06. 慈しむ者と慈しまれる者
私を抱きかかえたまま馬車に戻った兄は私を座席に降ろすと、そのまま目の前に膝まづいた。
「セシリー、嫌かもしれないけれど、少し足を見せてくれないか?」
この国では女性が素足を見せることは慎むべき行為だとされているが、東京で女子大生だった私は素足を見せることに抵抗はない。むしろシンデレラに靴を履かせる王子様よろしく、私の前に跪いている兄のほうが余程気になる。
「はい。大したことはないと思いますが……」
そっとスカートの裾をたくしあげると、ひねった足首は少し腫れているように見えた。しかし、足を床につけなければ痛みは感じない。
心配そうに私を見つめている兄にそう告げたが、彼の美しい額に刻まれた皺が消えることはなかった。
「このまま、少しじっとしていてくれるかい?」
何をするのだろう? と兄の手元を覗き込もうとしたが、柔らかな金髪に遮られて見ることができない。
「…… ヒール」
ふわっと足首に温かみを感じたと思ったら、兄の手元から白い光が走った。
「……お兄様?」
ふぅ、と一息ついてから兄は顔を上げた。
今のは、治癒魔法だろうか? でも、兄が学園で専攻していたのは魔導科ではなく政務科だったはずだ。
「セシリー、足首を動かしてごらん」
「? …… 痛くありません」
少し照れたように笑った兄は「良かった」とだけ言うと、私の隣に座り直した。
「お兄様、今のは?」
「人に頼んで、空いている時間に教えてもらっていたんだよ」
この勤勉で賢い兄が本気で学ぼうと思ったら習得できないものなどなさそうだが、いったい何時の間に勉強していたのだろう。問いかけるような視線を向けると、兄は私の手を握ってこう言った。
「セシリーは体が弱かったからね。僕にも何かできることがあればと思って、覚えたんだ。役に立って良かったよ」
私のために……? 兄を疑うことはなかったけれど、うまく感謝の気持ちを伝えることができずに目を泳がせていると、兄は空いたほうの手で私の顔にかかる髪の毛を掻き上げながら穏やかに口を開いた。
「セシリーのためなら、お安い御用だよ」
「ありがとう、お兄様」と小声で言うのが精一杯だった私は、光を宿したアイスブルーの眼差しを受けて急に気恥ずかしくなり、話題を逸らすことにした。
「足も治ったことだし、また街を歩きますか?」
「そうだなぁ、セシリーはどう?」
「私はもともと人混みが苦手ですから……」
「そうか、それじゃ、このままこうしていよう」
今日はせっかく街へ来たのに、街を散策する間もなく馬車の中で過ごすことになってしまった。
兄にはいつも迷惑をかけている気がする。そんな私のことを腹立たしく思ったりしていないかしら……と心配になり、そっと兄の顔色を窺った。すると意外なことに、その顔は満足そうに微笑んでいた。
見上げた私に気づいた兄は、「なに?」と言いながら瞳を細めた。冷たい色をしているはずの瞳には、それとは裏腹な温もりと優しさが感じられる。私は兄が撫でてくれている自分の右手に目を落としながら、ふと思った。
もしかして、兄はこの状況を厭うどころか、楽しく感じているのかしら ……?
私はいつも兄に迷惑をかけていることが心苦しくて仕方がないのだけれど、もしかしたら兄はそんな『面倒』を好ましく思っているのかしら? でも、そんなことがあるのかしら?
そんなことを考えているうちに、アンナが馬車に戻ってきた。
「お義姉様、ごめんなさい。こちら、お薬です。痛みが引くと良いのですが……」
泣きそうな顔をしながら手に薬草の袋を持っているアンナを見て、セシリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
こんなに心配をかけてしまった。いつも笑顔を絶やさない義妹なのに、泣かせてしまいそうなほど悲しませてしまったことに思い至ったのだ。
己を責める気持ちで胸が押しつぶされそうになった私は、思わずアンナを強く抱き寄せていた。
「大丈夫よ。私が不注意だったのよ。ごめんなさいね。お薬、ありがとう」
それを聞いたアンナは、安心したように泣き崩れてしまった。
泣かすまいと思ってかけた言葉だったのに……と狼狽えていると、兄が優しげに笑いながら右手を挙げた。まるで「そのままでいなさい」とでも言うように。
そうか、これまで私はいつも逆の立場にいたから分からなかったんだわ……
いつもなら悲しんでいるのは私で、慰めてくれるのは兄のフレデリックだった。どんなときでも彼は温かい腕で私を包み込み、何も言わずに受け止めてくれていた。
今日初めて逆の立場となったことに戸惑いを覚えつつも、腕の中でしゃくりあげているアンナを見守る。胸に沸き上がる温かい感情は、自分が誰かのためになっているという充実感と腕の中の少女への愛しさだろうか。
アンナの温もりを身体全体で受け止めながら「大丈夫よ。心配しないで。私はこうして元気だから。ね、笑って頂戴」と優しく語りかけると、アンナがうんうんと頷きながらさらに深く私の胸に顔をうずめてきた。
「大丈夫、笑って」…… そう、この言葉は兄のフレデリックが私に語りかけてくれていた言葉だった。
兄と同じ言葉を口にしながら、セシリアは温かな気持ちで身体中が満たされていくことを感じていた。そして、ついさっき目にしたばかりの優し気なイアスブルーの瞳が心に浮かんだ。
なんとなく…… ではあるけれど、兄が私のことを大切にしてくれる気持ちが少しだけ分かったような気がした。