一話
俺が前世の記憶を思い出したのは三歳の頃だった。
やたらと美人な母に育てられていたが。彼女は俺を連れて後宮から出るはずだった。けれど、父の帝――桐壺帝がそれを良しとはせずに。母――更衣を留め置いた。しまいには清涼殿に近い後涼殿へと移させる。母は日に日に心身共に弱っていった。
「……母様。大丈夫?」
「……光。すまぬ。そなたに心配をかけさせてばかりで」
弱々しい声で母は答える。俺は幼いながらも必死に床に臥した母のほっそりとした手を握った。神様、仏様。母様を連れて行かないで!
不思議とそう思ったら目から涙が溢れる。ぼたぼたと落ちるそれを慌てて母の手を離しながら袖で拭う。
「光。そんなに泣くでない。わらわが儚くなってもそなたは生きるのじゃ」
「嫌だ。母様。光を置いていかないで!」
「……わかった。そなたがそこまで言うなら。母は元気にならねばな」
母はふっと笑った。俺は再び手を握る。一所懸命に神仏に願った。
不思議な事は起こるものだ。あの日に母が「元気にならねばな」と言って以来、体調が少しずつ快方に向かったのだが。俺は事ある毎に母の側に行ってはこう告げた。
「母様。リハビリをやりませんか?」
「今日は一緒にストレッチをやりましょう!」
「今日はラジオ体操をしましょうね!」
最初は母も目を白黒させて「りはびりとは何ぞ?」とか言っていたが。俺が下手は下手なりに説明をしたら。半信半疑ながらも実践してくれた。といっても母は平安期の女性だから外に出歩くわけにもいかない。だから室内でもできる運動を勧めたのだ。一ヶ月もしたら母は床上げをして普通の生活ができるくらいには回復していた。
食事も俺は父の帝に無理を言って台盤所で用意を自ら行った。といっても三歳児にできる事はない。仕方ないので料理を担当していたおっちゃんに牛乳や魚、野菜を用意してくれるように頼んだ。魚は干物だったので金網に乗せて焼き、野菜は細かく刻んだ。ごま油はある。それを鍋に入れてこっそり入手した鹿肉を炒めた。次に刻んだ野菜を入れて。しばらく炒めたらコショウや塩をパラパラと入れて味付けをする。
次に煮干しや昆布から抽出したお出しを鍋に入れて牛乳も入れた。クツクツと煮込んだら和風クリームシチューが完成する。小皿によそってもらい、味見をした。
「うん。うまい。ありがとう!おっちゃん、おばちゃん!」
「……いいってことよ。若様」
おっちゃん達に礼を言ったら。照れながらも一人が返事をしてくれた。俺はお椀にシチュー、皿に干し魚を焼いたの、柔らかく炊いた姫飯などをお膳に乗せてもらう。今日は俺提案の料理だ。母のいる部屋に女房に言って運んでもらった。
「……よい香りがするのう。光はどこへ行ったのじゃ?」
部屋の近くに来ると母の声が聞こえた。俺は近づきたいのを我慢して女房と二人でしずしずと部屋に入る。母の前にお膳が置かれた。
「……母様。今日はぼくが台盤所のおじさん達と相談しながら作りました」
「あら。光ではないかや」
「うん。お側にいなくてごめんなさい。これね、美味しいから。召し上がってください」
「……おや。珍しい食べ物じゃ。食べてよいのじゃな」
「……ええ。若宮様が発案なさった珍しい外つ国の料理です」
女房がそう言いながら勧める。母は目を見開きながらも箸を手に取りシチューを口に含んだ。
「……なかなかに美味じゃな」
「良かった。母様のお口に合って」
「光。そなたが発案してくれたのかや。すまぬの」
眉をへにょりと下げながら母は謝る。俺は慌てて首を振った。
「謝らないでください。母様が気に入ってくださったなら良いのです!」
「ありがとう。光。そなたは良い子じゃな」
涙を浮かべて母はシチューを大事そうに食べた。その後に母が完食してくれてほっと胸を撫で下ろしたのだった。
俺は父帝が訪れた際にある事を直談判した。
「……父上。あの。お願いしたい事があります」
「……どうした。光」
母そっくりな俺は父帝と顔が似ていない。まあ、性格はそっくりか。そう思いながらも自分とは違うタイプの美男の父帝を真っ直ぐに見据える。
「どうか。母様を里邸に宿下がりさせていただけないでしょうか?」
「なっ。更衣を宿下がりさせるのか。何故だ?」
「母様はこちらを恐れています。それこそぼくがいても気が休まらない程には。だからです!」
一所懸命に言ったら父帝は何とも言えない表情を浮かべた。
「……ふうむ。更衣がそれ程に悩まされていたとは。わかった。四月程なら許可しよう」
「ありがとうございます!」
俺は跳び上がりながら礼を述べた。父帝は苦笑しつつも後涼殿を出たのだった。