001:神崎家
4月。出会いと別れの季節。今までの関係を修正やリセットをしつつ、新たな関係を紡ぎ結んでいく季節。緊張する心と弛緩する世界の融合。
ちょうどそれは、今の私を表しているようだった。
「こ、こんにちは。三浦さん、でしたよね?」
「……こんちわっす。神崎先輩」
どうしてこうなっているのか、時を戻して確認していこう。決して悪いことをしたわけではないし、修羅場と決まったわけではないけれど、今後の動向を決めるためにも、とりあえずは振り返ろう。
今朝は、少しの寝過ごしがあったものの、いつも通りの時間に朝食を食べた。登校しなければならないタイムリミットまで時間があったから、昨日録画しておいたドラマを見た。時間になったので登校した。授業は退屈だったので、大抵のものは寝たあるいは仕事の整理をしていた。仕事っていうのは、つまりは家庭教師の仕事で、過去問の見直しとか、基本的にはそんなことをしていた。
当てられた回数、3回。その時の問題と答えは覚えているけれど、そんなことは割愛する。
んで、なんだ。ああ、そうそう。東風兄と一緒に帰ろうと思って、3年の教室へ向かうところで思い出した。彼は、週3で居残り勉強をしている。今日はその曜日だった。それで、しょうがないので一人で帰って、授業の時間までゴロゴロした。そろそろかなと思い、荷物を入れなおして家庭教師先に向かった。自転車が新品だったので快適だった。そんなに遠くないので、きつくもないありがたい環境だ。
それで、それで。
「清吾君って、神崎先輩の弟さんだったんですね」
家庭教師先に、神崎巫葉さんがいたということか。
「そ、そうなの」
笑顔を見せる巫葉さんは、美しい——というよりかわいかった。
「わ、私じゃ、教えられないから」
何を学年一位様が言っているのか。まあ、でも名選手が名監督になれるわけではないように、教えることができないというのも無理ないか。
「……あの、今日は何をするんですか?」
「え? ええと、数学ですかね。清吾君、文系科目は文句ないんですけど、理系は得意としていないみたいで」
「へ、変なところが、お姉ちゃんに似ちゃったなぁ、なんてね」
……。この人もしかして。
「緊張してます?」
「え?! い、いやいやいや、そ、そそそそんなことない、よ?」
図星だった。何だこの人。そりゃ惚れるわ。だって、『守ってあげたい』臭がプンプンするもん。
「じゃあ、私清吾君のところに行かなきゃなので」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げるその姿に、お姉さんを感じた。やはり、礼儀正しいところは上の子といった雰囲気である。
授業の時間となったとはいえ、切り替えられるはずもなく、気づけば彼女のことばかり考えていた。……は、これが彼女の効果。強すぎる。
上の空ではまずいので、しっかりと意識を清吾君に向ける。
神崎清吾という少年は、実直真面目な真人間で、たぶん性知識どころか恋愛もしたことがないのだろう。野球部でキャプテンだがモテないという、珍しいタイプであるのは、こういうところが起因しているのだろう。
以上、ソースは後輩の香奏ちゃんである。
粟生香奏。青嵐の直々の後輩であり、清吾君の先輩である。現在うちの高校の一年生だ。知り合ったのは青嵐のおかげである。ちなみに、清吾君の家庭教師の話を持ってきたのも彼女である。
内容を伝えるパートは終了し、問題演習パートへと移行したタイミングで、私の好奇心はピークに達した。
「なあ、清吾君」
「どうしましたか?」
清吾君がまじめなのは、きっとお姉さんの影響も強いのだろう。宿題を忘れたことも、さぼりたいと言ったこともない。成績は少しずつ伸びてきているし、このままいけばうちの高校よりもいいところに行けるかもしれない。
難関私大付属とか。
その辺はお母さまとの相談になるけれど、まあ公立でトップなら十分であろう。
「お姉さんって、どんな人?」
「一応これ授業中ですよね?」
「いいじゃん、ちょっとの雑談くらい」
「まあ、いいですけど。お姉ちゃんですか」
まじめなくせして、お姉ちゃん呼びなのか。そこはまた、子供っぽい雰囲気を残しているんだな。何だこの兄弟、あざとかわいい姉弟じゃないか。
「ああ見えて抜けているところがないんですよ」
「え? 普通、そういうのって抜けているところがあるんですよ~とか言って、『あー知ってる知ってる』ってなるところじゃないの?」
「本人は自覚がないようですけど、お姉ちゃんに任せれば基本的に何とでもなるんです」
「じゃあ、なんでわざわざ家庭教師なんて?」
「ああ、それは」少し言いづらそうに言葉を濁そうとする清吾君に、私は「なに?」と催促した。
「あの人、勉強を教えるために教え方を勉強しているんですよ」
まじめ通り越して怖いよ。私のライバルは、こんなに強敵なのか。
強敵というか、狂的だよ。
「先生に教えてもらってるみたいで。だから、帰りも毎日遅いんです」
「なるほど……」
「でも、帰ってきたら、ちょうど今もそうでしょうけど、夜ご飯をきちんと作ってくれる自慢の姉です」
「そんなことを言ってくれたら、きっとお姉さんもうれしいだろうね」
「……あの、なら、僕からも一つ訊いてもいいですか?」
突然の切り返しに少し戸惑ったが、「三浦お姉さんがなんでも聞いてあげる」と強気に出た。
若干引かれた。
「粟生先輩、いるじゃないですか」
「……粟生香奏?」
「そうです。粟生先輩と会いたくて、そこの高校受験しようと思っていたんですけど、粟生先輩どうですか? 見た目とか、変わったりしてますか?」
「ええと、変わったかどうかはわからないけど、純粋無垢でかわいい後輩だと思ってるよ」
「……そう、なんですね。いや、変わっているからって気持ちが変わるとかじゃないですけど、一応覚悟とか、しときたかったので」
なあんだ、かわいすぎるだろ。
「だったら、直接香奏ちゃんに頼めばよかったのに」
「それはさすがに、集中できないので」
「純粋ですなぁ」
私は教える立場だったから保つことができたけど、もしも教えられる立場だったらと考えると、彼と同じ言葉を並べるかもしれない。
あれ、もしかして私も純粋だった?
そんなこと考えている時点で純粋ではないけれども。
「わかった。じゃあ、今度体育祭に遊びに来てよ。オープンキャンパスがてら」
「いいんですか?」
「本当は関係者以外来ちゃいけないんだけど、君のお姉さんは関係者どころか当事者だからね」
「ありがとうございます」
「いやいや、私なんて何も」
「お姉さんも、頑張ってくださいね」
「え? ……ああ、体育祭ね、うん」
曇り一つないまなざしには、やはり負けてしまう。
「さあ、ラストスパート頑張ろう!」
「はい!」
きっと。きっと、巫葉さんが教える相手は東風兄なのだろう。そつなくこなす彼女のことだ、告白されようと態度は変わらない。
ただ、緊張しているのは私に対してだけなのだろうか。
そんな疑問だけが宙にふわふわと浮きながら、私はじっと時間が過ぎるのを待っていた。
長くて短い、10分間だった。