08. 過去との決別
とんぼ返りに終わった街歩きの日から、私は少しずつ周りに目を向けるようになった。
これまでは前世の記憶がある自分は異端だと考え、この世界に上手く馴染めていなかった。いや、馴染めていなかったのではなく、馴染もうとしていなかったのかもしれない。
セシリアという人間には、もう一つの自我がある。子供なのに子供らしく振舞うことがででない私のことを、周りの人たちは腫れものに触るかのように扱った。
そして、そんな人たちのの顔色を伺っているうちに、何も行動できなくなってしまっていた。
自らは口を開かず、行動を起こさず、言われたことに対してにっこり笑ってさえいれば大人しい子だと思われるだけで、奇異の目を向けられることがなくなることを学んでからは、何もしなくなった。それが一番、安全で楽だったからだ。
こんな自分を理解してくれる人はいないと思った私は、一人でいることを好んだ。ほかの人と距離を置いたほうが『変な子供だ』と思われずに済むし、私の心も傷つかずに済むからだ。
10歳の少女ではあっても、実際には20年近く生きている大人だという自覚もあり、言動が年齢とは不相応なほど落ち着いていることも自覚していた。
だから、兄や侍女たちにどう接していいのか分からず、とりあえず距離を置くという後ろ向きな対応しかできなかったのだ。
でも…… と思う。
もしかしたらそれは大きな過ちだったのかもしれない。
ただ『同じ家族に生まれたから』という理由だけで献身的に私の世話をしてくれているのだとばかり思っていた兄が、実は私自身を見てくれていて、心から私のことを慈しんでくれていることに気づいたのだ。
「自分だったらこんな気味の悪い兄弟は嫌だ」と思って、つまりは兄の立場になって考えたつもりで距離を置いていた。
しかし、『私』という我をもったまま兄の立場になって考えても、そこから生まれる思考は私のものであって兄のものではないことに気づかなかった。
いくら相手の立場に立って考えたとしても、思考パターンが自分のままであったら本当の意味で『相手の立場に立って』考えることなんてできるわけがなかったのだ。
あの日、私は気づいてしまったのだ。
人というものは相手が自身の慈しみや優しさを受け入れてくれてこそ、己も幸せを感じることができるということに。
そして、お互いが心を通わせることで生まれる、温かくて優しくて心地の良い感情を知ってしまった。
だから、私のことを慈しんでくれる人たちの気持ちに応えたいと強く思った。
そう思うようになってからは、少しずつ自分の周囲にいる人々に目と、そして心を向けるようになっていった。
改めて自分の周りにいる人たちに意識を向けてみると、今度は兄や幼馴染、そして幼い頃から世話をしてくれている侍女たちの、労わるようでいながらどこか遠慮がちな眼差しに気づいてしまった。
そこで、あることに思い当たった。
私のことを気遣って助けてくれようとする人がいても、私が自身の希望を口にしなければ、彼らはどうすれば私を助けることができるのか分からず、ただ黙って見守ることしかできなのだということに……
私は、自分の我を抑えることが周りに迷惑をかけずに生きていくために必要なことだと考えていた。
でも、私のことを大切に思ってくれていた人たちは、手を差し伸べたいのに何をしたら良いのか分からずにいることに心を痛め、その結果として腫れものを扱うような態度で私に接するようになったのかもしれない。
お互いを慈しみ、心を通い合わせる機会がなかったら?
いくら愛情を注いでも、それを受け取ってもらえないとしたら?
あのとき、馬車の中でアンナが私の手を振りほどいていたとしたら、きっと私の心は傷ついていただろう。そして拒絶されるという恐怖を知った私は、次の機会に手を差し伸べることができなくなっていただろう。
だから、これからは人からの愛情や慈しみを真っすぐに受け止めようと思った。そして、できればそれ以上の慈しみで返してあげたい。
とはいえ、差し伸べてくれる手に甘えてばかりではいけないという気持ちもあるし、そして自分の殻に閉じこもりがちな性格がすぐに変わるわけでもないのだけれど……
でも、少しずつでもいいから慈しんでくれる人たちからの好意を受け取れる人間になりたいと思う。
諦めてしまったら、何も起きない。ずっとこのままだ。まずは、相手の好意を素直に受け取れる人間になろう。
前世の私は大切な人の言葉に耳を貸さず、我を通してバイクに乗り続けて事故を起こした。そして、目の前に広がっていた彼との幸せな未来を棒に振ってしまった。
すでに終わった人生だと分かっていても、私の胸には彼の記憶は鮮明に残っており、彼に会いたいと願わない日はなかった。
彼の言うことを聞かなかったこと、彼を一人にしてしまったこと、笑いながら話していた約束を守れなかったこと……決して叶うことはないと分かっているが、彼に謝りたいことは山ほどあった。
しかし、彼に会うことはもう二度とないのだ。
あの人生は、終わってしまったのだ。もう諦めるしかない。
しかし、まだ終わっていないものがあるのだ。
それはグレンフェル家の娘として生まれた、今の私の人生だ。
この世界に転生して10年、取り返しのつかない過去ばかり見て生きていたけれど、これからの『セシリアとしての人生』を前世と同じような後悔で締めくくるようなものにはしたくない。
幸いなことに、兄やアンナのように私を大切に想ってくれる人たちがいるのだから、彼らの優しさに報いるためにも『セシリアとしての人生』を歩むべきかもしれない。
そのためには、消すことのできない過去の記憶から血のように滴り落ちて心のうちに溜まっていく後悔とは、決別しなくてはならない。
もう言い訳はしない。諦めたりしない。過去は振り返りたくない。
幸いなことに、望めば望んだだけの技術と知識を身に着けられる環境にあるのだから、それを活かさない手はないだろう。
私は、無気力で周囲に流されるままだった日々に見切りをつけることにした。