002
「なんで? 別に行ったっていいじゃん!」
「ダメだ。お父さんお母さんが迷惑するだろ」
「実の娘にそんなこと」
「いいからダメだ」
お手洗いからの廊下で、そんな会話が耳に入ってきました。声からして東風君と三浦さんだけれど、何をそんなにけんかしているのでしょうか。普段の彼らからは想像ができないです。
「……そんなに言われても、私は行くから」
強い決意に満ちたその発言とともに、三浦さんは廊下へ飛び出してきました。一度目が合いましたが、すぐさま頭を下げ、行ってしまいました。
「どうしたんですか?」
どんよりした教室に足を踏み入れ、尋ねてみましたが、返答はありませんでした。
「……なら、まあいいです。続き、やりますかね」
すると、彼は涙を浮かべつつ、天井を見上げ始めました。驚く私に目もくれず、彼はつぶやきます。
「……やっぱり、限界が来ちゃったのかなぁ」
限界?
『どこか』に行かせようとしない東風君。それでも行きたい三浦さんを止めることができず、『限界が来た』とつぶやきます。
「ねえ、東風君」
「……ん?」
「何か、三浦さんに隠していることがあるの?」
「……ええと、いや、その」
「聞かせて、くれないかな。出しゃばってるのはわかってる。きっと、部外者が入っていいことじゃないと思うの。あくまで予想だけど。でもね、三浦さんが辛そうにしているのはやっぱり私も悲しい。そして何より、君が抱える負担を、少しでも軽くしたいの」
「……でも、これは」
「東風君、今日ずっと空回りしてる。なんか、上の空って感じで」
「……そんなことは」
「これじゃあ、今までのが全部水の泡だよ。岩より硬い意志で、頑張ろうって言ってたけど、何か抱えながら集中なんてできないよ。それとも、今日は終わりにする?」
「……わかった。全部話すよ。だからさ」
「私は何でもするよ」
「……ありがと。霙を、一緒に探してくれないか?」
「……やっぱり三浦さんと何かあったのね」
「本人に、直接言わないといけないから」
それから、私たちは学校中を探し回った。教室、図書室、会議室。職員室の先生にも、保健室の先生にも尋ねたけれど、良い返答はなかった。体育館もグラウンドも、くまなく探したけれど、やはりどこにもいなかった。
「……逃げ足は速いんだよな、あいつ」
「電話、してみる?」
「頼みます」
掛けると、すぐに応答してくれた。
「あ、もしもし三浦さん?」
『……どうしましたか』
「今、どこにいるの? というか、電話しても大丈夫?」
『あんまりよろしくないです。電車の中なので』
「え、電車?」
『きっと隣にいる東風兄に言っておいてください。「私は一人でも行く」と。それでは』
激しく怒っている彼女の声は、当然東風君にも届いたようで、「くそっ」と地面をけりつけていました。
「……どうしますか」
「……俺たちも、行くしかない」
荷物なんか用意できるはずもなく、私たちはそのままの状態で駅に向かいました。しかし、8月はあまりにも暑すぎます。汗がだらだらと流れてきます。タオル持ってこればよかった。
「……なんとか乗れましたけど、どこに向かうんですか」
とりあえず電車に乗れましたが、肝心の目的地を私は知りませんでした。
「霙の祖父母家だよ。隣の県の」
「……鈍行でですか?」
「県境くらいのところだから」
「ああ、そういうことですか。すみません、失礼を」
「いやいや」
少しだけ間が空いて、彼は話し始めました。
彼女の両親の話でした。
「この間の祭りの時に、霙と来たことがあるって話をしたでしょ? あの日、おじいちゃんが倒れちゃったから、両親二人とも向かったんだ。ありえない話じゃない。彼女のお母さんは運転免許を持っていないからね。お父さんが運転するほかなかったんだよ。
「それで、俺と俺のお母さんが子守りもかねて一緒に祭りに出かけたんだ。
「楽しかったよ。いっぱい遊べたし、霙も行けて幸せそうだった。
「だから、そのあと聞いた話が、帳尻合わせのように聞こえてならなかったんだ。
「交通事故。向かう道中で、飲酒運転したトラックと正面衝突したんだとか。高速道路だからスピードは出てるよな、即死だったんだとか。
「その話を最初に聞いたのは、うちの母親。まだ小さくってか弱い少女に、あまりにも重い話だと思ったんだろうな、俺に話したときに『霙ちゃんには内緒にしよう』といったんだ。
「それが正解だったのかなんて、当時の自分はもちろん、今でさえわからない。
「それから間もなくして、おじいちゃんも亡くなった。おばあちゃんが引き取るという話になった時に、自分はもう年だからと俺たちに任せてくれたんだ。
「それから、俺たちは3人で過ごすことになった。
「あ、うちお父さん単身赴任なんだ。それはマジ。
「霙が中学生になって、自分の部屋がほしいってことで隣の部屋を借りた。それが、彼女の一人暮らしのからくり。
「正直言って、彼女が好いてくれるのはうれしいし、むげにはしたくないとも思ってる。でも、やっぱりどうしても妹としか見れないんだ。
「一緒に暮らした幼少期の感覚は忘れられない。楽しくって、悲しくって、いらだつこともあったけれど、やっぱり心配しちゃって。本当に妹なんじゃないかって思えるようになって。彼女の笑顔が、すごくかわいくて。
「あいつさ、虫嫌いの癖に外出るの大好きだったんだよ。
「日焼けしたら顔真っ赤にして痛い痛いって泣くし。
「トマト嫌いなのにケチャップ大好きで。
「好きなものは最初に食べる派で。
「先に欲しいものは全部言っちゃうし。
「クリスマスとかの行事も率先して飾りつけとかするし。
「人にずかずか言うくせに、自分が言われたら数倍傷つくし。
「慰めるの、めっちゃ苦労するし。
「でもあいつ、友達が辛い思いしてたら、自分のことのように怒れるやつでさ。
「ほんと、手のかかる妹なんだよ」
彼は、泣きながら、時に泣き崩れながら話しました。そのどれもに、私には抱えきれないほどの予想だにしない膨大な愛情が注がれていました。
「だから、気づかれないようにしていたんですね」
「あいつが、傷つくところなんて見られない。もちろん、成人になったら言う予定ではあったけれど」
「……さすがに酷ですよね、小さいころにそんなことを言われても」
「……ただ、今少し思ったんだけど」
「どうしましたか?」
「もし、生とか死とかよくわからないときに言ってあげたら、分からずにふんわりとしたまま刻まれていたら、こんなにつらくなかったのかなって」
「それは……」
「嘘をついて、よかったのかな」
私にその答えを持ち合わせているはずもありませんでした。
「……でも、あなたは傷つけないようにと真剣に考えたうえで、何年も守り続けたんですよね」
「……」
「その気持ちは、きっとわかってくれると思いますよ。別の解決策を、彼女なら思いついたかもしれませんが」
「……そうであってほしいな」
流れゆく景色は私たちに寄り添うことなく過ぎ去っていく。未だ来ない安堵を連れてくることもなく、現に存在する罪悪感を持って行ってくれるわけでもなく。
三浦さん、本当に気づいていなかったのでしょうか。
「皆が幸せになってくれれば、それでいいんですけれどね」
呟く言葉だけが、ふわりと泡沫に消えていく。




