頼朝最大の敵・丹後局
初めての投稿なので誤字脱字などが多いかもしれませんが、何卒よろしくお願いします。
私は、皇帝で務めている。皇帝の中はいつも華やかな雰囲気だが、なにか黒いものがあると感じている。最近その原因が分かりかけている。それは、私の『主』である、丹後局様だ。丹後局様は、後白河法皇の側室で寵愛を受けているお方で、よく政治に興味を持っていらっしゃる。_____そういえば聞こえはいいのだが、最近になって御二人の間に皇女が生まれるとに政治に口を挟むようになったと感じるのだ。平清盛が死に、源頼朝が動きを見せ始め、朝廷が危機感を抱いている中、法皇様と丹後局様で政治が動いているように感じるのだ。しかも元暦2年には頼朝の弟、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた。それにより、丹後局にとって長年のライバルが居なくなり達成感を抱いていたはずだが、幼い安徳天皇が海に沈むことまで望んでいたわけが無い。そのことも、政治に口を出すことに拍車をかけたのではの感じる。
この物語は、丹後局の悪女像、そして政治的な戦い、『政争』を描いた物語だ。
いつも通り和歌を詠み、寝て起きてを繰り返す生活を送っていた元暦2年(1185年)3月25日、この上無い程の大きい事件が飛び込んできた。
『平家滅亡』
「ありえるだろう」率直にそう感じた。今までの政治の動きを見ていると、平家の不確定さが浮き彫りになってくるのも一つの理由だ。
平家の『リーダー』である清盛が病没した後はさらに拍車がかかる。清盛の生前は「平家にあらずんば人にあらず」などと大口を叩いていたものの、次第に平家に不満を持つものが現れ、平家討伐になったのだと思う。その不満を持ったものの代表格、それが法皇様、そして丹後局様だったのだ。さらに丹後局様は元夫を平家に殺されており、復讐の理由としては十分であった。
1184年(寿永3年)1月26日、丹後局様と法皇様は頼朝(源氏)に正式にから平家追討の勅命をした。一方で平家は都落ちをし、圧倒的に平家不利のように見えた初春。だがここで平家は最後の抵抗をした。徐々に勢力を盛り返し、結果的にかつて清盛が夢みた都「福原」まで東進していた。
だが、同年の2月6日、福原で清盛の三回忌の法要を営んでいた平家のもとへ、後白河法皇の近臣の使者が文書を携えて到着。文書には、「和平交渉のための使者が8日に京を出て下向するから、武力行動をしないように」 という内容のものだったらしい。 平家方はこれを信じていたのだが、翌7日には源氏の総攻撃、一ノ谷の戦いといわれる戦が開始されたという。これに丹後局様は歓喜され「よう引っかかってくれた」と、甲高い声で笑ったのは、十年以上丹後局様に支えている私でも恐怖を感じさせる程だった。
1185年(元暦2年)2月17日、屋島へ逃げ込んだ平家軍の作戦は、一ノ谷の戦いで陸上兵力の大部分を失ったことで、平氏は屋島・彦島の海上基地を生命線としてひたすら防御を固めることにした。だがこの作戦は無意味に終わった。義経は風雨のなか出帆して阿波国に渡り、19日の朝には讃岐国の屋島を襲撃。陸上からの攻撃を予想していなかった平家軍は不意をつかれ海上に逃れた。
熊野別当湛増などの水軍を味方に引き入れた義経は、平家を追い詰めると、3月24日、長門国の壇ノ浦で平家軍を全滅させる。
総大将である清盛の息子、平宗盛は捕えられ鎌倉へ送られていた。「不意をつかれて負ける」など武士の情けとも言われるような負け方だった。平家は、心の隙間にあった油断にやられたのだ。
だがしかし、幼い天皇(安徳天皇)を溺死させ、挙句の果てに三種の神器まで海に落とす連中の味方でよいのか?そう丹後局様は考えるようになった。それから丹後局様は法皇様と考えに考えたのだ。そうして出した結論は、かつては平家滅亡のために動いていた丹後局様も、今度は朝廷を守るべく政治力を駆使する。つまり『交渉』を自分の最大の武器としたのだ。そこで丹後局様は、東の源頼朝や大江広元、北条政子らと交渉にあたることとなった。
丹後局様は源頼朝と親しい九条兼実に対抗すべく、土御門通親と手を組んだ。それからというもの、頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとすると、これを阻むべく動きだしたのだ。
そのころ鎌倉では心身の健康を取り戻しつつある、成長した大姫を京都の天皇に入内させる計画を頼朝が政子に語っていた。大姫は自分が天皇の后になれるかもしれないという、まるでおとぎ話のような計画を聞いて、希望を抱いたようで、少なくとも拒否することはなかった。
建久3年(1192年)4月、後白河法皇が崩御すると、頼朝はそれまで法皇に何度も要請しながらも与えられなかった征夷大将軍の座をついに手に入れ、大姫入内計画もさらに前に進めようと暗躍を始める。それを阻止すべく、丹後局様は、「表面上は好意的に見せる」という作戦で出た。このころの朝廷では、丹後局様は、目を剥くほどの美しい容姿と、見事な対話術で、朝廷で頼られる、あるいは恐れられる存在となっていた。絶大な発言力を持った丹後局様は、もう正に『敵なし』な状態だった。それからというもの、愛娘を想う気持ちが「あくどい」行為にも慣れっこの頼朝の眼を曇らせたのか、頼朝と丹後局様の関係は急速に深まり、300両ぶんの砂金を収めた銀の箱などを大量に彼女に贈るということもあった。だが、あくまでも丹後局様からしたら社交辞令。本心では征夷大将軍である頼朝の勢力が朝廷内でこれ以上伸びることを嫌悪しており、大姫の入内計画もよしとしていない。そんな彼女の暗躍により、この計画は頓挫させられている。入内が実現することのないまま半年ほどの京都滞在を終えた大姫は、鎌倉に戻ったあとに体調が悪化し、建久8年(1197年)7月、二十歳の若さで亡くなる。
頼朝が大姫の幸福だけを考えて動いていたわけではないのは、その後に大姫の妹姫を後鳥羽天皇に入内させようと画策しはじめたことからもわかる。あるいは京都の朝廷で白熱の権力争いを経験した興奮が、彼の中の何かを変えてしまったのか?
建久10年/正治元年(1199年)の正月、頼朝自身も落馬事故で絶命したとされるため、娘の入内という彼の悲願は最後まで叶うことはなかった。それだけ丹後局様は力を入れ『騙すような形』で入内を止めてみせたため、頼朝の一番の敵というのは、清盛でもなく、御白河法皇でもなく、丹後局様だったのでは?と感じた。
丹後局様…相当な実力者だったのでしょうね!
次は戦国時代、濃姫の侍女視点のお話を書こうと思います!