る。
障子を抜けた先で真っ先に目に飛び込んで来たのは朝露の残る鬱金香が所々に咲いた美しい庭だった。
露に反射した朝日がキラキラと輝き、まるで私を歓迎しているようだ。
「気になる?」
ずっと主の隣にいた青年が私の方を振り返り笑った。
少し驚いた私は、其れを悟られない様にして青年を見た。
跳ねた癖毛気味の髪が朝日に照らされ露と同じ様にキラキラと輝き、其れに負けないくらいに輝く瞳が私を見つめ返して来る。
「あ。そういや俺、名乗ってなかったね。俺は火車。アンタと同じく主に呼び出されたの。よろしくね、鴉」
青年。――火車は私を歓迎しているようだ。
併し「鴉」と呼ばれるとは思っても見なかった。少し擽ったいが、良い物だな。
私との接し方を模索しながらも、話を続けやすい様に言葉を選んで話している事が感じられる。
では、私も其れに応えなければならない。此処で過ごす仲間になるのだから。
「初めて見るからな。併し、其れよりも気になる事がある」
「何~?」
火車の気軽な返事に私は少し戸惑いながらも、口角で弧を描く様に微笑む。
「私は何故此処に居る?」
私の言葉に火車は驚いた様に目を丸くし、言葉を失ったようだった。
其の様子を黙って見ていた主は火車の方を一瞥した後、はぁ。と溜め息を付き、私の目を見つめて来た。
「とある怪物と戦ってもらうため。私は妖降師と呼ばれる者で、貴方と縁を結び、呼び出したの」
「怪物……。では、他の妖らも戦っているのか?」
私が噛み締める様に呟くと、主は目を瞑って頷く。
其の行動を見た時の私は自分が思っているよりもずっと、目を大きく見開いていた事だろう。
――本来同じ様な存在同士である筈の妖と怪物が戦う?
まるで信じられなかった。併し、此の場に呼び出されている以上は信じざるを得ないのも事実であった。
「いきなり言われても分かんないよね?自分たちの事はゆっくり知っていったら良いって」
火車が困った様な微笑みを私に向けると、主は再び歩みを進めた。
雨上がり独特の匂いが鼻を掠める。
昨夜は雨が降っていたのだろう。と屋根から落ちる雫を見つめながら思い馳せていると、主がある一室の前で足を止めた。
余程私が珍妙な顔をしていたのであろう。主は私を一目見て障子をスッと開けた。
新しい畳独特の優しい匂いがフワッと漂い、まるで用意したばかりの様な埃一つ無い綺麗な部屋が視界に映った。
「此処は……」
「貴方の部屋になる場所。とりあえず、ここで着替えて。その格好じゃ動きにくいでしょ」
予想していなかった主の言葉に私はきょとんとしてしまった。
主を見つめたまま私は硬直していたが、私の脳が言葉と情報を処理し、身体に目に口に指令を与える。
「ああ。済まないな」
私はそう口にして主と視線を交わすと部屋の中に入った。
見回す。
――何も無い。
否、あるにはある。部屋の中心に置かれた衣装と備え付けの箪笥と棚、そして押し入れなどの収納家具といった物だ。
「着替え終わったら出てきてね。俺と主は部屋の外で待ってるから何かあったら言って」
火車の声が部屋に響き、ピシャと障子が閉められた。
其の後直ぐに私は置いてあった衣装を手に取った。そして、衣装を広げてもう一度畳の上に置き、まじまじと見る。
珍妙な服だ。上は着物の様に袖は長くは無いし、下は袴の様に膨らんでもいない。
私は今自分が着ている物を脱いだ。防具や狩衣を避け、袴を脱ぎ、着物や長襦袢などを脱いで行く。
私は脱いだ物を全て畳み横に避けると、広げて置いていた衣装を着て見る。
灰色の着物に当たる物を頭から被り袖を通す。少し緩いが、其の分楽ではある。
次に細い袴に脚を通す。腰まで上げると袴とは違い、伸縮性の素材の様で袴の様に落ちて来ない。此れもまた程よく緩く快適だ。そして、足袋に足を入れる。
最後に羽織に袖を通した。前側の開いた左右に金属の物が付いているが、此れは何なのだろうか。併し着る分には特に問題無い。
――此れは良い。先程まで着ていた衣装とは違い、袖が邪魔になる事も無ければ重くも無い。だが、矢張り珍妙である事には変わり無い。
「着替えたぞ」
私は障子を開け、両腕を広げ外にいた二人に確認を促した。
主は興味無いという様に一瞥した後、其の時偶然聞こえた雀の鳴き声の方へ視線を移した。併し火車はじっと私を見つめている。頭から爪先、言葉の通り隅々まで私を舐め回す様に見た後微笑んだ。
「うん。良いんじゃない?ちゃんと着れてるし」
火車はこういう衣装が好きなのだろうか?だが、火車の格好は先程まで私が着ていた様な着物に袴姿である。
逆に主は今の私と同じ様な服装をしている。
「そうか、なら良かった。併し、此の衣装は何という物だ?」
「それ?それはジャージだよ」
「じゃーじ……?」
聞き覚えの無い物だ。今の時代はそういう衣装もあるのか。
「そうそう。それ楽でしょ?もし寒かったら、このファスナー閉めてね」
火車が私の羽織の金属の部分を触りながら言った。
ふぁすなー。其れが此の金属の名前なのか。併し――
「どうやって閉めるんだ?」
「えっ!?嘘でしょ?これは、こうやって……」
火車が金属の両端を掴み、器用に片方へ入れ込む。入ったのを確認した後は大きな金属の部分を上に滑らせた。
私の顔の近くまでふぁすなーが迫る。思わず顔をグッと上に向ける。危うく肌や髪が巻き込まれる所だった。
「はい!出来た」
火車がふぁすなーから手を離し、私の胸をポンと叩く。
胸元を見ると確かに閉まっている。首元まで。併し、此れは此れで少し苦しさがある様に思える。
私は火車がしていた様にしてふぁすなーを持ち、胸元まで下げる。幾分か楽になった。
「済まないな、火車。礼を言う」
「どういたしまして」
火車が満面の笑みを浮かべ私を見る。私も思わず口角を上げた。
「終わった?」
先程まで外を眺めていた主が、其の瞳で何時の間にか私達を捉えていた。
「ああ。大丈夫だ」
「じゃあ、次に向かうよ」
私の返事を聞き、主は廊下に視線と身体を向け歩み始めた。
「使う頻度が多い所から案内していくから」
そう言って主は廊下を曲がり両手に部屋が並ぶ廊下に出た。
先程とは打って変わり木材の匂いが鼻を刺激する。落ち着く香りだ。
暫く進んで行くと主は足を止めた。
「ここは厠。青い札がかけられているのが男性用で、赤い札がかけられているのが女性用。だから、鴉天狗は青い札の方へ入って」
主が札の掛けられている扉をコンコンと叩きながら言う。
私の身体的特徴は男。だから、青い札の方という事か。
「此の屋敷には主の他に、女性が居るのか?」
「もちろん。私が縁を結んだ妖達はまだ少ないけど、それでも女性はいるよ」
主は私の目を見つめたまま頷いた。
「こっちの浴場も同じで、青い暖簾が男性、赤い暖簾が女性ね」
「ああ。分かった」
私の返事を聞くと主は廊下の先に歩みを進めた。
其の後ろに火車が続き、私も二人を追い掛ける。
主が案内してくれる場所は余りにも多く、何時の間にか夕焼けが私達を歓迎していた。
――併し。
「案内をして貰っている間、誰とも会わなかったな…」
そうだ。私は此処に来てから間も無いが、屋敷をほぼ回ったにも関わらず、主と火車以外の人物とは遭遇していない。
私がそう呟くと、主と火車は振り返り私を見た。
主は何時もの如く何を考えているのか分からなかったが、火車は口元に手を当て考える様な仕草をすると「あぁ!」と思い出したかの様に口に出した。
「三人はアンノウン討伐に、もう三人は遠征に行ったんだよね。討伐組はもう帰って来てるんじゃないかな?ね?主」
「あの三人なら帰ってきて早々仕事を始めるだろうし、今なら厨か大広間に居るんじゃない?」
「なら行って、ご飯出来てたら食べよ?鴉もそれでいい?」
主と火車の会話を聞いている限り、私達の他にも今屋敷にいる者が居るらしい。
火車の問いに私は黙って頷いた。特に反対する様な事でも無かったからだ。
「よし。じゃあ厨にレッツゴー!」
火車がまたおかしな言葉を使う。外来語という物だそうで、異国から入って来た言葉なのだそう。ふぁすなーも其の一種だそうだが、じゃーじは違うらしい。
「れっつごー、とはどういう意味だ?」
私の問いに火車は呆れたように笑う。
私はそんなにおかしな事を聞いただろうか?
「レッツゴーってのは、『さぁ、行こう』っていう意味。鴉って、なんかおじいちゃんみたいだよねぇ」
「そうか?生まれたばかり故、分からない言葉が多いんだ。多めに見てくれ」
私の言葉に「何それ」と火車が笑う。
妖の中では生まれたばかりでも色々と理解している者と、理解していない者が存在するのだろうか?其れは何故?
私は溢れんばかりの疑問を頭の中に閉じ込めながらも、主と火車の後を追って厨へと向かうのだった。
厨に着くと見慣れない女性二人が此方に背を向け流し台に立っていた。
主が其の二人の女性の間を縫って行く。すると其の二人は私達の存在に気が付いた様で此方に顔を向ける。
一人は長い髪を一つに束ねた、目鼻立ちのしっかりとした正に麗人。もう一人は短い髪を綺麗に纏め、幼さの残る顔立ちをした女性だった。
「あら、新人さんですか?」
幼さの残る女性が瞳を細め私を見つめた。
「そう。今日の朝に屋敷に来たの。自己紹介は自分でしてよね」
火車はそう言って私の背中をバンッと叩く。私は衝撃が走った背中を伸ばした。痛さの残る場所に手を伸ばしながら二人の女性を見た。
「私は鴉天狗。まだ生まれたばかり故、至らない事ばかりだとは思うが、宜しく頼む」
私の言葉を聞いた目鼻立ちのしっかりとした女性は驚いた様に目を丸くする。朝方に、私が目覚めた時に見た火車の表情と瓜二つだった。
何故私の存在を知ると、そんなにも驚くのか甚だ疑問だが、世の中には知らなくても良い物もある。そう思っておこう。
目鼻立ちのしっかりとした女性の隣で、幼さの残る女性が大きく深呼吸をして軽く会釈をした。
「わたしは天狐、そしてこちらが人魚さん。鴉天狗さん、こちらこそよろしくお願いします」
幼さの残る女性――天狐がもう一人の女性である人魚を紹介しながら微笑んだ。
人魚の方は、というとじっと私を見たまま身動きを取ろうとしない。だが、直ぐに人魚は口を開いた。
「紹介に預かった通り、人魚と申します。『予言行う』と古い文献では記されておりますが、今のわたくしにそんな力はございません。以後、お見知りおきを……」
ニコッと微笑んだ其の姿は異国の貴族を彷彿とさせた。
私が彼女らの方を見つめていると、主がモゾモゾと二人の間から顔を覗かせる。
「今日の夕餉は何?」
「今日は覚さんが取ってきてくれた鯵の塩焼きですよ」
私は天狐の言葉に耳を傾ける。
覚……?彼女らの他にも屋敷に戻っている者が居るのか。
そして――鯵の塩焼き。其れは至極絶品だろう。早く食べてみたいものだ。
そんな事を考えていると、視界の端に黒い何かがちらついた。
「賑やかだね。もう運んでいい?」
私と火車の間からヌッと暖簾を潜って入って来たのは少し猫背気味の青年だった。
「えぇ、大丈夫よ。こっちのものは運んじゃって」
天狐の言葉に青年が皿に盛られた料理を両手に乗せ、厨を出て行く。
主も其の青年と同じ様に一枚の皿を両手で取り、青年の背を追い掛けて厨を出て行ってしまった。
「アイツが覚。見ての通り、ちょっと抜けてるところがあったり、馴れ合うのが苦手だったりするけど、悪い奴じゃないから…」
火車がヤレヤレといった呆れた様な溜め息を漏らすと微笑んだ。
なる程。彼が覚なのか。思っていたよりもずっと――
「大きいな……」
「ま。鴉ほどじゃないけどね」
私が呟くと一瞬目を丸くした火車がプハッと笑って言った。天狐や人魚らもクスクスと微笑んでいた。
――此れから楽しくなりそうだ。と私は心の内で思ったのだった。