1.水と油
私がこいつと合作なんて、無理だと思った。やりたくもないし、やろうとしてもできないと。
決して相容れないこいつのことを、戦って倒す対象、越えるべき壁だと信じ切っていた。
要するに私は、こいつに負けたくなくて必死だったのだ。
◆ ◆ ◆
起きたら部屋がめっちゃくちゃ綺麗に片付いていた。夢か?と思ったが夢じゃないらしい。
私は諸事情で姉と二人暮らしなので、普通に考えればこれをやったのは消去法で姉になる。私が最後に部屋を片付けたのは1……いや、2……3ヶ月?前だからだ。
自分でもこんなに片付けしてなかったことに少し驚いた。
それはそれとして、違和感がある。姉がやったにしては完璧すぎるというか、私の理想の自室に近すぎやしないだろうかと思うのだ。
綺麗にスッキリ片付いたのを見ると結構広く思えるこの自室。
ドアを開けるとすぐ目に入る、何故か漫画だけ配置がそのままの本棚。
窓際に配置され、朝日がよく当たりそうな位置にあるベッド。
部屋の隅には、久しぶりに見る小さな電気を上部に取り付けた学習机。
そして中心には床に座って寛ぐ時のカーペットと折り畳み式丸テーブル。
備え付けのクローゼットに収納された服の並びまでもが、私が使いやすい配置に最適化されている。
まるで私が自分でやったような、いや、私が自分で全力を尽くして配置してもこうはならないのではないかというほど完璧に近い。
強いて不満を挙げるとすれば、筆記用具までもが学習机の上で筆箱に仕舞われていることだろうか。作業を始める前の準備に手間を取るのは嫌なので、鉛筆と消しゴムくらいは机に直接置いておきたいのだ。
やはりこんなに部屋が私に都合良く片付いているのは不自然だ。普通他人が片付けをやったら見てくれはいくらか良くなろうとも部屋の機能性は損なわれるものだ。そしてこれは私の姉においても例外ではない。
確かに私の姉、立川静久はしっかりしている。自室は片付いているし、家事全般も手際よくこなすし、大学の成績もそれなりにいい。
基本的に何をやらせてもそこそこの出来になるという恐ろしい人間なのだが、当の本人にあまりやる気がない。いや、取捨選択に全く無駄がないと言った方がいいかもしれない。器用すぎて嫌になるくらいだ。
何事も自分にとっての最低限のラインさえ上回っていれば何でもいいといった感じで、何かを極めたりだとか、何かに拘ったりすることとは殆ど無縁な人間なのだ。
したがって、姉が私の部屋を片付けていたとしてもこうはならない。姉がやっていたら、おそらく見栄えだけはそこそこよく取り繕われているが使い勝手はかなり悪い、と言った風になっていたことだろう。
海外にいる両親が帰ってきたわけでもないだろうし、本当に誰の仕業だろうか。
常識的に考えて思い当たる可能性は全て考慮したはずだがどれもいまひとつ納得できない。
だとすると、頭が痛くなってくるのであまり考えたくはないが、常識的な範囲から外れた可能性にも目を向けるべきなのではないかと思えてくる。
漫画や映画、あとはファンタジー系の小説なんかで出てくる、現実ではありえないとされる超常現象。いや、本当に考えたくはないのだが、そうでもないと説明が付かないのではないか……。
部屋がちょっと綺麗になった程度で何をバカなことを、という気持ちはあるのだが、万に一つでもその可能性があるのなら、考慮しておくに越したことはないのだ。
バカバカしくても何でも自分の中で結論が出ていないままだと気になって落書きの一つも描けやしない。
いずれにせよ、今この場で部屋の謎が解決できない以上このまま考えていても仕方がない。とりあえず怪奇現象のせいとしておいて、明日出す課題でも進めるとしよう。
◆ ◆ ◆
課題をどうにか済ませて日曜を終えた私だったが、あの時感じた嫌な予感は残念ながら的中することとなった。
事件が起きたのは翌日、いや、翌々日だった。
朝6時半に目覚めた私は、スマホを確認して曜日が月曜日ではなく火曜日であることに気付いてしまった。非常事態である。
丸一日寝ていただとか、昨日の記憶だけすっぽり抜けただとかバカバカしい仮説がいくつも頭を過ぎったが、日曜の件もあるのでとりあえずは普段通り、何事もなかったかのように登校することにした。
着替えてリビングに出てくると、姉は既にテーブルについて朝食を食べていた。
テーブルに置かれた3つの皿にはそれぞれ、玉子味のふりかけをかけた白米、わかめと豆腐の味噌汁、それとキャベツのトマトのサラダが盛られている。
サラダが出てくる日はあまりないが、取り立てて言うほど珍しくもない。我が家の普通の朝食だ。
「おはよう」
「ん、おはよ」
姉に挨拶をしたが返事も普通。姉の目が届く範囲ではまだ何もおかしなことはなかったということだろうか。
「いただきます」
朝食を食べ始める。やっぱり普通だ。
登校中も特におかしなことはなく、いつもと同じような時間に席に着いた。
「おはよう」
「朔夜じゃん、おはよう」
斜め前の席に座る京佳が、私に気付いて挨拶を返す。少し高めの位置で括ったポニーテールがよく似合っている。
彼女は高校に入って初めての友達で、去年から細かい班分けやらなんやらでよく一緒に過ごしていた。私とは似ても似つかぬ眩しい子だ。
「おはようございます」
後から続いた艶やかな黒髪を肩まで伸ばしたいかにも大和撫子といった感じの少女は、いつも私たちの席へ喋りに来ている茉梨だ。
今年から同じクラスになったのだが、元々京佳と仲が良かったらしく私とも絡むようになった。
最初は彼女の敬語に少し距離を感じていたが、「敬語キャラ」として周りに認識してもらうためにやっているだけなのが発覚してからは全く気にならなくなった。
このエピソードだけでもなんとなく察しがつくが、彼女は少し電波系っぽいところがある。なんだか周りとズレているらしい私が言うのもアレだが、ちょっと変な子だ。
学校での私たちは基本的にこの3人組で固まって過ごしている。
「それで、昨日の話なんですけど」
「あ、本人来たから丁度いいね。答え合わせしてもらお!」
昨日のことで私に話があるらしい。やっぱり昨日の私はなにかおかしかったのだろうか。
「何の話?」
「昨日の朔夜、なんか変だったじゃん、何だったんだろーって」
「妙に私たちに優しかったですよね。いつもはもっとこう、傲岸不遜って感じなのに」
傲岸不遜って……。いつもの私はそんなのではない。完全に茉梨の誇張だ。
「そうそう、ちょっと腰が低い感じ。敬語だったし」
「それ!それです!急に敬語で話し始めるからてっきり私のキャラに寄せに来ているのではないかと」
「まあ茉梨の妄言はともかくとして、人が変わったみたいだってたからさ。で、どうなの?」
「なるほど」
これはどう説明したらいいのだろうか。私にもよく状況が掴めていない。
私に昨日の記憶は全くないが、昨日学校に来ていたのは確かなようだ。
そして二人が言っていた通り、別人のような言動をしていたとするならば、
……わからん。私の頭で今結論を出すのは難しい。仕方がないので全部二人に話してみるか。
「実は私もよくわかんないんだよね……。一昨日までのことはちゃんと覚えてるんだけど昨日の記憶だけすっぽり抜けてて」
「マジで……?」
「胡散臭いですね」
京佳はひとまず信じてくれたように見えるが茉梨はかなり疑っているようだ。無理もない。寧ろ京佳が甘すぎて心配になるくらいだ。
「まあ朔夜さんがトチ狂ったとかじゃないなら二重人格辺りが妥当なんじゃないですかね」
「えー今更突然人格増えるなんてことある?ないでしょ~」
「朔夜さん、最近他に変なことなかったですか?」
変なこと……。あ、あったな。
「あったよ変なこと。一昨日昼寝してる間に部屋が片付いてた」
「は?静久さんが片付けたんじゃないの?」
「姉さんは基本的に放任主義だし、部屋が自分で片付けた後みたいになってたの」
「というと?」
「机の上の物とか、大体自分が使いやすいとこに置いとくでしょ、部屋中そんな感じ」
「二重人格じゃん」
「間違えました。二重人格じゃないですか」
「そんなに無理してまでやらなくていいと思うんだけどなー」
そんなに二重人格説を推されると自分でもそんな気がしてきてしまう。
「確かに二重人格なら説明付きそうだけど、流石に『はいそうです』とは信じがたいよ……」
「じゃあ今から確かめるとしましょう、ていっ」
反応を返すまでもなく仮説の実証?が行われる。何故か後ろ首に手刀を入れられた。暗転。
◆ ◆ ◆
「はっ」
「急に手刀叩き込む奴があるか。びっくりするわ」
「びっくりっていうか、意識飛んでたよ……」
「嘘でしょ……。手刀で意識飛ばしていいのはフィクションだけじゃなかったのか」
「しかしまあ、こうもハッキリ……」
「何?どうしたの?」
私が茉梨の手刀でへばっている間に一体何が起きたんだろう。
「てれれれれれれ~れん!結果発表~!」
え、なに。怖いよ。京佳は常識人枠じゃなかったのか。
「はい、検証の結果、朔夜さんは私の読み通り二重人格っぽい挙動が確認されました」
「あ、マジでそうなんだ……え、どうしよう……」
いつの間に二重人格者になったんだろう。っていうかこれどうしたらいいんだろう。
「朔夜さんを寝かしてからちょっとして2個目の人格っぽいの……とりあえず裏朔夜さんとしましょうか、それが出てきたんですけど」
寝かしてっていうかチョップしてだろ、話の腰を折るからツッコまないけど。
「裏朔夜は昨日のこと覚えてるみたいだったよ、口調とか雰囲気もまんまだった」
「それで裏朔……なんかこの呼び方微妙じゃない?それどうしたの」
「そりゃ勿論こう」
京佳が空中に手刀を振りかざす。
「お前またやったのかよ」
「ええ、一発で華麗に沈めてやりましたよ」
あまりにも自信満々で悪びれる様子もない。いい加減にしろ。
「一応大体はわかったよ、これ私が居眠りとかしたら多分裏の子が出てくるってことだよね」
「そうですね、朔夜さんは物理の時間とか殆ど起きてないので、今日はなくて良かったですね」
「私そんなに寝てるかなあ」
「寝てるよ」
「寝てますよ」
なんでこういう時の二人は異様に息ピッタリなんだろうか。
「まあ今日ないのはいいとしても放っとくのも不安だし、どうにかしないとなあ」
私は正体を現した不安の種に頭を抱えながら、チャイムの音を聞いていた。
◆ ◆ ◆
「よし、白紙のノートみっけ」
帰宅後、一日中考えた末に決めた私の裏に潜む私への対策を実行すべく私は机に向かっていた。
まず、油性ペンで表紙を書き込む。
「交換日記、と」
そう、交換日記だ。
裏の子も昨日学校に行っていたことや、京佳や茉梨と普通に話していたっぽいことから無理に引っ込めようとしなくてもとりあえずは大丈夫だろうという結論に至った。
だが記憶が一日飛びだと後々不都合が出てくることは自明なので、交換日記を付けて本来私が覚えておくべきことを共有しよう、というアイデアだ。
確認は取れていないが向こうにとっても周りとの会話やらなんやらで齟齬が出ないというのは悪い話ではないと思う。まあ日記以外のところでかなり面倒をかけるのでどちらにせよ申し訳ない気持ちはあるのだが。
「えーっと、これタイトルみたいなのいるのかな」
日記なんてちゃんと昔出された夏休みの宿題のですらきちんと付けた覚えがないので、いざ書くとなると戸惑ってしまう。
「まあ書かなくていっか、私たち二人しか見ないし」
こうして、私たちの交換日記が始まった。
『裏の私?第2の私?呼び方がよくわからないけど、この文章を読んでいるであろうあなたへ。
私と交換日記をつけてほしいです。情報共有ができていないと困ることとか、これからここに書くようにしてください。
それともう一つ、私が今描いている絵のことで、締め切りを考えると一人では描ききれるのか不安です。なので、正直なところ私も抵抗はあるんですが、作業の手伝いをお願いするかと思います。
それで、私とあなたのどこがどう違うのか全くわからないので、確認程度に適当な絵を描いて見せてもらえるとありがたいです。
今日のところはそんな感じで。よろしくお願いします』
◆ ◆ ◆
翌日、じゃなくて翌々日だが、目を覚ましてすぐに、私は机に目を向けた。
どんな返事が来ているのか、裏の私は私のお願いを聞いてくれたのか、もしそうならどんな絵を描いているのか。
一応裏の私ではあるのだが、相手のことを何も知らないというのは、何も知らない相手に何かを委ねるというのは、やはり不安で仕方がない。
だからあの子の書いたものを、描いたものを見て、少しでも知りたいと思った。
机上のノートには、下に短く返事が書かれていた。
『わかりました。私のことは適当な呼び方で呼んでください。絵は私の中にある記憶で頑張って描いたけど、上手くできたかはわからないのでそっちで判断してください』
ノートの横にあるスケッチブック。多分ここに、あの子の絵がある。
なんだかワクワクする気持ちと不安な気持ちが混じって変な感じだ。スケッチブックを握る手が緊張する。描かれているページにあたりを付けて、覚悟を決して開く。
「……は?」
描かれていたのは川の絵。私が前回のコンクールに応募した時の、記憶に新しいモチーフだ。あの子もその記憶を共有しているのだろうか。
だが問題はそこじゃない。描かれているモチーフが同じくらいじゃ動揺なんてしない。だけどこれは、これは――
ついこの間まで描いていた川。細かい違いはあるが、構図や画面の中身は同じだ。
底の石が透けて見える、透明感のある川。絶えず流れ続けることを意識させる、「動き」を押し出した水の描写。それと、ラフながら力強さを感じさせる周囲の木々や岩肌。
デッサンとはいえ、これを一日の間に――いや、そうじゃない。速さよりも、恐ろしいのはその端的な描写力だ。少ない情報量できちんと「絵」として成立しているのが恐ろしい。
描き込んで情報を詰め込む時間がないから、最初から少ない情報量で絵を魅せようと割り切って描かれている。全体としてはできるだけ無駄な線を引かず、必要な部分以外は受け手に補完させるように。一番見せたいところ――ここでは画面の中心、川を流れる水、その描写にはとことん時間をかけ、この絵で表現したいものを描ききっている。
この画面には、絵が描かれる工程には、本当に無駄が少ない。
完成形のクオリティではおそらく同レベル程度に落ち着くだろうが、そこまでの経過は比べものにならないだろう。
私が時間をかけて何度も何度も引き直して辿り着いた線を、向こうは殆ど描き直すことなく近づけてくる。
私が必死にモチーフと向き合い、描き込みを増やしてようやく出せた質感に、向こうは最低限の線で出した雰囲気で迫ってくる。
そして何より違うのはその画風、絵の根底にある思想だ。
私が「リアル」な質感を追求し、その中にある美しさを表現しようとしているのに対し、向こうはそれっぽいリアリティで作った画面の上に、自分の思う美しさを、そこにはありもしない「噓」を綺麗に重ねている。
本物の中から抽出した美と、最初から存在しない虚構の美。
出ている癖が同じでも、引いた線が似通っていても――どれだけ表面的なところが近くても、その奥深くにあるものが違うなら、それらは全くの別物なのだ。
この絵はすごくいい絵だ。私の思想と違うだけで。
私の絵になかった魅力が、うまく調和して詰め込まれている。認めたくないけれど。
あの子が私を手伝うことなんていくらでも正当化できる。物理的に見れば両方「私」だ。他人に私たちの違いなんてわからない。作品が良くなるなら、この際合作でもなんでもいい。
そうやって自分を騙して信じ込めたなら、楽だっただろうか。
「これは私の手で、私の知識で、私の技術で描かれている。世界のどこを探しても、きっとここまで似てる絵は出てこない。――だけどこれは、私の絵じゃない」
こんな絵を私の作品に混ぜるわけにはいかない。こんな異物を私の一部として取り込むことなんてできない。
こんなものが同じキャンバスに乗ってしまったら、私はそれを受け止めきれずに壊れてしまう。
だから私は、あの子の手を借りられない。
そして私はそっと、スケッチブックを閉じた。