Café時計館
まったく、口うるさい。
妻というものは、わたしの監督官なのか?
「病み上がりのドライブは無謀」というのはまだしも、「年齢を考えて」だと? 挙句は「心配しきれないから、ドライブには一人でどうぞ」ときた。
たしかに、昨日までは熱があった。
だが今朝は平熱だ。風邪は治っている。
今回のことだけではない。
あいつときたら、健康のためと屁理屈をこね、油っけのない粗食ばかりだし、家でのんびりしていれば散歩をするよう追い立てられる。
今日だって、せっかく結婚記念日にドライブに連れて行ってやろうと思ったのに、なんという言い草。
わたしが妻なしで行動できないと思ったら大間違いだ。
一度別居でもして、ひとりでも生活できるところを見せてやるか。
うむ、ひとり暮らしとなったら、優しくて若い茶飲み友達をつくるのも悪くないかもしれない。
それにしても、ひとりでドライブするならルートを変えればよかった。
久しぶりに遠出をと思い選んだ懐かしい場所だが、緑豊かな道沿いの建物は、どれも看板を下ろし灰色にすすけている。
40年前、人気の観光地だった華やかさはどこにもない。その荒廃ぶりに気も滅入ってくるというものだ。
ひとりごちていると「Café時計館」という看板が目に入った。
ここで休憩がてら気分転換するとしよう。
わたしはアクセルをゆるめ、ハンドルを切った。
「時計館」はスイスの山小屋を思わせる造りだった。
ドア越しの店内には、様々な種類の時計が飾られているのが見える。
この店には、若い頃立ち寄った覚えがある。まだ残っていたのか。
他に客は見当たらず、どうしたものか、と見回すと表にオープンデッキがあり、テーブルが2つ3つ並んでいた。
道路より高くなっており眺望がいい。ここにしよう。
奥からひっそり現れた黒服の店主にコーヒーを注文し、腰を下ろした。
脇にはツル植物を絡めた柵があり、テーブルにつくと一輪の花が目の高さにきた。
放射状に開いた白い12枚の花びらが文字盤、3つにわかれた雌しべが、長針、短針、秒針のようで、時計にそっくりだ。
この花は知っている。確か花びらの枚数が……。
遠い記憶を手繰り寄せていると、芳香を漂わせたコーヒーが目の前に置かれた。
「お気をつけください。その花は時々、時間を引き寄せることがあるのです」
黒服の店主の奇妙な物言いに顔をあげかけた時、激しい眩暈に襲われた。
妻の言う通り、病み上がりに遠出は無謀だったか。
このまま倒れたらどうしよう、などと思いながら数分を耐え、ようよう治まったので顔を上げると、デッキにも店内にも、たくさんの客があふれていた。
わずかな間のことと思ったが、気でも失っていたのだろうか?
あっけに取られていると、
「この花の名前、面白いのよ」
向かいから声がした。
いつの間にか、向かいには若い女性が座っていて、輝くような笑顔をわたしに向けていた。
あまりの驚きに、声すら出なかった。
それは、かつての恋人だった。
この場所でデートした時のまま、若く美しい姿の。
手元に目を落とすと、若々しい腕と学生時代愛用していたダイバーウォッチがそこにある。
まさか、これがわたしの腕か? ということは40年前にさかのぼってしまったのか?
「顔色が悪いわ。クルマに酔ったの?」
心配そうにかつての恋人が覗き込んでくる。
優しさにあふれ、かつてのわたしを笑顔で包み込んだ、愛しい人だ。
想いが時間を超えてこみ上げてくる。
「帰りはわたしが運転しましょうか?」
「……大丈夫」
なんとか声を押し出した。
「花の名前。ああ、覚えている。その花の名はトケイソウだ。……ここで、君が教えてくれたのだ。花びらは本来10枚だと」
「え?」
いぶかしむ顔すら愛おしい。
「ここにあるトケイソウは花びらが12枚。
時計館だから、時計そっくりの品種なのね、と言ってね」
「何を話しているの? 映画かなにかの話?
それよりも顔色が真っ青よ。気分が悪いのなら帰りましょう。わたしが運転するから」
可憐な声。
それに応える前に、また眩暈だ。
あまりの目眩の激しさに、テーブルに突っ伏してしまった。
今回は長い。
ようやく治まったところで顔をあげると、わたしは無人のオープンデッキに佇んでいた。
色あせて古びたテーブルと、朽ちかけた椅子。
店は荒れ果て、窓も入り口も閉じて、長らく人の出入りした気配はなかった。
何が起きたのだ?
店主やコーヒーは影もない。
狐につままれたか? まさかボケたとか?
不安に思うわたしの視界の中で、白いトケイソウの花が揺れていた。
黒服の店主の言葉が思い出される。
「……時間を引き寄せる、か」
まさか、な。
つぶやいて、クルマに戻った
目の奥には、さきほどの彼女の輝く笑顔が残っている。
いつもわたしを気づかい、やさしかったかつての恋人。
ドライブは終わりだ。
わたしときたら、なにをしているのか。
今日は、かつての恋人が妻になった日じゃないか。
わたしは携帯電話を耳にあてた。
「あ、俺だ。今朝はすまなかった。やはりまだ本調子ではないようだ。
これからケーキを買って帰る。君の好きなフルーツタルトでいいかな。
コーヒーの用意をしておいてくれ。カフェに入ったんだが……飲み損ねたんだ」
<了>
日々の中に埋もれてすっかり忘れてしまったけど、大切にしていた思いというのは誰しもあると思うのです。
ダイアリーや写真を整理したりすると不意にそんな感情を思い出したりしませんか?
もし、あなたがそんな思い出をもう一度体験したくなったら、Café時計館に行ってみるといいかも。