002:中学生
そんな私もようやく中学生になった。小学校はオール5……に1届かないくらいの成績で、姉には届かなかったけれど、両親や姉からの頑張ってるねという一言が私をより一層努力させた。
『中学生の勉強って難しい?』
『ああ、難しいよ。私みたいにだらだらしていると、置いてかれちゃうかもね』
『頑張んなきゃ』
『まあ、勉強も頑張ってほしいけど、私としてはそのほかのことも頑張ってほしいな』
『そのほか?』
一呼吸おいて、姉は言葉を慎重に選ぶようにして言った。
『私はね、勉強ができるっていうただ一点に怠けて、ほかのことは何もしてこなかったの。知識としては知っているけど、熱中するものはなかった。だからね、私の後ろを追いかけてくれるのはそれだけ憧れてくれてるってことだし、うれしい。だけど、なーちゃんの人生は、なーちゃんのものなんだから、自分だけの楽しいこと、見つけなよ』
その表情がどこか儚げで、辛そうだった。
『……えーちゃん?』
『ん?』
『なんでそんな辛そうなの?』
『辛いわけじゃないんだ。どっちかっていうと寂しい、かな』
『寂しい?』
『もうすぐ、この家とさよならしなきゃなの』
『……そっか』
『まあでも、またすぐ帰ってくるけどね』
『なら安心して。私が、この家を守るから』
『お、頼もしいね。ありがと』
最後のその瞳が、やけにまぶしくて、私は何も言えなかった。
『あ、ちょっと話が早いかもしれないけど、もし私の高校に行くんだったら、お世話になった先生がいるから挨拶しといてね』
『わかった』
それから、姉の一人暮らしと私の中学生活が始まった。
ゴールデンウィークには帰るという彼女の約束は果たされなかったけれど、代わりに私が向かうことにした。ちょっとしたサプライズだ。
中学で私は吹奏楽部に入部したこと。練習は大変だけれど、先輩方優しく教えてくれること。勉強自体は今まで通りで苦にならないこと。違う小学校から来た友達ができたこと。その友達と初めてカラオケに行ったこと。予想以上に自分が音痴だったこと。それでも、楽しかったこと。
いっぱいの土産話を持って行った。
しかし、結果としては何も置いて帰ることができなかった。
『……あれ? 反応しないなぁ』
アパートのチャイムを鳴らしても、ドアをノックしても反応がなかった。
『あれ、もしかして粟生さんの妹さん?』
声のする方をむくと、隣に住む方だった。
『ああ、そうです』
『粟生さんね、おとといから会社に泊りみたいなの。昨日連絡があって、『荷物が来たら受け取ってほしい』って言ってたわ。会いに来たの?』
『え、ええと……そうです』
『そう。お土産なら、私が受け取っておくわ』
『……いえ、大丈夫です』
お姉ちゃんが帰ってきていない。学校からどれだけ速く帰ってこれるか試していたあのお姉ちゃんが。めんどくさがりで、投げやりなところもあるお姉ちゃんが。
帰ってきていないなんて、ありえないでしょ。
地元の駅に降りたとき、姉から電話があった。
『あ、もしもし? なんか今日来てくれたみたいね。ごめんね、ちょうどいま終わったところなんだ』
『……ねえ、お姉ちゃん』
『ん?』
『そこって、ブラック企業とかいうところじゃないの?』
『どうしたどうした。別に、お金はちゃんともらえてるし、休みもあるから問題ないよ』
『だって、会社に泊りって』
『ああ、それは締切直前だったから』
『……そうなの?』
『だから、平気平気。お盆には帰れるよ』
『体、大事にしてね』
『わかってますとも』
淡い期待は、空へふわりと飛んで行った。
『お盆も帰れないって大丈夫なの?』
『……ごめんね。上司の手違いで締切ずれちゃって』
『本当に大丈夫? 大変だったら、いつでも帰ってきていいんだからね?』
『大丈夫、大丈夫。心配しすぎだって』
『正月は、みんなで行くからね?』
『わかったよ』
声からして、明らかに疲弊しきっていた。それでも彼女は折れなかった。
正月。彼女は家で出迎えてくれた。
『久しぶり』
家はとてつもなく片付いていた。綺麗すぎて、むしろ不気味だった。もともと汚い部屋の住人だったからとか、そういうことではなく。
新品、未使用、未開封。
そんな感じがしたのだ。
『となりの菊原さんが、おいしいおせち作ってくれるみたいだから、みんなで行こ』
『え、いいのか?』
『申し訳ないわ』
『菊原さんから提案されたの、お母さん、お父さんも是非にって。もちろん、なーちゃんも』
作り笑いではないと、すぐに判断できた。
菊原さんは、地元が同じで、教師志望のフリーターさんらしく、すぐに私たちと仲良くしてくれた。
『かえでちゃんったら、すぐに私の家に来てお酒飲もうって来るんですよ』
『ちょっとやめてよ』
『こないだなんか、べろっべろに酔った状態で来たんですよ』
『あの時は二次会の後だったから』
『へえ』
大人な会話も、近況報告も全部楽しかった。一生続けばいいというのは大げさだったけれど、毎年集まる楽しみにしたいと思えた時間だった。
『あ、そうだ。なーちゃん、吹奏楽部なんだって?』
『そうだよ! 強豪ってわけじゃないんだけど、すっごく楽しい!』
『そっか、ちなみに楽器は?』
『トランペットだよ』
『……いつか、聴きたいな』
『今度、聴かせてあげる』
『ありがとう』
時が流れ、いよいよ帰る時間となってしまった。
『また来てくださいね』
『ありがとうございました』
姉は、駅まで送ってくれた。
『えーちゃん、頑張ってね』
『もちろん』
『無理しないでね』
『当り前よ』
『なんかあったら、絶対に連絡してよ。私でも、菊原さんでもいいから』
『わーってるって』
手を振り、改札を通って振り返ると、そこには涙を浮かべる姉がいた。
『……元気でな』
呟くようなその声が、やけに心にこびりついて離れなかった。




