07. フレデリックの悦び
茫漠として危うげな光を宿している碧玉色の瞳を持つ妹は、自分の小さな世界で満足しているようだった。屋敷の外へ出ることを厭い、そして周囲の者も病弱な彼女を心気遣って無理に外出を勧めたりはしなかった。
覚えている限りでは、本人が希望して外出したことは一度しかない。王宮のバラ園が見たいと言って、僕と一緒に王宮へ行ったときのことだ。
滅多に願い事を口にしない妹の希望なのだから、是が非でも叶えなくてはと意気込み、幼馴染みでもあり学友でもある王太子のアルフレッドに僕と妹を王宮に招待してくれるように頼んだのだった。
そんなセシリアではあったが、義妹のアンナに口説き落とされて初めての街歩きに出かけることになった。アンナとお揃いの服を着ていたセシリアも喜んでいるように見えたが、せっかくの外出も屋敷を出て一時間もしないうちに帰宅することになるとは……
もともと街歩きに興味がなかったセシリアは全く気にしていないようだったが、アンナの方がかなり落ち込んでいるように見えた。
帰路についた馬車の中で、セシリアは泣き止まないアンナをずっと胸に抱いていた。白くて細い指がアンナの背中を撫でている。その伸びやかな指の動きは、ひらひらと舞う蝶のように美しい。
もともと青白い肌のセシリアだったが、今日の彼女は頬に赤みが差し、少し困ったように眉間を寄せているさまは、いつも見ている人形のように整った笑顔とは打って変わって、少女らしい初々しさに溢れていた。
馬車が屋敷に到着すると、戻ってきた僕たちに驚いた義母が玄関まで迎えに出てくれた。
泣きはらした顔をしたアンナに気づいた義母のアデリーヌは、取り乱すこともなく事の詳細を聞くと、ほっと安堵の溜息を洩らした。
そして「いずれにせよ、命に別条があるような事件でなくて良かったわ」と僕達に笑顔を見せると、アンナの肩を抱きながら彼女を自室へと誘った。
さて、今日の予定が狂ってしまったが、図書室で調べものでもしようか…… そう思案したときに、思いがけない言葉が思考を遮った。
「お兄様、よろしかったら私の部屋でお茶でもいかがですか?」
妹のセシリアは常に受け身で、自分から何かしたいと言い出すことは滅多にない。『滅多にない』というよりも、思い出せる限りの記憶を辿ってもバラ園のことくらいしか思い出せない。一体、どうしたというのだろう?
驚きを隠しつつ「もちろん、喜んで」と答えると、セシリアは薄い碧色の瞳を嬉しそうに輝かせた。その瞳からは、いつも宿っていたガラス細工のような危うさが消えていた。
自室に入るとセシリアは侍女のメアリにお茶を頼み、ソファに腰を下ろした。そして何を思ったのか、いきなりクスクス笑いだしたのだ。
セシリアは嬉しそうに微笑むことはあっても、声を出して笑うような少女ではなかったはずだ。緊張が解けたせいだろうか?
いつもの妹らしからぬ言動に不安を覚える。妹から目を離さないようにして、彼女の隣に腰を下ろした。
「どうしたんだい? 何かおかしいことでも?」
「いいえ、なんだか嬉しくて……」
「嬉しい?」
「ええ、胸の奥がくすぐったいような、あたたかいような、お兄様やアンナやお義母さまを抱きしめたいような気持ちになったのです。こんな気持ちは初めてです!なんだか、とても満ち足りた気分なのです」
思いがけない妹の言葉は、部屋の中に朗々と響いた。そして、その言葉は僕の思考を停止させるだけの威力があった。
「セシリー ……」
美しい妹ではあったが、まるでビスクドールのように無機質な笑顔しか見たことがなかった。
何もかも諦めたような、瞳の奥に言い知れぬ寂しさを湛えたような、どことなく茫漠としていて掴みどころのない笑顔を見せるのが常で、彼女の碧眼は僕の方を向いているのに僕自身を見てはいないような気さえしたこともあった。
表情を読みずらく、何を考えているのか人に悟らせないところがあり、そんな彼女だからこそ余計に気にかかった。
そして、少し悲し気にも見える彼女の笑顔を見るたびに、その儚さと危うさから目を離すことができず、「僕が守ってあげなければ」と思ったものだった。
しかし、今日のセシリアといえば目元をくしゃくしゃにしながら笑っている。その頬は薄桃色に色づき、ガラス細工のように透明に近い碧眼には力強い光が灯っている。
そして何よりも、彼女の瞳には僕が写っている。
僕を見てくれていることが分かる。
ああ、そうだ。僕はセシリアの、この笑顔を見たかったんだ……
そう思った瞬間、嵐のように抑えがたい高揚感が心を襲った。
ずっと見えない壁の向こうにいて、手を伸ばしても儚く消えてしまいそうに思えたセシリアが、心の内を語ってくれている。しかも、僕を抱きしめたいと言ってくれているなんて!
そう思った途端、身体の中に雷が落ちたような錯覚を覚えた。そして、自分の中に吹き荒れる嵐に押されるがまま強く妹を抱きしめた。
背中に回る妹の手を感じながら、言い知れぬ心地よさを感じる。今、自分の背中にある彼女の手は、アンナの背にいた蝶のように舞っているのだろうか。
僕の胸に顔をうずめたままのセシリアは、小さな声で囁いた。
「フレディ、今日は運んでくれてありがとう。重かったでしょう?でも、おかげで足の痛みを感じずに済んだわ。そして、私のために治療魔法を覚えてくれてありがとう。とても嬉しかったわ」
そんなこと、可愛いお前のためならいくらでもやってやる。そう心の中でだけ答えたフレデリックは、妹を抱きしめる腕に力を込めた。
そして、妹が初めて「お兄様」ではなく「フレディ」と名前で呼んでくれたことに、痺れるような喜びを感じていた。