09. お義祖父様の書斎
グレンフェル伯爵家から滑るように走り出した馬車の中で、アンナは祖父の家に行くのが待ちきれないかように、落ち着きなく右へ左へと座席を移動しながら窓の外を眺めていた。
そして何か目ぼしいものが見えるたびに、それらを指さしては私たち兄妹に説明してくれるのだった。滅多に外出をしない私にいろいろなことを教えてくれようとしているアンナを見ていると、その優しさに頬が緩む。
「セシリー、あれが王都の内門よ。昔はここが王都の外壁だったけれど、今は街が大きくなって外側に別の城壁が作られているから、ここは『内門』と呼ばれているの。当時の関所跡も残っていて、門の上に上ると外壁の向こうまで見えて、とっても見晴らしが良いのよ!」
うっすらと上気したアンナの頬を見ながら、「ああ、無理をして来て良かった」と改めて思った。彼女の笑顔は、いつ見ても私の心を温かくしてくれる。
今回は私にとって2回目の街歩きとなるが、最初の街歩きのときは私が足を痛めてしまったために10分足らずで帰宅することになってしまった。
その様子を見た父のグレンフェル伯爵は、いわゆる『街歩き』は外出初心者である私にはハードルが高いと判断し、『街歩き』ではなく『お宅訪問』なら良いという許しが出たのが、つい昨日のことであった。
私にとっても義理の祖父にあたるアンナの祖父は、外国との交易も含め手広く商売を行っており、王都でも屈指の大商人として知られている。
父の結婚式のときに一度だけ義祖父に会ったことがあるが、恰幅の良い好々爺という印象だった。
そのため、アンナから義祖父がかつてはギルドで一、二を争うほどの腕前をもつS級冒険者だったことを聞いたときには、大層驚いたものだった。
アンナの話によると、義祖父は若い頃には諸国を回っていたこともあり、その時に得た伝手をもとに輸入業から始めたらしく、今では王都の目抜き通りに門を構えるほどの大店になっている。
ほどなくして馬車が止まると、アンナが真っ先に馬車から降りた。続いて同行していた兄のフレディが馬車を降り、私に手を差し出した。
彼の手を取ったとき、私が少し緊張していることに気づいたフレディはアイスブルーの瞳を細めて笑いかけてくれた。まるで「僕がいるから大丈夫だよ」とでも言っているように。
『ネヴィル商会』と書かれた看板の前に降り立つと、店の中から身なりの整った男性が2人出てきた。彼らを目にしたアンナは弾けるように笑ったかと思うと、駆け出して行った。
「テッドにルーカス、ただいま! 今日は素敵なお客様をお連れしたのよ。お爺様はどこかしら?」
「旦那様は、離れの書斎にいらっしゃいます。お嬢様のご到着を首を長くしてお待ちですよ」
30代半ばと思しき黒髪の男性は、親愛の情を浮かべてアンナの問いに答えた。どうやら、この商会を実際に仕切っている立場にある男性のようだ。
その男は艶やかな黒髪を後ろで束ね、光沢のある濃紺のローブを纏っている。
細い指先を身体の前で組み合わせて人の良さそうな笑みを浮かべているが、漆黒の瞳には私と兄を値踏みするような光が宿っていた。
「お義兄様、お義姉様、こちらがネヴィル商会を取り仕切っているテッドです。その後ろにいるのが、ルーカスよ」
最近のアンナは私たちのことを「セシリー」や「フレディ」と愛称で呼ぶようになった。それはきっと、私が兄のことを「お兄様」ではなく「フレディ」と呼ぶようになった影響かもしれない。
しかし、こういった公の場では「お義兄様」「お義姉様」という言葉遣いをしている。きちんと使い分けができる聡い子だわ、そう思うと自然と目元が緩んでしまう。
「僕はアンナの義兄のフレデリック、こちらは僕の妹でアンナの義姉にあたるセシリアです」
フレディの紹介を受け、テッドとルーカスに一礼する。
顔を上げてルーカスと呼ばれた青年を見たとき、私は目を見張った。
彼の肌は薄い琥珀色をしており、肌の白い王国人とは異なる国の生まれであることが一目で分かったからだ。
そもそも外出というものを殆どしたことがない私にとって、王国人以外を見るのは初めてのことだった。
琥珀色の両腕と、彼の頭上で揺れる柔らかそうな銀の髪、そして真っ白なシャツにワインレッドのサッシュベルトを巻いて立つ姿は、異国の王子だと言われても
彼を凝視していたことに気づいた私は、できるだけ不自然でないように視線を逸らしながらルーカスの挨拶を聞いていた。
「お初にお目にかかります。こちらの商会に身を寄せております、ルーカスと申します」
外国人だとばかり思っていたのに、少しも訛りがない王国語を話すルーカスの所作はしなやかで淀みがなく、美しくすら感じられた。
そんな私の様子を目の端で捉えていたテッドが、「こちらへ」と建物の奥へ続く回廊を示したので乞われるままにアンナを先頭にして先へ進んだ。
商会で働いている人たちが忙しなく往来する回廊を進み、表玄関とは反対側に広がっている中庭に出ると、その先に小さな茅葺屋根の小屋が見えた。真っ白な漆喰壁のところどころが青空色をした窓枠で彩られている小屋は、まるで絵本の中から飛び出したようにも見える。
「まぁ、可愛らしい! なんて素敵なんでしょう」
思わずそう口にした私に、フレデリックは教えてくれた。
「こういった茅葺屋根の小屋は、王国の東地域でよく見られるんだよ。
西方は乾燥地帯が広がっているから、はちみつ色の石壁でできた家が多いけれど、東方はこういう白い漆喰壁の小屋が一般的なんだ」
「そうなの? フレディは物知りね。いつか、その『はちみつ色』の家も見てみたいものだわ」
笑顔で会話を交わしながらも、豪邸の中庭に田舎風の小屋という違和感に戸惑いを隠せずにいた兄妹に向かって、テッドは苦笑交じりに説明した。
「もともと冒険者だった旦那様は、王都の生活よりもご自分が生まれ育った地域の生活スタイルをお好みになります。そのため、この中庭のなかにご自身の『家』を建ててしまわれたのですよ」
「そうそう、お爺様の書斎なのよ」
アンナは悪戯っ子のような笑顔を浮かべながら、テッドに同意した。
「申し訳ございませんが、私は仕事がございますのでこちらで失礼させていただきます。ルーカス、あとは頼みましたよ」
そう言って丁寧にお辞儀をしたテッドは、私たちが辿ってきた回廊の奥へと姿を消した。ルーカスのほうは、このまま残るようだ。
「 お爺様、アンナです!」
アンナは満面の笑みを浮かべながら、扉の中央にぶら下がっているノッカーを二度ほど叩いた。
ギィ……と軋んだ音を立てて開いた扉の中から出てきたアンナの祖父は、フレデリックと私の姿を見て相好を崩した。
年齢に似つかわしくないほど筋肉質な腕は、さすが元S級冒険者というところだろうか。豊かな白髪を無造作に後ろに撫でつけて生成りのシャツを身に纏った出で立ちは、商家の大旦那というよりも引退した冒険者と言われた方がしっくり来る。
「ようこそ、フレデリック殿、セシリア様。こんな爺の道楽小屋ですが、どうぞ中へお入りください」
「ありがとう。どうか敬称はなしでお願いします。我々は貴族ではありますが、あなたの義孫でもあるのですから」
フレデリックの言葉に笑顔で頷くと、かつて『比類なき冒険者』と謡われた元S級冒険者のジャスパーは3人の孫たち小屋の中へ誘った。