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君色カレンダー  作者: 三河安城
粟生香奏の回想
15/30

001:幼少期

 姉の10歳の誕生日と同じ日、私は産まれた。私自身、4歳くらいまでの記憶が残っていないので、これはお母さんの話になってしまうけれど、どうやら姉は第二の母として活躍してくれていたみたいだ。


 お母さんが忙しいときは、ミルク作りからおむつ替えまでその小さい手でどうにかこうにかしてくれていたらしい。当時の私からすれば知ったこっちゃないので散々喚いたことだろう。それを彼女は『かわいい』と言ってお世話をしてくれたのだから、感謝してもしきれない。実際私がその立場だったらと思うと、余計に強く感謝したくなる。


 もう少し親から聞いた話をしたいと思う。


 彼女は私が産まれる前から、いわば神童として町内会では有名だったそうです。表立った伝説は、あまりにも突飛すぎて信じていないけれど、今思えば真実でもおかしくなかったかもしれない。突飛すぎる伝説というのは、『数学の未解決問題を解いたのち、匿名で数学者にヒントだけ授けたことがある』とか『読書感想文は聖書原本で提出した』とか『小2で実質大学進学が可能』とか『脳を調査するためにFBIが動いている』とか、そういうことである。


『あるわけないじゃん、そんなの』


 と思いたいものだ。

 一度だけ訊いたことがあるけれど、『そんなのあるわけないじゃん』と一掃されてしまった。『原本はさすがに無理だよ、せいぜいフランス語だよ』と付け加えて。


 ちなみに、取り沙汰された読書感想文の話は、姉がまだ小学2年生のときの話である。


『正直、あのころが全盛期だった』


 そんな風にその時は照れくさそうに言ったけれど、彼女にとって低迷期なんて存在するはずがない。常勝、それが彼女だ。


 姉はとにかく怒らない人だった。年齢差がありすぎたからなのかなと、いまだと考えることもできるが、当時の私はそこによくつけ込んだ。無茶な要求もしたし、責任を擦り付けたりもした。そのせいで、何度も姉は怒られていた。しかし、それでもなお姉は怒らなかった。


 そんな姉を、一度だけ怒らせたことがあった。初めて姉の怒った顔を見た私は、それ以降彼女に逆らうこともないし、この世の大抵のことに恐れることはなくなった。


「あの時は怖かった。ほんとに。社会的な死を感じた」


 私が小学生になる一年前、姉は高校に進学した。この高校である。当時からその学校は頭がよく、私の地元ではなかなか合格者が出なかった。お父さんが言うには、当時5年ぶりくらいの快挙だったようだ。


『えーちゃん、すっごい!』

『へへーん。すごいだろ』


 何度も制服を着てもらい、そのたび何度も興奮した。この制服を着たい、お姉ちゃんと一緒がいいと私が願うと、姉は『だったら、お勉強しなきゃね』と教えてくれた。


 それから私は、いっぱい本を読み、いろんなことをまとめる癖を身につけた。姉のように天才肌ではなかったから、少しずつしか成長できなかったけれど、あこがれの姉に一歩でも追いつきたいと必死になった。勉強をすれば、いつかと考えていた。


 しかし、現実は姉だけを見つめることを許してくれなかった。

 2年生の運動会間際。私は、現実を知った。


『……なに、これ』


 いつものように登校して、昇降口に入っていく。お姉ちゃんとおそろいの靴で、楽しかったのだろう。浮ついた気持ちのまま、げた箱を開く。

 そこには、ずたずたにされている上靴があった。

 近くには誰もいなかったが、少し遠いところで誰かが笑っていた。


 もしかすると、気がしたというだけだったかもしれない。ただ、その当時冷静さを獲得できるほど大人ではなかったとだけ、知っていてほしい。


 この時の私は、誰がやったのかと問い詰めるより、誰かに知られる方を恐れた。先生に見つかったら、変な心配をかけてしまうかもしれない。担任の先生は優しくて、まっすぐな人だから、大ごとになってしまうかもしれない。お母さんが知ったら、大ごとにしてしまうかもしれない。お父さんが知ったら。


『……まずは、無視しよう』


 言葉とは裏腹に、涙はずっと流れっぱなしだった。


 その日は、それ以外何もなかった。ずっと恐怖に震えていたことが功を奏したのかもしれない。ただ不安だけはまとわりついたままだった。

 翌日も、一つだけ耐え切れそうにないぎりぎりのものがあった。


 翌日も。翌々日も、その翌日も。一週間、半月、21日、1か月。


 誰にもバレないように、取り繕って、装って、偽って。

 そうして過ごした日々の一日なんて、覚えているはずもなかった。生きることに必死で、一つ一つの言動に注意を払って、注意深くなって、それでも笑顔を崩さずに帰ってきた。


 そして。


『……お前、ちょっとうちの部屋まで来い』

 姉は、初めて怒りを私に見せた。

『……』

 沈黙が続く。


 初めて姉の部屋に入ったことで、どうして今まで立ち入り禁止だったのかを理解した。

 図書館の本がすべて置いてあるのではないかと思ってしまうほどの本の数々が、無造作に散りばめられていたのだ。


『……なんですか、えーちゃん』

 姉は腕を組み、足を組んで椅子に座っていた。ベッドに座らさせられた私は、姉の様子を見ながら、言葉を選ぶ。

『私は怒っている』

『……わかってる』

『どうして怒っていると思う?』

『……わかんない』


 姉は、はぁとため息をついて、落胆するようなそぶりを見せた。

 まさか、バレたというのだろうか、そんなことを考えていた。


『あ、あのことなら大丈夫だもん。あたし、しんぱいかけないもん』

『じゃあ、泣きそうな顔で帰ってくんな』


 ……泣きそうな顔? 私は、ちゃんと笑顔を作ってから家に入っているはずだ。

 どうして?


『バレていないとでも? お姉ちゃんだけじゃなくて、お母さんもお父さんもわかってるよ』

『……なんで? あたし、ちゃんと』

『あんたね、自分で元気ある時と無い時の区別がついてないから』

『くべつ?』

『学校から帰ってくるとき、あんた絶対鼻歌歌って帰ってくるの。何の歌かもわからないけどね』


 盲点だった。元気に帰ることまでは覚えていたけれど、そんなことをしていたのか、私は。この時初めて自分の癖を知った。


『お母さんもお父さんも、『なーちゃんが隠そうとしているってことは自分で解決したいのかな』って言って黙ってたの』

『……』

『私だって、最初はそうしたかったけど、それでもやっぱり寂しいだろ? 一人でしょい込んだところでどうにもならない。親も私も、あんたを信頼しているの。でもね、何でも話せる相手は必要なのよ』


 何も、言い返せなかった。自分でできる、お姉ちゃんみたいに、かっこよくなれる。いっぱい本を読んだし、たくさん学校で学んだ。だから、どうにかなる。そう思っていたのだ。


『あたしだって、ほんとは』

 辛かった。苦しかった。悲しかった。寂しかった。

『ほら、こっちおいで。今日は全部話してほしいな』

 たくさん泣いた。それはもう、数えきれないほどの大粒の涙が流れただろう。初日に流したものとは比べ物にならないほどの、大量の涙が彼女の服に流れていった。


『これから、何かあったら絶対に話すこと。いいね?』

『……うん』


 これが、姉が初めて——そして唯一怒った表情を見せた日だった。


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