七話
女房が先触れから戻ってきた。
深々と手をつくとこう言った。
「……東宮様が良いとの事です」
「……そう。では。行きましょう。光の君」
女御が立ち上がる気配がする。俺も立ち上がった。
「光の君。後で大事な話があります。弘徽殿に戻ったら夕刻まではいてもらいますよ」
「わかりました」
頷くと女御は御簾の中から出てきた。また手を差し出されたので自分のを乗せる。梨壷へ向かうのだった。
ゆっくりと歩きながら二月の空を眺める。そうだ。もう暦の上では春になっていた。
「……寒いけど。今日は良いお天気ね」
「そうですね」
「もう光の君も四歳なのよね。年月が過ぎ去るのは早いわ」
女御はそう言いながらも歩くのはやめない。俺もだが。
今日は兄が元気でいてくれるのを願ってやまない。まあ、半分は私情ではあるけども。ぴゅうと北風が吹き抜ける。ちょっとぶるりと震え上がった。仕方ないので女御の手を少し強めに握る。すると気づいてくれたのか歩調を速めた。俺も合わせながらそそくさと梨壷を目指した。
梨壷にたどり着くと女御や先導の女房と共に奥に入る。俺は緊張しながらも兄の居室へと進む。御帳台のある部屋に入ったら几帳の向こうから兄が昨日のように出てきた。
「……母上、光。ようこそ」
「……宮。今日も来ましたけど。体調が悪くなったらすぐにおっしゃってくださいね」
「わかりました。光、早速だけど。絵を教えるからこっちへおいで」
「……はあ。よろしくお願いします」
「光の君。わたくしは隣の部屋で待っていますから。絵の講義が終わったらそちらに来てください」
女御が言ったので頷く。兄も同様だ。俺は兄と二人で御帳台の近くに座る。女房が素早く文机や硯、絵筆や墨などを用意してくれた。俺が絵筆を握ると。兄は用意された和紙――檀紙を文机の上に置く。
「……光。今日は練習としてこちらにある花瓶を描いてみよう。まずは模写から入った方がいいから」
「そうですね。描いてみます」
再び頷いて絵筆を硯で擦った墨に浸す。ちょんちょんとやってから檀紙に滑らせていく。まずは前に置いてある花瓶の輪郭を迷いなく描いていった。が、なかなかに思ったようにうまくいかない。悪戦苦闘しながら花瓶に挿されている梅の花や枝なども紙に書き写す。集中しながらちょっとずつ仕上げていった。
「……な、何とかできました」
「……あ。出来上がったの。見せてみて」
「わかりました」
俺は絵筆を硯石の近くに置いて墨は女房がくれた布で拭う。そうしてから模写した絵を兄に見せた。はっきり言って線はガタガタだし花瓶や梅の花と判別できるかも怪しい。ああ、詰んだな。
「……ふうむ。まあ、初めてにしてはまずまずかな。光。明日はこれに顔料で色をつけてみようよ」
「え。色をつけるんですか?」
「うん。そうだよ」
兄が真面目に答える。ちょっと待ってくれよ。いきなり色塗りは難易度高すぎだろ!
「……どうかした。光?」
「……いえ。何でもありません」
「じゃあ。約束だよ。明日も来てね!」
仕方ないと観念して頷く。兄は嬉しそうに笑ったのだった。
隣の部屋に行き、女御に絵の授業――講義は終わったと報告した。
「……あら。もう終わったの。早かったわね」
「ええ。そういえば。女御様。この後にぼくに大事なお話があるとおっしゃっていましたけど」
「ああ。朝方に言っていましたね」
「あの。何のご用件でしょう?」
「わたくしの事であなたにどうしても話しておきたくて。それでああ言ったのよ」
成程と頷くと。女御は立ち上がる。二人で先導してくれた女房に先に弘徽殿に戻ると伝えて。そのまま、梨壷を去ったのだった。
弘徽殿に一旦戻ると女御はすぐに人払いをした。余程、俺以外には聞かれたくないらしい。俺付きの乳母や女房まで退出させる徹底ぶりだ。
「……さて。これでわたくしとあなた二人だけね。光の君。あなたは前世というものを信じているかしら?」
「……信じてはいますね。ぼく自身はですが」
「そう。なら。わたくしに前世の記憶――現代日本人としての記憶や知識があるといったら驚くでしょうね」
俺は意外過ぎる言葉の数々に驚いて目を見開いた。もしや。弘徽殿女御も俺と同じ転生者だと言うのか?!
「……そうだったんですか。ぼく。いえ。俺にも前世の記憶があります。俺も元は現代日本人でしたから」
「……あら。そうなの。やはりわたくしの読みは当たっていたわね」
「俺は佐藤 学といいました。年齢は確か。三十五歳だったかな。出身は千葉県でしたね」
現代日本人としての経歴を簡単に告げた。そうしたら女御はにっこりと笑う。
「わたくし――あたしは宮原麗子と言ったの。年齢はそうね。四十代半ばとだけ言っておくわ。出身は京都よ」
「はあ。宮原さんといったんですね」
「うん。佐藤さんと言うのね。今後もよろしくね!ちなみに今の名前は藤原 章子と言うんだけど」
俺はわかったと頷く。女御――宮原さんは俺の肩に手を置いた。そしてこう言った。
「……佐藤さん。あたしも協力するから。藤壺の女御の入内だけでも阻止しましょう」
「そうですね。兄上に入内して頂けるようにするか。他の方に嫁がれるようにはしましょうか」
「ええ。頑張りましょう」
二人して頷きあう。こうして俺と女御は現代日本人同盟を結んだのだった。