四話
俺は戻って早々に父帝と一緒に兄の東宮に会いに行った。
父帝は小声で「臣籍降下は来年の秋頃に決まったぞ」と伝えてくる。俺は黙って頷いた。そのまま、しずしずと梨壺に向かう。先導は女官が務めている。歩きながらも考えた。祖母や母を元気に長生きさせるためにはどうしたらいいのか。あ、そうだ。風呂についても考えた方がいいな。今のご時世では風呂はサウナ式でしかも毎日入る事がない。しかもシャンプー、リンスにボディーソープもないと来た。髪は確か小豆を乾煎りして挽いた粉で洗っていたか。リンスは米を研いだ汁だし。ボディーソープは代わりに米ぬかのエキスを使っていたな。
うーむ。何かもっと良い代用品はないのか?
あ、シャンプーにはネムリギという植物の皮――樹木の皮のエキスが良いとか聞いたぞ。リンスは椿油で十分に代用できるしな。ボディーソープは。ムクロジの実の皮が良いだろうか。こんなもんかな。後でこういうのに詳しい人がいないか聞いてみよう。秘かにそう決めたのだった。
梨壺――昭陽舎に来たら。父帝だけでなく俺が一緒だからか待ち受けていた女房が驚きの表情を浮かべた。けれど一瞬で無表情に戻る。
「……弘徽殿女御や東宮に会いに来た。こちらは若宮だ。共に私と行きたいと申していたんでな。連れてきた」
「……左用でございますか。女御様にお知らせしますので。少々お待ちくださいませ」
「わかった。こちらで我らは待とう」
女房は深々と手をつく。立ち上がると御簾をからげて奥へ入って行った。
小半刻――十五分程は経っただろうか。やっと女房がやってきてこう告げる。
「……女御様が良いとの事です」
「わかった。なら行こう」
父帝が頷くと御簾を自ら上げて中に入った。俺も後に続く。廂の間に入ると取り次ぎ役になった女房が御座を二つ用意した。右側に父帝が落ち着き、左側に俺が座る。
「……女御様がお出でになります」
女房が恭しく告げると御簾の向こうから人の気配がした。仄かにお香の薫りがこちらにまで届く。
「……あら。主上。こちらにいらっしゃるのは何月ぶりでしょう。お久しゅうございますね」
「……ああ。久しいな。弘徽殿」
御簾の向こうから高らかな鈴が鳴るような声がした。まあ、言っている内容はトゲを感じるが。想像していたよりも弘徽殿女御は若々しく可憐な女性のようだ。
「それはそうと。主上。お隣に珍しい男子がいますけど。どなたかしら?」
「男子とは失礼な。東宮のすぐ下の弟宮だが?」
「……弟宮。ああ。あの下賤な女の。お名前を伺っても?」
低い声で酷い事を言われたが。俺はスルーした。仕方ないので営業スマイルを浮かべて深々と手をついた。
「……初めてお目もじ致します。ぼくは光と申します。以後お見知りおきを」
「まあ。わざわざ、丁寧にありがとう。光の君とおっしゃるのね。あのお、母君とは月とすっぽんねえ」
「はあ。母がいつもご迷惑をおかけしています」
俺が素直に言うと。父帝はぎょっとした表情を浮かべる。弘徽殿女御もあっけに取られたのか黙っていた。かと思ったら衵扇が閉じられる音がぴしりと室内に響く。
「皆、わたくしや光の君を残して退がりなさい」
「なっ。弘徽殿。私も退がらなければならぬのか?!」
「ええ。主上がいらしても邪魔なだけです。わたくしはこの可愛らしい方と二人きりで話がしたいのですよ」
弘徽殿女御はきっぱりと言う。父帝は仕方ないとため息をつきながら一人で廂の間を去っていく。女房達も静かに退出した。文字通り、俺と女御だけが残される。
「……さて。光の君。やっと二人きりになれましたね。こちらへいらっしゃいな」
「はあ。失礼致します」
女御が扇で御簾を上げて言ってきた。俺は恐る恐る膝立ちになっていざよる。御簾をくぐって中に入った。そこには艶々とした綺麗な黒髪に白い透き通るような肌、キリッとした二重の切れ長で黒の瞳が一際目を引くど美人が扇もなしに座っていた。しかもにっこりと笑みを浮かべている。
……うん。母と同じかそれ以上の美女だな。座っていても座高が女性にしてはあるから背も高いようだ。兄ってこんな美人のスタイルが良いおふくろさんから生まれたのか。どんな容貌を兄がしているのか断然興味が湧いた。
現代風に言ったらモデルさん風の超美人ママとかで有名になっているぞ。
「ふふっ。光の君はやはり更衣さんとそっくりですね。わたくしや東宮に会いにいらしたから驚きましたよ」
「はあ。女御様はやはり母をお嫌いですよね」
「……まあ。わたくしが最初にあの方の妃になったのに。後からやってきた別の女人に奪われましたからね。それからは何かと「桐壺、桐壺」でしょう。流石に腸が煮えくり返りました」
その時の事を思い出したのだろう。女御はぎりと奥歯を噛みしめて般若のごとき形相を浮かべる。おお、怖い。
「女御様。ぼくはその。早めに臣籍降下をしますので。皇位継承権は兄上にお譲りしたいと思っています」
「……光の君。あなた、本気でおっしゃっているの?」
「ええ。今日は女御様や兄上と仲直りさせていただきたくて。それで参りました」
はっきり言うと。女御は目を見開いた。そして考え込んでしまったのだった。