日雇い労働者
日雇い労働者
新宿駅で山手線の外回り電車に乗ろうとしていた。
午前10時過ぎにホームに入ってきた電車は、通勤時間帯を過ぎていることもあり、空席がちらほら見える。池袋まで10分程の乗車時間なので、ドアを入ったすぐ横の手すりに寄り掛かるようにして立ち、ぼんやりと外を眺めていた。
甲州街道の上を過ぎると、中央線の電車が中野、三鷹方面へと離れていくのが見えた。次の新大久保駅は、新宿を出発してから2分と掛からない。その次の高田馬場駅までも同じだ。新宿~新大久保~高田馬場駅間は山手線の中でも短い距離の部類に入るのだろう。私が学生のころ、もう45年ほど前になるが、高田馬場駅のホームから見えるビルの屋上に大きな扇方の「スズヤ」と書かれた看板があり、その前に初代貴乃花とマリリンモンロー(と言われていた)が裸で腰をかがめて向き合い、噴水を真ん中にして、くるくると回るオブジェがあった。通称「ポルノ噴水」で通っていたが、初めて見た時にはストリップ劇場の看板かなと思ったほどだ。後でスズヤという質屋の広告塔であることがわかったが・・・。その高田馬場駅の新大久保より、歩いて5分程のところに西戸山公園がある。
ここに日雇い労働者の集合場所があり、学生時代、お金が無くなるとよくお世話になった。朝6時ころ、この公園に行くと日雇い労働者が30人程集まり、手配師が来るのを待っているのだ。そして、それぞれの現場に連れていかれ、仕事が終わるとその場で現金がもらえるというシステムになっていた。そこには、私のように学生だろうと思われる若者から、よぼよぼの老人まで様々な人が集まっていた。
同じアパートに住む先輩に、3日後仕送りが届くからそれまでお金を貸してほしい、と借金の相談を持ち掛けた時にこの場所のことを教えてもらったのだ。次の日の朝、私はジャージの上下にタオル1枚を紙袋に突っ込み、歩いて15分ほどのところにあるこの公園に出かけた。
公園の歩道上には食事を提供する屋台のようなものが出ていたが、私は最後まで口にすることはなかった。
梅雨の明けた蒸し暑い日だったと思う。何度目かの日銭稼ぎの為、朝早くこの公園に出かけた。顔見知りになった訳ではないが、「何とか建設」と書かれたマイクロバスから手配師の人が降りてきて、
「久しぶりだな。こっちへ来いや」
と言われるまま、私は、
「よろしくお願いします」
とマイクロバスに乗り込んだ。その手配師に気に入られたかどうかは分からないが、若くて力仕事に向いていると思われたのかも知れない。マイクロバスにはすでに10人ほどが乗り込んでいて、あと2~3人で満席になるところだった。私は空いている2人掛けの通路側に座るため、窓側の人に、
「失礼します」
と声掛けし、席に着いた。窓側に座っている人は、無精ひげを生やし白髪が混じったぼさぼさの髪をしていたことから、50歳近いのではと思った。窓側の人は、私が掛けた声に返事することはなく、じっと窓から外を見つめているだけだった。そのうち満席となり、最後に手配師の人が乗り込んできて、今日の現場は、神奈川県の座間市というところにある建設現場で、仕事は廃材の後片付けだという。そして、現場に着くまで1時間半ほど掛かることを付け加えた。車内には何処からか饐えたようなにおいが漂っていて、私は思わずタオルを顔に掛け目を閉じた。昨夜の蒸し暑さで良く眠れなかったこともあり、すぐにウトウトとし出した。どのくらい時間がたっただろう、手配師の人が、
「後、10分程で着くぞ!」
という声で、私は目を覚ました。どの辺りだろうと、見てもわからないのだが窓の外に目を移した。すると窓際に座っている人が、日経新聞を二つ折りにして読んでいるのが目に入ったのだ。他の人は私と同じように眠っていたらしく、あちこちからあくびをする大きな声が聞こえた。窓側の人はずっと新聞を読んでいたのだろうかと、この場には似つかわしくないその姿に少し違和感を覚えた。
現場は、小田急線の駅から歩いて10分程離れたところにある5階建てマンションの建設現場だった。建物自体はほぼ出来上がっており、内装に取り掛かかる前の廃材の後片付けだという。2人一組となって作業を行うということで、私は、ちょうどマイクロバスで隣り合わせになった新聞の人と同組となった。そして、一番上の階の5階を受け持つことになったのだ。そのマンションはファミリー向けのようで、2LDKと3LDKの二通りの間取りで、5階には10部屋あるマンションだった。
部屋に入ると、そこにはビニールや板切れ、壁材の残りなどがあちこちに散らばっていた。作業はそれらをベランダに運び、クレーンにつるされたかごに放り込んで、部屋を掃除して終わるという段取りで進められた。風が通らない部屋の中の作業は、大粒の汗が次から次へと溢れ出て、私も新聞の人も上半身はシャツ1枚になり、タオルを首に結んで格闘した。軍手は作業に入る前に渡されたが、タオルは持ってきた1枚だけだった為、余分に持ってくるんだったと悔やんだ。ベランダに廃材を運ぶ時だけ少し風が通り、いくらかは蒸し暑さを凌ぐことが出来た。8時から作業を始め、12時までに5部屋と半分を終えることが出来たが、相当な重労働だった。昼休みの1時間を挟んで、また午後の1時から5時まで作業が続くかと思うと、さすがに嫌になった。
昼飯は、歩いて5分程のところにある定食屋で済ませた。新聞の人も定食屋に入ったのだが、言葉を交わすことはなかった。
朝は薄日が差す良い天気だったのだが、昼飯を食べ終えて外に出ると、西の空に黒い雲が張り出していて午後は崩れるなと思った。午後の作業は予定通り1時に始まった。疲れはあったものの作業の仕方は午前中でほぼ身に付き、テキパキと動くことが出来た。午後の3時に15分程の休憩を取り、あとは2部屋の片づけを残すだけとなっていた。午後4時ころだったと思う。廃材をベランダに運んでいると小雨が降りはじめたのだ。ベランダに積み上げられた廃材を、そこから2m程の外にあるゴンドラに運ぶ作業を行う必要があったが、ベランダとコンドラの間に渡された敷板が雨に濡れ始めたのだ。敷板の幅は50㎝ほどあるが、地上からは約10mほどの高さがあり、安全具を付けて渡るわけではないため、落ちたら命の保証はない。私は特に高所恐怖症ではなく、午前中は気にもせず廃材を両手に持って敷板を渡っていたのだが、雨で濡れた敷板を見ると滑らないか不安になって来た。この作業を新聞の人だけにお願いする訳にもいかないので、嫌だとは思いながら、交代で作業を進めていた。4時半過ぎ、最後の部屋の廃材をすべてベランダに運び、後はそれをゴンドラまで運ぶ作業を残すだけとなっていた。雨脚が少し強まり嫌だなとは思ったが、最後のゴンドラまでの運びが私の順番になったのだ。
もうこれで作業は終わりだと思い、注意が散漫になっていたと思う。新聞の人から廃材を受け取り、ゴンドラに向かう為、振り返った時だった。一歩目の左足がつるっと滑ったのだ。体制が崩れ、「危ない!」と思い、私は廃材を放り投げるようにして両手から離し、ベランダの手摺に飛びつくように体を放り投げた。しかし、右手は手摺を捉えたものの、左手は手摺を捕まえることが出来ず、「わあー!」と叫んだ瞬間、新聞の人が両手を伸ばして私の右手を掴み、地面に落ちるのを防いでくれたのだ。私は命拾いをした。すぐにベランダの内側に引き上げられ、2人は、はあはあと荒い息遣いでベランダに座り込んだ。下から、
「ばか野郎!殺す気か!」
という怒鳴り声が聞こえたが、私は、それに応える余裕はなかった。
「すみません」
とベランダから謝りの言葉を発したのは、新聞の人だった。私はブルブルと震えているだけだった。その後、
「危なかったな。大丈夫か?」
と新聞の人が声を掛けてくれたが、私は、
「ごめんなさい」
と弱々しく、返事するのが精いっぱいだった。作業が終わっても震えは止まらず、現場詰め所横の水道でシャツを脱ぎ捨て、悪霊でも払いのけるようにタオルで汗をこすり落とした。作業代の5,000円を手渡される時、新聞の人は、
「すみませんでした。私が良く見ていなかったものですから」
と手配師に人に謝ってくれたが、
「気を付けろよ。怪我されちゃ、困るんだからな」
と言われた。私は、新聞の人の横で頭を下げているだけだった。
帰りは、朝乗ってきたマイクロバスで近くの小田急線の駅まで送ってもらい、そこから新宿駅まで電車で戻った。隣りに新聞の人が座ってくれたが、朝と同じように新聞に目を通すだけで会話はなく、私は電車の床を見つめているだけだった。1時間と少しで新宿駅に着き、私は無言のまま新聞の人に続き改札を出た。その時、新聞の人が、
「この後帰るだけだろ? ちょっと付き合えや」
と誘ってくれたのだった。私は、
「はい」
とだけ答え、新聞の人の後ろに従った。連れて行かれたのは、小田急線の改札から外に出て駅前を青梅街道に向かって歩き、新宿大ガード西交差点の手前、右手の奥まった線路際にある「ションベン横丁」だった。その一角にある立ち飲み屋に入り、のれんをくぐると、
「鈴木さん、久しぶり。今日は1人じゃないね」
カウンターの中で焼き鳥を焼いている小太りの親父さんの威勢のいい声が聞こえた。私はその時、新聞の人が「鈴木」という名前であることを始めて知った。カウンターは10人も入ればいっぱいになるような狭さだったが、半分程埋まっていた。鈴木さんと私は、ちょうど空いていた一番奥に陣取り、親父さんが出してくれた冷たいおしぼりで、さっきまでの作業の汗をもう一度拭うようにして、顔と首周りを風呂にでも浸かっている時のようにゴシゴシと拭いた。すると鈴木さんは、
「ビールでいいな。親父、ビール」
と私の返事も聞かず、頼んだのだった。鈴木さんは親父から渡されたビールをまず自分のコップに注ぎ、次に何も言わないで私のコップに注いでくれた。そして、私の方を向き、乾杯とだけ言って、一気に飲み干してしまった。少し遅れて、私も喉に流し込んだ。その旨かったこと。今までの暗い気持ちが一気に消えてしまいそうな、とはいかなかったが、とにかくこんなにも美味しいビールを飲んだのは久しぶりだった。
「お、飲みっぷりが良いな」
と、鈴木さんは、今度は私のコップに先に注ぎ、次に自分のコップに注いで、
「親父、もう1本」
とすかさず頼んだのだった。その内にいつ注文したかわからない枝豆が出て来たかと思うと、冷ややっこと焼き鳥の盛り合わせが狭いカウンターの上に並べられた。3本目のビールが出てきた時、私は初めて、鈴木さんのコップに注いだ。そして、
「今日は、ありがとうございました」
と頭をペコンと下げ、謝った。
「良いんだよ。でも、危なかったな。もしあの時落ちていたら、ただの怪我じゃ済まなかったかも知れないぞ。俺達には社会保険なんかないんだから、落ち損になるところだったぞ」
鈴木さんはそう言うと、またビールを飲み干し、今度は私が注ぎ役にまわった。すると、親父さんが、
「何かあったのかい?」
と、目線を炭火焼きの焼き鳥に向けたまま口を挟んだのだった。鈴木さんは、
「何でもないよ。それより親父、今度はホッピーが良いな。焼酎を多めにしてくれよな。2つ!」
と、また、私の分まで頼んでくれたのだ。
「ところでお前、なんていう名前だ?」
鈴木さんは、ようやく私の名前を訊ねてくれた。
「武田と言います」
「早稲田の学生か?」
「はい、そうです」
と答えると、また、親父さんが、
「それじゃ、鈴木さんの後輩じゃないか」
と間髪入れず、返事が還って来たのだった。そして、続けた。
「武田さんと言ったっけ?鈴木さんは早稲田の理工学部卒の秀才なんだよ。卒業後、一流企業に勤めていたんだが、2年前に辞めてしまってね。理由は分からないけれど、もったいないことをしたよな」
親父さんがそこまで言うと、
「親父、もうその辺でよせや」
鈴木さんは、ホッピーをグイと喉に流し込み、苦笑いのような笑みを浮かべたが目は真剣だった。
そして、話題を変えるように、
「武田、お前は夢を持っているか? がり勉になれとは言わないが、人間、夢を捨てちゃおしまいだぞ!頑張れ!」
と半分ろれつが回らず、最後の頑張れはよく聞き取れなかった。そして、
「俺はまだ夢を捨ててないぞ!」
と今度はハッキリと聞こえるように話したのだった。私は、
「はい、わかりました!」
と大きな声で返事したが、鈴木さん以上にろれつが回っていなかった。
5杯目のホッピーを飲み終えるころには、鈴木さんも私も酔いが回り、親父さんに、
「鈴木さんも武田さんも、今日はもう良いんじゃないの?」
とたしなめられ、ようやくお開きとなった。勘定をどうしたのか記憶にないが、私のサイフには日雇いでもらった5,000円がそのまま残っていたから、鈴木さんに払ってもらったのだろう。その日は、最後まで鈴木さんに迷惑を掛けることになった。帰りは、2人とも千鳥足で国鉄の改札に入り、鈴木さんが総武線の三鷹方面の電車に乗ったところまでは覚えているのだが、私はどうやって戸山町のアパートまでたどり着いたのか、覚えていない。
それから何度か日雇いのバイトに出掛けたのだが、鈴木さんと会うことはなかった。
8月の盆が過ぎ、田舎から戻った私は、久しぶりの日雇いのバイトの後、鈴木さんに連れて行ってもらったションベン横丁の立ち飲み屋に寄ってみた。親父さんは私のことを覚えてくれていて、
「よっ、久しぶりだね」
と声を掛けてくれた。そして、鈴木さんの消息を教えてくれたのだ。
鈴木さんは、田舎の長野に戻り、就職口を見つけて子供達と一緒に暮らしているという。2年程前に病気で奥さんを亡くし、それが原因かどうかは分からないが、自暴自棄となり数か月後に会社を辞めたとのことだった。子供たちは田舎の両親に引き取ってもらい、鈴木さんは中野のアパートで独り暮らしを始め、週に3回ほど高田馬場の日雇いの仕事で暮らしていたのだという。この立ち飲み屋には鈴木さんが学生の時から通い始め、結婚してからもたまに顔を出していたそうだ。親父さんに届いたという写真を見せてもらったが、公園で子供2人と一緒に撮ったものだということだった。仕事帰りなのかスーツ姿で、髪をきちんと七三に分け、にっこりと笑った姿だった。最初見た時に、これが鈴木さんかと思うほど若々しく、それもそのはず、まだ37歳だという。日雇いの仕事で見た鈴木さんからは想像出来ない姿だった。それと、あの時の勘定はやはり鈴木さんが私の分まで払ってくれたということだった。親父さんから鈴木さんの電話番号を教えてもらい、一度だけお礼の電話をしたのがもう44年も前のことだが、鈴木さんがご健在であれば、もう80歳を超えた年齢のはずだ。元気でおられるだろうか。
ションベン横丁は、1999年11月に火事となり、鈴木さんに連れて行ってもらった立ち飲み屋も被災した。焼け跡はその後再建されたが、立ち飲み屋だったところは別の店となっていて、親父さんのその後は知らない。
電車は目白を通り過ぎ、あっという間に池袋駅に到着した。
了