002:緊急事態
「それじゃあ、私もそろそろ」
香奏ちゃんが戻った後、僕も窓を開けて状況を観察していました。どうやら、今から僕が出る予定だった二人三脚らしいです。
「……ああ、そうなったのか」
体育祭は、クラスごとに色が決められる、いわゆる縦割りという方式がとられており、幸いにも僕たちは同じ色になっています。
だから、二人三脚の相手が井口先輩でもおかしくはないのです。
「井口先輩、ここで男を見せないと」
そう考えると、こっちまで緊張してきてしまいます。きっと本人は気づいていないだろうけど——本人ってか、二人とも——、この件で様相は急変してもおかしくない……のかな。
まったく、学校行事というのは軸になりすぎです。
「……あ、こけた」
一歩目でこけることって、あるんだ。
素直に感心してしまった。
「あ、怒ってる」
外からでも十分わかる、それくらい彼女は表情豊かです。それを井口先輩がなだめつつ、もう一度走り出します。
今度は、きっちり走れてる。井口先輩がもともと運動神経がいいのだから、そうやって最初から合わせればよかったのに。
「……ああ見ると、やっぱり兄妹な感じがするんだよなぁ」
ほほえましい光景でありながら、心が少しむずがゆくなります。喜びでもなく、怒りでもなく、悲しみでもなく、楽しいでもない。寂しい、とも少し違う。
嬉しい、じゃない。苦しい、に近い?
分からない感情に名前は付けられない。
ただ、その光景のおかげで一つの感情が芽生えたことが確かでした。
「……神崎先輩が、応援している」
一生懸命声を出している。普段の彼女からあまり想像はできないけれど、本来の彼女はそんな感じなのかもしれない。心が開いているのだろうか。
もし開けているのだとしたら、それは井口先輩のおかげでしょう。
「香奏ちゃんは、相変わらずだなぁ」
神崎先輩に姿をばれないように撮影しながら、にやにやと笑っています。そんな姿を知っているのは僕と、近くの友達くらいでしょう。クラスメイト程度なら知りもしないはずです。
窓の外の景色は、僕にとってあまりにもまぶしく映ります。だから、僕は少し背けてしまいました。天井くらいが、ちょうどいい。
僕は天井を見つめながら、呼吸を整えます。
学年一位たちが集う僕の周りでも、一生懸命恋愛している。
ある人を想い、ある人に想われ。
気持ちが強まり、気持ちが変わり。
そこに、違う誰かが入り込む余地はない。
「皆が幸せなら、それでいい」
そんな風に心を押さえつけた昼下がりです。
「ねえ! 救護室ってここ?」
「え、そうだけど」
鼻血でやってきた香奏の手当ては自分でやっていったけれど。
「神崎先輩、どうしたんですか?」
「なんか、熱中症みたい」
連れてきたのは、井口先輩ではなく、みーさんでした。
「……それじゃあ、僕何もできないんで先生呼んできますね」
「ああ、それなら今東風兄が行ってきてくれてる」
井口先輩、ふつうあなたが連れてきませんかね?
「……女性の体は触れないってことなのかな」
「なんか言った?」
「いえ何も。扇風機だけとりあえず回しますね」
「ありがと」
養護教諭の先生が来てくれたので、ひとまず僕は教室を出ました。なぜなら、服を脱がせたりいろいろするからです。
だからと言って外に出られるわけでもないので、僕は隣の空き教室に移動します。
そこに、みーさんもついてきました。
「みーさんはいいんですか? 看病してこなくて」
「なんでライバルの看病なんか」
強がっているようにも見える彼女の姿は、まるで小さい子のようで、心が温かくなります。
「本当はちょっとびっくりしたんじゃないですか?」
「……まあ。ぶっ倒れたから、さすがに」
「安心してください。きっと、応援のし過ぎで倒れただけですよ」
「……だから、心配なんて」
「別に認めてもよくないですか? それくらい」
「……まあ」
「ほら、認めて素直に生きた方がいいですよ。その時のみーさんが、一番素敵ですから」
「正直、怖かった。何が起きたのかわかんなかったし、このまま会えなくなったらって、そしたらどうなっちゃうのかなって」
「……なるほど、なるほど」
「……なあ、一つ聞いてほしいんだけど」
「何でもいいですよ。今日の僕は、聞き手ですから」
「……巫葉さんが倒れて、とっさに連れてきたとき、すごく心臓が動いたんだ。でもそれは、東風兄と二人きりでいるときにも感じたの。ねえ、これって恋じゃないよね? 単純に、心配とか、そういうのだよね?」
気持ちというのは、こちらから何か言えるものでもない。自分でもわからないのが、気持ちというものです。
「……それは、分からない。どっちかって判断できるものでもない、と思うけど」
「……そう、なのかな」
「僕はみーさんの考えを曲げたくないからそう言っただけで、自分で答えを見つけるべきだと、個人的には思うけどね」
「……わかった」
すると、養護の先生が扉をノックする音が響いた。
「じゃあ、行ってみましょうか」
僕はそう誘ったのだけれど、なかなか立ち上がろうとしない。
「……東風兄が、あっちにいるもん。邪魔はできない」
この子は本当はすごくお人好しなのではないだろうか。
「そうですか。なら、僕が相手しましょうか?」
彼女と話したいという自分の欲が、初めて発現したと思います。
「そうしてくれると、ありがたい」
彼女は笑いました。
拝啓、井口先輩。そちらではどのような話で盛り上がっているのでしょうか。
こちらは、井口先輩への愚痴と、神崎先輩への称賛で盛り上がっています。
「……ねえ、青嵐」
「どうしました?」
「東風兄は、やっぱりお兄ちゃんとして好きだったのかな」
「……いやあ、僕は知らないですけど」
「……東風兄へのあれこれって、恋愛じゃなかったのかな」
「だから、僕にそんなことを言われても」
「そうだよね、ごめん」
「……まあでも、それは別にいいんじゃないですか? 恋愛だろうと友情だろうと、家族だろうと、『誰かのそばにいたい』ということを隠したり、『違うことだ』って否定したりしなくてもいいと思いますよ」
「……なんか、青嵐って時々大人だよな。まるで、人生2回目みたいな」
「そんなことないですよ」
「ありがとな、励ましてくれて」
「何もしていませんよ、何も」
自発的に何かができるわけではないから、せめて相手が困っているときは手を差し伸べられる人間になろう。そう思わせてくれたのは、彼女でした。
「いいお父さんになれそう。でも、見た目的にはお母さんかな?」
「なんですか、それ」
「でも、いい親にはなれそうだな」
「お褒めに預かり光栄です」
彼女の屈託のない笑顔を見て、僕はまたしてもさっきのむずがゆさを感じます。抑え込んだ心の声が、暴れに暴れて外に出ようとします。
ここにきて、それは混乱を招くだけだ。
抑えろ、抑えろ。
「でも、青嵐も何かあったらちゃんと言ってよ? 私だって頼られたい」
優しいな、彼女は。
しかし、そんなことを言っていいことなんてない。
「ありがとうございます。何かあったら、いの一番に相談しに行きますね」
「よろしくな」
僕にはもう一年ある。こんな状態の中に飛び込む必要なんてない。
そうだ、それでいいんだ。
……飛び込む? どこに?
今まで僕は、何を考えていたのか。
「どうしたの?」
「い、いや何でもないです」
香奏ちゃん。好きな人はいない、そんな人に会ったことがないと僕は決めつけて押し殺していたようです。
「ただ、一つ」
「ん?」
頭をこてんと倒し、疑問符を浮かべる彼女に、僕は告げます。
告白? 違う違う。
約束だ。
「いっぱい悩んで、いっぱい戦ってきてください。困ったら、いつでも来てください」
とりあえずは、こんなところだろう。
さあ、僕はこれから彼女の恋を応援します。
どっちなのかは知らないけれど、とりあえず応援するんだ。
「……ん? どうしたの、今日なんか変じゃない?」
「そうですか?」
「なんか、変な感じ」
「そうですかね?」
「もしかして、私のことが好きになっちゃったりして……なんちって」
心臓の高鳴りがピークを迎える。少し気持ち悪くなる。
「え、何その反応。もしかして、本当? 待って待って」
「い、いやいやいや、そんなわけないじゃないですか」
「そ、そうだよな」
「だ、だいたい僕みーさんみたいなガンガン来る人よりおしとやかな人の方が好きですし」
「そ、そうだよな」
危ない、本当に危ない。学年一位の思考は発展しすぎるきらいがある。気を付けなければならない。
「じゃ、じゃあそろそろ戻ろうかな」
「そうですね」
そう言って、彼女は去っていった。近道である救護室の前は通らずに、反対方向から戻っていった。
「まあ、特に意味なんてないんだろうけど」
彼女が幸せになれるルートは存在するのだろうか。
あるいは、それでも幸せだと言わせなければならないのだろうか。
やはり恋愛は誰かを傷つける。
「それならいっそ、僕が傷ついたほうがマシだ」
世界は明るくあってほしい。彼女の未来が光り輝くのであれば、そこに僕はいらない。




