第二講目 頼れる先輩とダメ人間
詳しい事情を聞くために自治会実行部に集まったいずみ先輩、俺、栗山の三人。応接室的な部屋に通され、係の人が来るのを待つ。
その待っている間の様子は三者三様で、いずみ先輩は鼻息荒く、興奮を隠し切れていない。その隣の栗山はいつも通りの涼しい顔で足を組みじっとしている。一方の俺はと言うと、そわそわ落ち着かず、用もないのに携帯電話を開いてみたり、キョロキョロと窓の外を眺めてみたりと、なんだか自分の肝っ玉の小ささが嫌になる。
部屋に通されてから五分ほど経った頃、慌てた様子で一人の男性が奥の扉から入ってきた。
「すいません、ちょっと他の仕事がありまして」
ぺこぺこと頭を下げるその男性。恐らくかなり急いで来てくれたのであろう、額には汗が浮かび、そのせいで前髪が額に張り付いている。
「あ、俺自治会実行部の塩崎って言います。それで、今日はどんなご用で?」
ソファーに腰を下ろした塩崎さんが息を吐くまもなく、いずみ先輩は噛みつく様な勢いで口を開く。
「廃部って一体どういうことですか!? 確かに私たちはきちんとした活動はしてませんけど、それにしても何の通知もなく突然こういうのってひどいと思います!」
勢いよくソファーから立ち上がり、黒絹の髪の毛を振り乱しながら、いずみ先輩は烈火のごとく勢いでまくし立てる。これではたまらない、と言わんばかりな塩崎さんにまぁまぁ、と諭され、いずみ先輩は多少落ち着いた様子で再び腰を下ろす。しかし興奮が収まっていないようすで、唇をとがらせ分かり易い不機嫌顔を作っている。
普段は温厚……と言うより、少々抜けたところのあるいずみ先輩が、こんな剣幕で人を責め立てるところを俺たち二人は見たことが無い。なので今目の前の光景がどうにも飲み込めず、ぽかんとした表情でお互いに顔を見合わせる。
でもこれだけ真剣になるってことは、なんだかんだでサークルのことを考えてはいるんだな。そう思うと、さっき部室で先輩をバカにしたのを、少しだけ後悔した。
「自治会としても総合創作研究会は歴史のあるサークルですし、あまり波風を立てたくないので廃部と言うのは嫌だったんです。でも、何せ不況で学校側も経費削減にやっきになってましてね……」
学校側から正式にサークルとして認可されているサークルには、年間を通して学校から活動費が支払われるのだ。しかし通常は年間を通して何かしらの活動をしていなければその活動費は支払われない。にも関わらず総合創作研究会は、なんと五年にもわたり無活動のまま活動費を受け取っていたと言う。このサークルの厚かましさと、学校側の長年にわたる怠慢がその原因だろう。
しかしまぁ、学校側からすれば金だけもらって何もしないお荷物サークルを切りたいと考えるのはあたりまえか。色々とやり口に問題はある気がするが、学校側の言い分は十分に理解できる。
「それに、このことを連絡しようと前に天谷さんに連絡したんですよ? なのに自治会にも来てくれないし……」
「へ……? 連絡?」
額の汗を拭きながら塩崎さんが困ったようにしぼり出した言葉を聞いて、いずみ先輩は目を点にする。そしてその顔のまま俺と栗山の顔を交互に見るが、もちろん俺たちがそんなこと知るわけもない。
「一ヶ月前に連絡させて頂いたんですけどね。そのときはちゃんと、来ると言ってもらったんですが、当日いくら待っても来ないので……」
「えっと、それは多分…………寝てた、かも」
顔全体を真っ赤にし、伏し目がちのままもじもじと呟くいずみ先輩。普段ならばこういう恥じらいのある姿もかわいいなー、なんてことを思ったりするのかもしれないが、今はただただ呆れるばかり。口を開けど出てくるのはため息だけだ。
金だけもらって何の活動もせず、親切心からの連絡も無視し、ギリギリになって自治会に噛みつく。常識のある人ならば中々出来ない暴挙である。もちろん悪意があってこうなったわけではなく、図らずもこうなってしまっただけなのだが、結果として非常識極まりないことをしているのは間違いない。
先程までの勢いはどこへやら、いずみ先輩は塩崎さんと目も合わさずひたすらに謝り倒す。こちらがとても失礼なことをしたにも関わらず、塩崎さんは気にする様子もなく、再び、まぁまぁ、といずみ先輩を落ち着ける。
しかしいずみ先輩はすっかり気落ちしてしまったらしく、涙目のまま下を向き黙ったまま。何とか場をつなごうと俺が口を開きかけた瞬間、横から静かな口調で栗山が言葉を発した。
「あの、廃部を免れる条件として、一週間以内に何かしらの活動結果を示す、とあるんですが、具体的にはどのようなことをすれば良いんですか?」
冷静な栗山の声が、先程まで浮き足立っていた部屋の空気を一瞬で落ち着かせる。
そうだ、まだ廃部が決定したわけでは無い。一週間しか時間は無いが、その活動結果とやらの内容次第では十分に廃部を阻止することが出来る。栗山の言葉を聞き、すっかり落ち込んでいたいずみ先輩もひょこっと顔を上げ、僅かながらに元気を取り戻す。
僅かな希望の籠もった潤む瞳を輝かせ、いずみ先輩は塩崎さんの顔を一点に見つめる。俺もいずみ先輩ほどでは無いが、期待を込めた眼差しで塩崎さんの口から発せられる言葉を今か今かと待つ。
「文化系のサークルですから、何かしらの創作物を提出すれば良いと思いますが……」
「創作物と言うと、漫画や小説、絵なんかですか?」
「そうですね。でも学校側も考えてまして……その創作物が他のサークルの作品と同レベルでないと、総合創作研究会の存続は認めない、とのことです」
つまり漫画なら漫研、小説なら文芸部と同レベルの作品を作って提出しろ、と言うことだ。それは普段何もしない幽霊サークルにはあまりに高いハードルで、俺たちの希望を打ち砕くには十分な威力を持っていた。
しかも期限は一週間。他のサークルが一ヶ月も二ヶ月もかけて作り上げる作品と同レベルの物を一週間で作れ、と……。結局この通知には廃部を免れる方法などあってないがごとし。ただの廃部通知だったのだ。
それを知った俺と栗山はただ絶句するばかりで、もう何も話すことが出来ない。いくらなんでもこれでは……。残り一週間、ただ黙って廃部を待つだけなのか。
と、普通の人ならこう考えるのだが、やはり俺の隣に座るこの人はどこかぶっとんだ頭の作りをしているようで、
「わっ……かりました! やります! 一週間で漫画でも小説でも、凄いの作ってやります!」
テーブルを両手で力一杯叩きながらいずみ先輩がおもむろに立ち上がる。他三人が突然の出来事にぽかんとする中、いずみ先輩は、決まった、とでも言いたげに悦に入っている。
また無茶なことを言い出したな、この人は。俺は顔を伏せ、さも呆れた様なリアクションを取る。しかしその伏せた顔には、何故かこらえきれず笑みがこぼれた。
多分このまま話が進めば間違いなく面倒なことに巻き込まれるだろう。しかし、黒い瞳に希望という光を燦々と称えながら仁王立ちするいずみ先輩は不思議と頼もしく、多少の面倒ごとなら、まぁいいか、何故かそんな風に思えた。
「で、でも出来るんですか? 失礼だけど、君たちに出来るとは思えな」
「出来る出来ないじゃなくて、やるんですっ! 成せぬは人の成さぬなりけりって言葉知らないですか?」
「いや、その言葉は知ってますけど……」
江戸時代の偉い人の格言まで持ち出し、いずみ先輩は有無を言わせぬ力押しな理屈で塩崎さんを黙らせる。
「それじゃあ時間がもったいないので、失礼します。飯原君! 栗山君! 時間無いんだから急ぐよっ!」
そう言い放つといずみ先輩は扉を勢いよく開き、ものすごい勢いでどこかへ走り去ってしまった。
取り残された三人はしばしの間時間が止まったように静止していたが、一番に状況を飲み込んだ栗山が席を立ち、無言で塩崎さんに会釈をしたあと早足で応接室を後にする。
「あっ、えと……じゃ、じゃあ失礼します」
塩崎さんと二人残され、気まずさに耐えきれず俺はすぐに先輩と栗山の後を追った。塩崎さんすいません、すごく無礼なことをしてるのはわかってます、お詫びは今度必ずします。
応接室を出て当たりを見渡すが、先に部屋を出た二人は見あたらない、しかし行く場所と言えば部室ぐらいなはずだ。俺は迷うことなく文化棟へ急ぎ足で向かった。
自治会と文化棟の途中にも二人はおらず、そのまま文化棟に到着。そして部室へ向け階段を上り始める。建物が古いせいか極端に角度が急な階段を急いで上るが、慢性的な運動不足である俺はすぐに息を切らし、歩みの速度を徐々に緩める。
それにしても二人が見えない。二人とも随分急いで部室に向かったんだな。そう思いながら五階に差し掛かったとき、五階と六階の間の踊り場にうずくまる女性の姿を見つけた。その傍らには爽やかな少年、というか栗山が立っている。
「えっと、これはどういう状況?」
「ぎゅ、ぎゅうにはじっだがだ……ぎ、ぎぼぢわるい」
上手く舌も回らず、なんとも聞きづらい声でそう答えると、いずみ先輩はなるべく頭に振動を与えないようにゆっくりと振り向く。すっかり真っ青になった顔に、涙をいっぱいに溜めたうつろな目と、その美貌が見事に台無しだ。さすがに今のいずみ先輩は美人とは言い難い姿をしていた。
このままでは他の人にも迷惑がかかるし、ここで吐かれでもしたらそれこそ大惨事だ。すぐに先輩を抱きかかえ、栗山にちらりと目配せする。察しの良い栗山はすぐに俺とは反対の肩を抱え、二人でゆっくりといずみ先輩を部室まで運ぶ。
自分勝手と言うか、情緒不安定と言うのか……やっぱりこの人はどうしようもないダメ人間だ。さすがに『俺が居ないと本当にダメなんだから』みたいな痛々しいことを思いはしないが、この人は早く彼氏でも作って結婚した方が良いと思う。このまま一人で生きていけば、数年後には間違いなく人として最低のところまで堕ちているはずだ。
でもわざわざ好きこのんでこんな人を選ぶ人はいない、か。いずみ先輩は美人だけどそれ以外の点で人としてマイナスな面が多すぎる。しっかりした良い男性が現れるとは到底思えない。
そんな失礼なことを考えつつ、俺は栗山と一緒に先輩を抱えながら、ゆっくりと階段を上っていた。
部室に到着し先輩をソファに横たえたところで、先輩から、今日は解散、との指令が出た。時計もすでに六時を回っており、普段ならもう帰っている時間だ。栗山はこの後バイトがあるので先輩の言葉に甘えすぐに帰ったが、特に予定のない俺はもうしばらくの間部室に残ることにした。
「べ、別に帰っても良かったのに……」
先輩は申し訳なさと恥ずかしさからか、横になったときに俺が掛けたタオルケットで顔を隠しながら、ぽつりと声を漏らす。
「先輩を一人にしておくと心配ですから。色々と」
「もしかして心配してくれてるの……?」
先輩はタオルケットから顔を上半分だけ出し、俺の方に視線を向ける。横になったおかげで少し落ち着いたのか、顔にも僅かながら血の気が戻っている。しかしまだ気持ち悪さと戦っているせいか、目には溢れんばかりに涙を溜め、まるでチワワみたいに黒い瞳をうるうるさせている。
「ええ、一応は」
このまま放っておいてソファの上で吐かれでもしたら、部室が大変なことになる。そして万一いずみ先輩が嘔吐物を詰まらせて死亡、なんて地方新聞の隅っこの記事にでもなりそうなことになりでもしたら、それこそ後味が悪い。
そんな先輩の健康状態は完全無視な理由を述べようと口を開く。しかし先輩の顔に視線を移した瞬間、そんな言葉はどこかに消え去り俺はただ閉口していた。
「ごめんね……いっつもいっつも迷惑ばっかりかけて」
透明な雫が一粒、二粒といずみ先輩の頬を伝い落ちていく。そしてその雫はソファに染み込み、濃い色の斑点となってその場に残る。
俺は突然の出来事に状況が飲み込めず、ただ右往左往するばかり。しかし、いずみ先輩にはそんな俺が見えていないのか、言葉を続ける。
「飯原くんが優しいから、つい甘えちゃって……ごめんね」
ぽろぽろと涙を流し、とても感傷的な気分に浸っているいずみ先輩の横で、俺は激しく焦っていた。
実際のところ先輩の体なんてこれっぽっちも心配していない。心配なのはソファを含めた部室が汚れるか汚れないか、それだけだ。だが先輩は俺の思惑を見事に勘違いし、自分のことを心配してくれていると思いこみ、あげく涙まで流している。
もちろん先輩にこんなことを言われて、嬉しくない訳では無い。しかし本当は先輩のことを全く心配していなかった、という事を考えると手放しで喜ぶわけにはいかないのも、また事実だ。
「いや、まぁその……やっぱり具合の悪そうな人を放っておくのは、さすがにマズイかなぁーと」
よくもまぁこんなことを言えた物だ。我ながら自分の日和りきった性格が嫌になる。
「ありがとう……飯原くん」
そう言って俺を見るいずみ先輩の瞳は、この世の一切の汚れなどとは無縁な、澄み切りまるで聖者の瞳のごとく純粋な眼差しを俺に向けていた。
やめろ、その目で俺を見ないでくれ!
何の漫画だ、と思いたくなるような台詞を、俺は心の中で繰り返す。ここまで来ると俺の良心もそろそろ限界だ……早く本当のことを言って楽になった方が良い。
しかしいずみ先輩の清らかな眼差しが、俺にそれをさせてくれない。こんな目で見られて、本当は先輩の事なんてこれっぽっちも心配してません、心配なのは部室が汚れる事だけです、なんて誰が言えようか。
「い、いえ……それよりも、あんまり泣かれるとその……こっちとしても対応に困る、と言うか、その……」
普段のクールぶった口調もどこかへ吹っ飛び、慌てふためきながら言葉を返す。
「あっ、ごめんね、急に泣いちゃったりして。飯原くんの気持ちが嬉しくてさ」
右手で涙をぬぐい、まだ赤い目のまま先輩は笑顔を作る。その先輩の健気な行動が、ますます俺の罪悪感を肥大させていく。
「そ、そんな先輩が言うほど、俺は優しい人間じゃありません」
「遠慮しなくても良いよ、私わかってるから。素直じゃないし、いっつも私の悪口言うけど、飯原くんって、本当はすっごく優しい子だってこと」
こんな褒め言葉を聞いて、俺は恥ずかしさと罪悪感から、先輩からとっさに視線を外し、赤くなった顔を伏せる。
いずみ先輩はそんな俺を見ながら、さらに言葉を続ける。
「それに、今日はなんだかごめんね、大変なことに巻き込んじゃって」
「い、いえ……」
赤らめた顔を伏せながら、答える。
「私だって自分でも、無茶なこと言ってるなーって言うのはわかってるんだよ? でも飯原くん毎日ここに来てくれるでしょ? もしここで廃部を受け入れたら、なんだか飯原くんの居場所を壊しちゃうような気がしてさ。それなら無茶してでもがんばろうって思ったんだ」
私がお酒飲む場所もなくなっちゃうしね、と照れ隠しにいずみ先輩は続けた。
俺は、さっきまで先輩を全く心配していなかった自分に対して腹が立ち、それと同時にとても情けなく思った。自分のことをこんなに考えてくれる人が目の前にいて、ソファが汚れる、部室が汚れる、なんて事を考えていた自分の人間の小ささ、考えの浅はかさに。
こんなことを言われては、本当のことなど言えるわけがない。しかし、ここで黙っていては先輩の気持ちに申し訳が立たない。
「あの、先輩実は……」
意を決し、顔を上げ、俺が口を開いた瞬間、
「……ぅ……り」
「え?」
「…………むり」
「何ですか? はっきりしてく」
「もうダメ! 無理! 吐くぅっ!」
そう言ってソファーから飛び起きた先輩は部室の隅に置いてあるゴミ袋へと向かう。そしていずみ先輩は…………。
まぁ、その…………何をしているかは言わなくてもわかるだろうし、口に出すのも憚られる。察しの悪い人に対してヒントを出すとすれば、岐阜の温泉で有名な街の名前とかを調べてくれれば何となくわかるのではないだろうか。
空気が読めないと言うのか、自由奔放と言うのか……。呆れかえり思わず溜息を吐くも、先輩をこのまま放っておくわけにもいかない。
涙を流しながら嗚咽する先輩の背中を、俺は頭を抱えながらずっとさすり続けた。