春
通りかかった桃原の手が筆箱を弾いた。宙を舞う文具たち。反応する間もなく、中身は辺りにぶちまけられ騒々しい音が教室に響いた。
「あ、ごーめんね青山! わざとじゃないし、ゆるしてよー」
桃原はいつも通りにそう告げた。何の気もなしに、青山のことを無意識に見下して。
確かに普段であれば青山も取り合うことのない些事である。面倒ではあるが軽いイタズラの範疇であるし、それに反抗して勉強の時間を削られる方が面倒である。青山瑞希とはそういう性格の少女であったし、事実、これまではそのように過ごしてきた。
しかしこの日は、この日だけは違った。
部活も趣味も持たない青山がすべてを懸ける受験勉強、その成果をはかる模試の返却が昨日なされた。結果はD判定。某難関国立大学ではあるが、青山はそこに合格しなければならない。本番まではおよそ3カ月。この時期に、自分が合格圏から遠く離れた場所にいると突きつけられ、青山はひどく揺さぶられた。加えてそれを見た母もヒステリックに彼女を罵り、彼女の精神は限界に達しようとしていたのである。
そんな状態への挑発。青山はその相手に鋭い視線を向ける。
「――は?」
対して張ったつもりもないのに、その声は不思議と空間に響いた。聞いたものを底冷えさせるような、鋭利な声だった。青山の苛立ちを感じ取ったクラスメイトは一人、また一人とおしゃべりを止め、次第に静寂の支配が広がっていく。
不穏な気配から逃げるように教室から出ていく者もいたが、当の桃原は目を合わせたまま動けない。いつもの軽口がこぼれそうになるがなんとか抑え込む。そんなことをしたら何をされるか分かったものではない。そう思わせるだけの雰囲気を今の青山はまとっている。これまで自分が踏んできた尾が冷酷な獣のそれであったことに、今更ながら気づいたのである。
「ぇ、えと、あの、ごめんね? あたしもわざとじゃなかったって言うか……」
自分を見つめたまま微動だにしない青山に気圧され、語尾はほとんどかすれてしまっていた。桃原にとって教室とは自身を頂点としたカースト空間でしかなく、自分は上の人間であると思い疑ったことなどなかった。そこに悪気はなく、ただこれまでの環境が彼女にそう思わせてきたのである。しかしその前提がこの一瞬、生まれて初めて真に受ける純粋な怒気により覆されようとしている。
一方青山も、生まれて初めて感情を剥き出しにする高揚感に支配されていた。思わぬ形で、周囲の期待する「良い子」から解き放たれたのである。青山は感情にその身を任せ、机上のテキストとノートも自らで払い落とした。
「キャッ!!」
バサッと勢いよく飛んできた教科書に思わず声を上げる桃原。青山の意図が理解できず再び顔を向けると、青山は椅子をガララと引いて立ち上がった。女子の中では背が高めの青山は、自然と縮こまる桃原を見下ろす形となる。青山の顔は決して笑っていなかったが、その瞳には肉食獣の如き獰猛な光が宿っていた。
「ねえ……拾って?」
「え……? あ、う、うん」
何も言わずに従う桃原。あの桃原が私のために這いつくばっているのだと、青山はその事実にますます興奮した。桃原はすぐに教科書とノートを拾い上げ、青山の机の上に戻した。
「はい。こ、これでいい……?」
早くこの状況を抜け出したい一心で桃原がそう尋ねるも、青山は逃がさない。
感情の読み取れない瞳で机上に戻されたテキストを一瞥すると、その視線を桃原へと移す。
「あれ、やったの桃原だよね? ふざけてんの?」
「ご、ごめん!」
青山は目で床に散らばった文具を示し、桃原に拾わせる。予想以上に脆かった桃原を目にして、青山は分かりやすく調子に乗っていた。快感であった。人というものは少し威圧するだけでこんなにも簡単に従わせることができるのか。桃原以外のクラスメイトも青山に反抗する様子がない。今まで見ていた彼女らはメッキの女王であり、自分こそが真なる強者であるのだと気づいたのだ。
すべて拾い終えた桃原の手から筆箱を乱暴にひったくる。おもむろに帰り支度を始めた青山を周囲は不思議に思うも、やはり恐怖が勝るようで顔をそちらに向ける者は少ない。
「私、調子悪いから今日は早退するわ。先生に言っておいてもらっていいかしら。ねえ……
い い よ ね ? 」
「ヒッ……う、うん。わかった」
そう言い残し教室を後にする青山。
今の彼女を止められる存在などいない。逆らったことのない先生や両親でさえ大したことないように思える。なんという全能感だろうか。それはこと勉強においても、彼女を自信で満たしていた。
しかし気づいているのだろうか。自分の顔が、かつて軽蔑していた彼女らの顔に近づきつつあることに……
◇◆◇
この日を境に、三年五組における既存カーストは崩壊した。これまで幅を利かせていたグループは、休み時間は何かに怯えるように教室の外で過ごすようになった。対称的にこれまで教室の隅でコソコソと過ごしていたグループは自分たちの席から離れる必要がなくなった。
そして、桃原と青山の二人は。桃原は案の定孤立した。青山の怒りを買うことを恐れてのことである。元来いじめっ子気質というわけではない桃原に強権を振るう度胸などあるはずもなく、彼女はそれに文句も言わずに、しかし泣きそうな顔で生活している。
対して青山は――何も変わらなかった。
これまで通り、朝早く登校しては予備校の問題集と格闘し、休み時間は暗記モノとにらめっこ、放課後はまっすぐに図書室へ向かい下校時刻まで足りない部分をひたすら詰める。むしろそれまでよりも一層勉強に力を入れた。ただし一つだけ、変化があるとすれば――
「桃原」
「ヒッ……な、何? 青山さん……」
「下の自販機で何か買ってきてよ。私図書室に行ってるから。いいよね、だって桃原は推薦決まって暇だもんね?」
「う、うん。いいよ……」
「ありがと、じゃあこれね。よろしく」
雑に百円玉を二枚渡して教室を出ていく青山。彼女が見えなくなったあたりでようやく桃原は硬直が解けたようで、飲み物を買いに行った。
あの日以来、青山が桃原をパシりにする光景が度々見られるようになった。もちろん無意味な嫌がらせをすることはないしお金だって渡してはいるが、それでも桃原はクラスメイトから憐れみの目を向けられていた。依然として彼女に関わろうとする者は現れなかったが。
青山からすればあの日の言動は反省すべきものだったが、その後危惧していたような報復や攻撃をしてくる者はいなかった。あの桃原も、ただおとなしくしている。だから調子に乗って桃原をパシりにした。勉強に集中するためなのだから仕方ないのだと自分を誤魔化した。
そもそも、これは桃原自身が蒔いた種なのだ。三年に上がってすぐの頃、相も変わらず図書室へ向かおうとした折に桃原に声をかけられた。曰く、飲み物を買ってこいと。青山は無視してやったが、代わりに他の生徒が標的にされていた。あの女は自分以外を便利屋としか思っていない。ならばこの扱いは当然の報いだろう。
そう自分に言い聞かせて、青山は一人、テキストを開く。
◇◆◇
冬が終わり、春が来る。
一年というのはあっという間だったなあと、人生で何度目かわからない感想を抱く。大学卒業後もまた同じことを思うんだろうなと思いつつ、青山は人気のない廊下を歩く。窓の外には、桜の花が舞っているのが見える。
今日は三月八日、卒業式の日である。クラスのほとんどが進路を決め、合否発表が残っているのは国公立の後期くらいか。浪人は今のところいないようで、担任は安心しきっていた。
メインイベントたる式はすでに終了し、最後のホームルームもあっさりと終わった。所属があるわけでもないし特段仲の良い友人もいない青山瑞季のような人間は、通常であれば家に帰っている時刻である。そうしない理由はただ一つ。
「悪いね桃原、わざわざ来てもらってさ」
「う、ううん、大丈夫。それで、は話って何?」
体育館側の出入口から出て校舎沿いに歩くとたどり着く、教職員用の駐車場。校舎裏に位置するため人の目はなく、時間帯からしても誰も来ないはずである。青山はそこへ、桃原を呼び出していた。
「えー? あー、うん……」
青山は首を右手でさすりながら口ごもる。何度か口を開いては閉じ、ようやく何かを決心したように話し始めた。
「……桃原はさあ、結局K大にしたんだっけ?」
突然青山に呼び出され、何かと思い来てみればただ進路先を尋ねられた。昔の復讐すら考えていた身からすれば拍子抜けもいいところで、三秒間は硬直していた。
「ーーう、うん。そうね。それがどうかした?」
青山の手足として動いた三ヶ月が消えることはないようで、無視されたなどと思われては堪らない。桃原はなんとか返答する。
「学科は?」
「経営、だけど」
「ふーん……」
続けて放たれた言葉は、桃原が理解するのにかなりの時間を要した。
「私も、K大の経営なのよ。奇遇ね」
「……え? ウソ……青山、第一志望は? てか後期の発表もまだじゃ……?」
「一次で落ちた」
「は? あの青山が? なんで、あんなに勉強してたのに」
「センター8割切ったの。当然よね、あんなことをして勉強に身が入るわけがない」
あんなこと、と言われて桃原が思ったのはこの三ヶ月。言われてみれば確かに、以前とは何かが違う。勉強にかける時間は増えていたようだが、その中身としては集中しきれていなかったようにも思える。
「まぁ、そんなことはどうでもいいんだけど」
「どうでも……って、青山はそのために勉強してたんじゃないの?! それをそんな簡単に諦めるなんて……」
「なんで桃原がそんなに取り乱してるの? いいのよ。
それよりも、桃原を呼んだのはちょっと、言いたいことがあってね」
桃原は納得していなかったが、本人が良いと言っているのでひとまずはその用事とやらに耳を貸す。
「な、なによ」
「いや、今さらこんなことを言うのもちょっと、アレなんだけど――
――ごめんなさい。」
ごめんなさい。
桃原の心へ、その言葉はストンと落ちてきた。
「虫がいいことを言っているのは理解しているけど、言わせてほしい。
桃原は私をいじめたこともないのに、たった一回、あんなことで勝手にキレて、しかも私が大っ嫌いな他人を顧みない言動で不快にさせたと思う。今でもなんであんなことをしたんだか……あーいや、言い訳とかじゃない。私が桃原を傷つけたことは何も変わらないから。だから、ごめんなさい」
わけがわからない。なぜ? 突然の謝罪に、桃原の脳はうまく働かない。それでも、なんとか言葉を絞り出す。
「は……? なんで、そんなの、意味わかんない……ィグッ、うぇえええん」
「ちょ、桃原……なんでアンタが泣くの……」
「だって、グスッ、あたしも、あたしも青山に、みんなに嫌なことしちゃったって、思って、ずっと、謝んなきゃってええ……」
そこまで言われて青山はようやく思い至る。この桃原さくらという少女は、何も悪意であんなことをしていたわけではなかったのだ。ただ自分と同様、ある意味では自分以上に、コミュニケーションに関して不器用なだけだったのである。
「ああもう、泣くな泣くな。ほらティッシュ使っていいから」
「う"ん、あ"りがどう……」
桃原さくら、ガチ泣きである。
いくら周りに興味がない青山と言えど自分のせいで泣き出した少女を放置することはできないようで、ポケットから取り出したティッシュを差し出した。
しばらくして、桃原が落ち着いたところで青山はまた口を開いた。
「まあ、私が言いたかったのはそんな感じ。
たぶん、心のどこかでは分かってたんだと思う。もっと早くこうするべきだった。でも、自分なら何でもできるっていう感覚がなかなか抜けなくて……結局、第一志望の不合格通知を突きつけられて目が覚めた」
「そっか……残念だったね」
「いや、それはもういいんだよね。考えてみれば、あの大学に行きたかったのは私じゃなくてお母さんの方だった。それに気づくまで三年もかかっちゃったけど」
自分のやりたいことをやりたいと言えない、その逆も然り。あの日、桃原に当たってしまったことは反省しているが、そのおかげで長年の呪縛から解き放たれたのもまた事実である。
「そういうことだったんだ。あたしは青山が好きで勉強してるのかと思ってた。たぶんクラスのみんなも」
「あんなつまらないもの、好きなやつの気が知れないわ。
だから、大学では自分がやりたいことを好きにやるつもり。あ、大学の近くに部屋も借りる予定だからさ……桃原、来なよ」
「ッ!」
桃原には分かった。そっぽを向きながら、何でもないような物言いだが……青山なりに勇気を振り絞って言ったのだろう。顔をのぞいてみれば、案外真っ赤に染まっているかもしれない。この舞い散る桜の花びらのように。
「ほら、桃原には迷惑かけたし、さ。罪滅ぼしさせてよ」
「それ言ったらあたしもだよ。だから……そのときは、いろいろ買っていくことにする」
「桃原……」
二人の少女は、その不器用さからぶつかることとなった。互いに信じられる者はなく、他人とどう関わればいいか、正解なんて分からない。訪れるは冬。厳しい寒さが少女たちを苦しめる。二人は思いがけずもその身を寄せ合い、温もりに心を開く。
そして今、桜散る春。
「ねえ青山。多分こんなこと、わざわざ言うことじゃないのかもしれないけどさ――」
――あたしと、友達になってください。