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「ねえやばいほんとどうしようまじでやばいってこれはほんとにそんなつもりじゃなかったんだってまじでほんとやばいってたすけてせんぱい」
「ちょ、ちょっと落ち着いて?」
どこにいるのか見当もついてなかったので、とりあえず1年の教室を片っ端から探そうと階段を降りていった僕を、香奏ちゃんは途中の踊り場で捕まえました。
「やっちゃったやっちゃったやっちゃった」
焦りからか手だけでなく、声だけでなく、全身が震えている。
そして、ついに膝から崩れ落ちました。
「違う、違うの。こうじゃなくって」
「と、とりあえず話を聞かせて。ここじゃあれだから、教室か……もしくは」
僕が連れて行ったところは、学校の中で最も通りが少ない教室です。元はクラスルームだったらしいけれど、学生が少なくなったことで使われなくなったんだとか。
この教室に入れるのは生徒会だけで、時折使用させてもらっていました。
「ま、まず経緯は知っているから、今日……というか、今起きたことを教えて?」
「……さっき、先生を介して新部長と話した」
「ああ、3年生はもう引退だもんね。それで?」
「今の環境が変わらないのなら、私たちの意思も変わらないって言ったの」
「……つまり、君は能力で決めてほしいってことだね」
「そう。それで、落ちるんだったら、納得できる」
「……それで、あっちは変えないと?」
「……いや、変えてくれるって言ってた」
「なら、良かったじゃん」
「……そう、なんだけど」
「……もしかして、隠してることある? まさか、いじめられてるとかじゃないよね?」
「いじめ、とか、じゃないよ。ただ」
「なに?」
「……何でもない、これは私の問題だから」
「ちょっと待った」
「離してよ」
「なら、話してよ」
「……『君のトランペットの技術でよくもまあ言えたものね』って、言われて」
「……おぉ。それで」
「右ストレート左目にぶち込んじゃった」
……あぁ。それは、ええと、……うわぁ。
「わ、私だって殴るつもりはなかったの。謝ってほしかったわけじゃなかったし、これからは実力勝負になるからと思って、一生懸命頑張ろうって思ったの。でもさ、でもさ」
「確かに、殴りたくなる気持ちはわからんでもないけど」
「今頃、大騒ぎになってると思う。今先生が捜しに来てると思う。どうしよ、どうしよ」
「……ちゃんと向き合って謝ったほうがいいって、きれいごとなら簡単に言えるけど、今の状態じゃ焼け石に水どころか油注いでるような感じだしなぁ」
そりゃもちろん、謝って済むなら何の問題もない。相手にも非はあるし。だからと言って、今から会ってはいごめんなさいでどうにかなるとも思えない。
反省している姿からして、謝るのは容易だろうけど、ここで謝ったところで何も解決しないの方が正しいかな。
「ちなみになんだけど、その新部長って名前なんて言うの?」
「……志知一二三さん」
「学級委員長じゃん」
志知一二三。楽器は知らないけれど、学年で最も上手いと言われる音楽少女で、うちのクラスの学級委員長。気が強く、とりあえずいつも僕らを見ては怒っている印象しかありません。今回の騒動も、彼女がかかわっているというのは何の違和感を感じません。
「あの委員長なぁ、かわいいんだけどね。黙ってれば深窓の令嬢って感じできれいなんだけどね」
「しゃべるとその辺の人より庶民ですよね」
「的を射すぎて諸手上げるしかない」
そしてそれなりに努力家なので、隙がないのだ。学年2位だし、悪口を言おうにも分が悪すぎる。
「……大変な人に喧嘩ふっかけちゃったね」
「そうですよね」
ようやく収まってきた彼女の涙を見てふと昔のことを思い出しました。あの頃は、固く閉ざしていて、はじける表情を見せなかった香奏ちゃんが、こうして涙を流して助けを懇願してくれるようになったことがうれしくなります。
いやそういう意味ではなく。
それに、中学生時代の彼女なら、今日の暴力沙汰はおろか、独立宣言すらしなかったでしょう。流れに任せて、身をゆだねて、漂流先で難なく生き残る。
そんな少女だったと記憶しています。
「もしかして、何か変化が起こるような相手ができたとか?」
僕の思考回路の中でしかあらわされていないと思っていた言葉は、どうやら彼女の耳にも届いたようで、彼女は何も言わず下を向いてしまいました。
耳を紅潮させながら。
「ねえ、まさかとは思うんだけど、告白された……とか?」
彼女は何も言わず、ただこくりと頷いた。
ちょっと待った。状況を整理しないと。
まず、香奏ちゃんは中学のころから神崎先輩のことが好きで、その神崎先輩は井口先輩と仲良くしていて、そして清吾君が香奏ちゃんに告白をした。
つまり香奏ちゃんは今みーさんと全く同じ状況ってことになるのか。
「でもね、彼今年受験だからってことで断ったの。でも、これで元気なくしてやる気なくしちゃったらどうしようとか、変なこと考えちゃって」
香奏ちゃん自身、根はまじめというか、自分の言動をいちいち気にするタイプなのです。起因しているのはきっと小学校時代のことなのでしょうが、そのことは今は思い出しません。忘れましょう。
「それで、少しイライラしているところにあのことがあって」
それでつながるわけだ。
涙や怒りの発現は、もやもやからくるむずがゆさということでしょうか。ともすると、これは香奏ちゃんの方にもだいぶ責任がありそうです。
しかし、そういうことならやりようがある。
つまり、清吾君がまじめにやっている姿を見せればいいのです。そうすれば、彼女も安心するでしょう。
「それなら、清吾君のところに行ってみようよ」
「え?」
「そしたら、すっきりするんじゃない?」
「……そう、なのかな」
「きっとそうだよ」
僕はそんな風に解釈をしました。僕なりの正解を導き出したのです。
しかし、それは僕の、僕だけの正解に過ぎませんでした。
教室から出た矢先、志知さんはいました。
「……やっと、見つけた」
その表情は殴られたからか、泣き顔でした。しかし、それはすぐに誤解だと判断できました。すぐに決めつけるのは、僕の悪い癖です。
「ほんっっっっとに、ごめんね!」
彼女は、土下座するような勢いで頭を下げたのでした。
「え?」
香奏ちゃんはぽつんと立っています。状況がいまいち理解できていないようでした。
「絶対に言っちゃいけないこと言った。つい、言っちゃった。本当に、ごめんね」
「……いえ、謝るのは、こっちの方で。本当に申し訳ありません」
「いやいや、ほんとに悪いのはこっちだから」
それから二人は互いに土下座まで到達したところで、顔を突き合わせ、互いに笑顔を見せたのでした。
一件落着。
「あ、あとそれで、青嵐に話があるんだけど」
委員長は、真剣なまなざしでこちらを見るのでした。
放送で呼び出された香奏ちゃんを職員室まで送り、僕たちは再びあの教室に戻ってきました。
「それで、話ってなんですか? 委員長。神妙な面持ちで、なんかあったんですか?」
「……いや、これはあくまで仮定というか、仮説にも満たない可能性くらいの話なんだけどさ」
「煮え切れませんね、本当になんなんですか?」
「もし、その可能性に続く道に続いちゃったら、危ないかも、ってだけなんだけどね」
考えてはやめ、話そうとしてはやめを続ける彼女に、ついに僕は「ほんとにどうしたんですか、らしくもない」とつい悪態をついてしまいました。
しかし、彼女は目もくれず、ぶつぶつとつぶやいて、それから「よし」と力強くうなずきました。
「文化祭の日、私とともに行動しなさい」