僕の心のヤバい奴
道端に財布が落ちていた。
茶色い二つ折りの財布で男性ブランドのロゴが刻印された財布だった。しかし、中を検めてみると現金が幾らかとそして身分証がいくつか入っており、その身分証の顔写真からみるに、どうやら、落としたのは若い女性のようだった。
その財布をポケットに入れて、僕はパチンコ屋へと向かった。もともと僕が出歩いていた理由はパチンコ屋に行くためであった。財布の中身をその軍資金としてしまえば、より少しはパチンコで楽しめるはずだ。そう思いながら、駅裏の高架下を通った。無断駐輪されている自転車の列で通りにくい。身をよじるようにして、自転車の近くを通り過ぎた、その時だった。
後ろで、ガシャン、と音がした。
振り向けば、自転車が倒れている。その傍らには、黒いスーツを着た男が立っていた。
「どうも、こんにちは」
「あ、どうも」
突然、にこやかに挨拶してきた男に対して、私は恐る恐る慎重に挨拶を返した。
傍らで倒れたままの自転車の後輪が空転している。それをじっと見ていたが、男が自転車を直そうとする様子はない。
「あぁ、お気にせず、どうぞ歩いてください。この無断駐輪の自転車は気にせずに」
そう言うと、男は並んでいる自転車をまた一つ、押した。それが隣の自転車にぶつかって倒れ、さらに、隣の自転車を倒していく。ドミノ倒しのように自転車がガシャンガシャンと言って、倒れていく。そして、一番近い所に倒れていた自転車を、その男は足で蹴飛ばしていく。
一つ、深く長い溜息を吐き出しながら、男は僕の方を見た。
間違いなくかかわってはいけない人だ。直感的にそれを感じた僕は、もともと向かっていた方向へと歩き始めた。関わらない方がいい。人生においては、そういう選択肢を取った方がいいことがある。言ってしまえばあれだが、わざわざ頭が変な人間と関わらない方がいい。
私はそう思いながら、半ば駆け足で逃げ去った。
どれほど、過ぎただろうか。駆け足を続けたままで、さすがに疲れてきた。たまたま、近くにあった公園のブランコへと腰を下ろす。
見れば砂場には子供たちが作ったのであろうか。砂山があった。
「どうも、こんにちは」
いつの間にか、先ほどのあの男が隣のブランコに座って、こちらを向いて話しかけていた。
ついてきたのか、と驚きのあまりたじろいでしまった。鎖がジャラジャラと音を立てる。
「あんた、なんなんですか。ついてこないでくださいよ」
「私ですか? 私は、ただのやばい奴です」
そう言って、男はブランコを漕ぎ始めた。なかなかに強い勢いであるが、話を続けるには問題ない。私自身は、ブランコに座ったままに、男に向けて、疑問を口にした。
「ヤバい奴?」
「えぇ。しかし、私は、あなたの心のやばい奴です」
「僕の?」
「そうです。誰しも、心の中には、やばい奴をもっているものですよ。あなたは仕事中や勉強中に、突然大きな声を出したい! と思ったことはありませんか? あるいは、今までにこやかに話していた相手に対して、殴りかかりたい! と言うような衝動ですよ」
「まぁ、それは」
無いとは言い切れなかった。
僕の心を見透かしたように、男は続けた。
「今、あなたはこう考えていたはずだ。あの砂山を踏みつぶしたら、さぞ爽快だろうな」
「そんな」
「いいんですよ。そう無理をしなくても」
男は言った。しかし、確かに男の言う通りでもあった。
僕は心のどこかで確かに、あの砂山を崩したい、というのが気持ちとしてあった。
いや、そんな事は思っていても行動はしない。
「僕はそんな事はしないぞ!」
「誰しも邪悪な心はあるのです。ささ、それを受け入れましょう」
僕はブランコから飛び降りると、公園を足早に飛び出した。
自らの心に、やばい人間がいるとは思いたくなかった。町の中を走り、振り切ろうとも思うが、どこに行っても必ず、例の男が現れた。喫茶店に逃げ込んでも隣の席に、本屋に行っても隣に並んでくるし、スーパーマーケットに行っても必ず、男が現れた。
もう、どうしたものか。
僕は、途方に暮れた。
ちょうど、その時、交番が目に入った。
僕はポケットの中にある財布を取り出すと、じっと見つめた。いくらかの現金。
「よし」
見つめていた目線を外し、僕は交番へと一歩足を踏み出した。
交番でいくらかの手続きをした後、僕は清々しい気持ちで、近くの河川敷へと来ていた。手には、河川敷の傍の自販機で買った缶ジュースが握られている。冷たいジュースをごくと飲むと、甘くてすっきりとした気持ちになった。
財布は交番に落とし物として届けた。意外なことに、届出してしまうと、気持ちがすっきりとした。
「意外ですね。あなたが、あんな善良な事をするとは」
男は言った。
どこか、男は少し僕から距離をとっているように見えた。
近くに生えている木の脇に佇み、こちらを伺う様子でもある。
「ですが、またお会いしましょう。私はあなたの心のやばい奴ですから」
そう言って、男は木の影へと消えていった。
僕はそれをじっと見ていたが、缶ジュースを飲み干すと、ゴミ箱に捨てた。