五話
俺はふと気になった。
緊張し過ぎていて念頭になかったが。何で弘徽殿女御が梨壷にいるんだ?
それを思っていたら。顔に出ていたのか女御がにっと笑った。
「……ああ。何故、わたくしがこちらにいるのか気になるのね。いいわ。説明しましょう」
「もしよろしければですが」
「ふふっ。簡単な話よ。東宮はお体が弱いから。心配になってよく様子を見に来ているの。今日もそうだったのよね」
女御は屈託なく笑った。成程と俺は思う。
「女御様。兄上の事を本当に大事に思っていらっしゃるのですね」
「それはそうでしょう。光の君の母君もあなたの事を大事に思っているでしょう?」
「……ええ。母様はいつも大事にしてくださいます」
俺が言うと女御は苦笑した。だが、気を取り直すように扇を開いた。
「……光の君。本当は気が進まなかったのだけど。一緒に東宮の居室に行きましょうか?」
「よろしいのですか?」
「ええ。あなたは四歳ながらにしっかりしているし。東宮と敵対する気はないようだから。わたくしが一緒の時なら。梨壷に来てもいいわよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
「それと。東宮にお会いできない時くらいは弘徽殿にもいらっしゃいな。歓迎するわよ」
えっ。い、いいのかよ?
なんか、初対面なのに凄く気に入られちまったな。
「はあ。なら。乳母の君や父上が一緒ならいいですか?」
「そうねえ。主上はああ見えてお忙しい方だから。乳母の君同伴ならいつでもいいわ」
「わかりました。明日に弘徽殿に伺わせていただきます」
はっきりと言ったら。女御は「素直な子ね」と言って片手を差し出す。恐る恐る自らのそれを重ねたらキュッと握られた。柔らかくてすべすべした嫋やかな手だ。ちょっとドキドキしたのは内緒である。
その後、梨壷の奥にあるらしい東宮の居室に女御は連れて行ってくれた。東宮付きの女房達が俺達を見て一斉に手をつき、深々と頭を下げる。
「……これは女御様。よくぞお越しくださいました」
「……東宮はいかがお過ごしか?」
「今日はご気分がよろしいようです。熱もないからと書物を読んでおられます」
女房の内の一人が答える。女御は鷹揚に頷く。
「……そのお声は。母上ですか?」
居室の奥からか細いが少年とおぼしき声がした。よく見ると御帳台――天蓋付きのベッドがある。その前には二つくらい几帳が置かれているが。その中から人が出てきた。
「あれ。母上。そちらは?」
「……おお。宮。立ち上がって大丈夫なのですか?」
「ええ。今日は気分が良くて。そちらの童は新しく入った子ですか?」
俺は仕方ないかと思う。今日着ている衣服は水干だしな。色は薄い水色で目立たない。
「……いいえ。童ではありませんよ。宮の弟宮の光の君です」
「……えっ。君があの桐壺殿の所の光なの?」
「あ。そうです」
とっさに答えた。どうやら目の前にいるひょろっとした感じの少年が兄の東宮らしい。兄は興味津々にこちらを見てきた。
「へえ。私に腹違いの弟がいるのは聞いていたけど。君がそうなんだね」
「はあ」
「……光。私は幼名を翔と言ってね。そちらで呼んでくれたらいいよ」
東宮の幼名?!んなもん、簡単に教えていいのかよ。
そう思いながらも頷くしかない。
「……わかりました。翔兄上」
「うん。よろしく。光」
兄――翔はにっこりと笑う。顔つきは弘徽殿女御より父帝に似ているな。俺は母そっくりだが。ふと思い出す。兄と女御の妹の六の君こと朧月夜を取り合う未来がある事を。が、正直言って朧月夜はいらない。喜んで兄に譲る。
「どうかした?」
「い、いえ。ちょっと考え事をしてしまって」
「ふうん。そうなんだ。光は書物とか読むの好き?」
「……簡単な物なら。まだ難しいのは読めないですね」
「そっか。なら。私が小さな頃に見ていた絵巻物があるんだ。それを一緒に見ようか」
兄は無邪気に誘ってきた。俺は咄嗟に女御を見た。無言で頷かれる。
「……そうですね。見せてくださいませんか。兄上」
「決まりだね。じゃあ。今から取りに行かせるから」
「ありがとうございます」
礼を述べると兄はにっこりと笑った。本当に嬉しそうだ。兄は確か俺より五歳は上だったか。なら現在は九歳だな。まだまだ、幼いのに。外で遊び回ったりしたい年頃なのにな。我が兄ながら気の毒になってきた。こんな俺よりも周りの重圧はさぞかしだろうし。
「……東宮様。絵巻物をお持ちしました」
「そうか。さ、光。これがそうだよ!」
兄が女房から手渡された絵巻物を畳の上に置いて広げた。所々、擦り切れてはいるが。なかなかの鮮やかな絵に目は釘付けになる。
「……これは。風景を描いた物ですか?」
「そうだよ。私が絵師に教えてもらいながら描いたんだ」
「兄上がお小さい頃にですか?」
「うん!まだ、今の光くらいの年の頃に描いたんだ」
「凄いですね。ぼくならお習字の練習が精々です」
俺がしみじみ言うと。兄は苦笑しながら肩を軽く叩いた。
「……光。だったら。私が絵を教えてあげようか?」
「いいんですか?」
「構わないよ。私の体調が良い時に来てくれたら。ちょっとずつ教えるよ」
それでいいかなと言われる。渡りに船とばかりに頷いたのだった。