第一講目 酒好きとおれ
「飯原くぅーん、冷蔵庫からビール取ってー。あ、あと棚にある柿ピーとあたりめも」
空き缶に空き瓶、汚れたコップで埋め尽くされた机に突っ伏しながら天谷いずみ先輩はだらしのない声でそう言った。
いずみ先輩は長く絹のように美しい黒髪をテーブル端からだらりと垂れ下げながら、ほんのり赤く染まった頬をテーブルにくっつける。火照った顔にテーブルの冷たさが心地よいのか、その顔がさらにだらしなく緩む。
普段は雪のような純白の肌が薄桃色に染まり、それがとろんとした瞳の深い黒さを引き立てる。鼻梁の通った顔立ちに、長い黒髪、そして純白の肌。着物を着せたらさぞ似合うであろう古風な美女、それがこのいずみ先輩である。
「はいはい……」
部室の隅に置いてある小型冷蔵庫を開け缶ビールを取り、その横のつまみ類が雑多に積まれている棚から柿ピーとあたりめを取りいずみ先輩に渡す。
「ありがと。あ、ピーナッツは嫌いだから飯原くんにあげる」
「いりませんよ、そんなの」
ビールとおつまみを受け取ったいずみ先輩はプルタブを引き喉を鳴らしながらごくごくとビールを飲み始める。俺は苦手なビールの臭いが漂ってくる前に踵を返し、いつも座っている冷蔵庫の近くの椅子に腰を下ろす。
平日の昼間から柿ピー食ってビールがぶ飲み、なんて絵に描いたようなダメ人間だろう。ほかにも『せっかくの美人が台無しだな』とか『この人の肝臓は大丈夫なんだろうか』なんてことを思いつつ、ビールをかっくらういずみ先輩をぼんやり眺める。
「どうしたの? ボーッとしちゃって。あっ、もしかして飯原君も飲みたいのー?」
俺の視線に気づいたいずみ先輩はだらしのない声を出しながらこちらに視線を移す。しかしその声とは対照的に、酔いが回りほのかに赤く染まった頬、とろんと目尻が下がりどこか甘えるような視線を向ける瞳はその整った顔立ちとも合わさり、何とも言えない妖艶さを放っている。いずみ先輩とは初めて会ってからもう一ヶ月近く経つが、時たま見せるこんな色っぽい姿には度々ドキリとさせられる。
狭い部室で美女(見た目に関しては)とこうして二人きり、男としてこんなに美味しいシュチュエーションは他にないだろう。しかしすることといえば、毎日ボーッとしたり、本を読んだり、課題をしたりしながら先輩が飲んだくれる姿を眺めるだけ。十分美味しい? 確かにそうかもしれない、けど大学一年生でこんな非生産的な毎日を過ごしているのはどうなんだろうか。
そう、俺はもう大学生なんだ。大学生といえばバイトにサークル、そして合コンに恋愛。わかりやすいイメージだけを切り取った感は否めないが、世間一般の人が思い描く大学生活もこんなものだと思う。しかし実際は先ほど述べた通り。イメージしていた大学生活とは随分とかけ離れている。
それならこんなところに毎日足繁く通ったりしないで別のサークルにでも入れば良いのだが、そこは今の生活を変える事へのめんどうさと、新しい世界飛び込む事への勇気の無さ、そして無条件で美女と会えることへのスケベ心に足を引っ張られ、気づけば一ヶ月近く毎日ここに顔を出している。
ここは明応大学総合創作研究会の部室。文化系サークルの集まる文化棟の最上階、さらにその一番端と言う大学内でも屈指のアクセスの悪さを誇る。そのため、わざわざここまで見学にやってくるような入会希望者はほぼ皆無である。
そして総合創作とは言っても、漫画が好きな人は漫研に入るし、小説が好きな人は文学部に入る。結局こんな中途半端で実態の解らない怪しげなサークルに入ろうとする人なんかはいない。
まぁ他にも勧誘やビラ配り、ポスター貼りなんかも一切していないので、自然に人が入ってくる方がおかしいと考えるのが普通だろう。ここまで言ってしまうと、なんだか俺自身すごく惨めな気もしてくるけど……。
「飲みませんよ、そんなマズくて変な飲み物」
「もう、なんでこの美味しさがわかんないかなー」
自分が大好きなお酒をけなされ、いずみ先輩はぷくっと頬をふくらませる。
「体質なんです、仕方ないでしょう」
俺の家は父母ともに下戸の家系で、息子の俺は当然下戸のサラブレッドである。酒は一滴も飲めないし、それどころかアルコール成分入りのボディペーパーで体を拭くだけで、体中真っ赤になるほどアルコールに対して免疫がない。
「こーんなに美味しい物が飲めないなんて。飲める人の五分の四は人生損してると思うなぁー」
「そんな物に毎日溺れてる方が、人生損してると思いますけどねぇ」
率直な意見を素直に述べると、いずみ先輩はさらに頬を膨らませながら不機嫌そうに声を漏らす。
「飯原くんはさぁー、先輩を敬うってことを本当に知らない子だよねー」
「そんなこと無いですよ。酒浸りの毎日を送ってて、人が掃除しないと三日で部室をゴミ屋敷に変えちゃう人でも、一応先輩は先輩ですから」
「その言い方がもうバカにしてるのっ! まったく……飯原くん、おかわり!」
ぷいっと顔を逸らし、いずみ先輩はやけ酒モードに入ったらしい。やれやれ、なんて漫画みたいな台詞を心の中で呟きながら冷蔵庫の扉に手を掛け、中にギッシリと詰め込まれたビールに手を伸ばす。
と、そのときだ。
立て付けの悪い鉄の扉がギシギシと嫌な音を立てながらゆっくりと開き、扉の向こうから好青年を絵に描いたような、爽やかな少年が部屋に入ってきた。
「こんにちはー。って、今日もいずみ先輩と光樹だけか」
その爽やかな少年――栗山竜一は部室を見渡し見慣れた二人しかいないのを確認すると、壁に立てかけられていたパイプ椅子を開き、腰掛ける。
この栗山は高校の時の同級生で、俺がこのサークルに入るときについでと言ってはなんだが、一緒に入会した。ちなみに栗山は陸上部も掛け持ちしているため、陸上部の練習が無い日のみ参加と言うことになっている。
ついでに言っておくと、光樹と言うのは俺のことだ。
「珍しいな、今日って陸上部の練習ある日じゃないのか?」
「急遽休みになってね。そう言えば、光樹もいずみ先輩も、一階の掲示板見ました?」
掲示板と言うのは文化棟一階にある各サークルへの連絡用掲示板のことで、普段は文化祭やサークル対抗の球技大会なんかの時にしか使われていない。
そのため栗山の言葉を聞いた二人の頭の上には当然のごとく『?』マークが並ぶ。リアクションが示すとおり、そんなものはもちろん見ていない。
「口で説明するよりこっちの方が早いと思うんで、どうぞ」
そう言って栗山はポケットから携帯電話を取り出し、画面を俺といずみ先輩の方へ向ける。
画面には何行か文が書かれている白い紙の画像が表示されている。恐らく掲示板に貼られていた連絡用の書類なのだろう。
恐らく携帯電話の画面が見えていないであろういずみ先輩のために、俺はその紙に書かれている文章を音読しながら目を通す。
そして、その内容を把握した途端、絶句した。
「総合創作研究会は近年活動している様子や、活動の結果が全く見られないことから、一週間以内に何かしらの活動を示さなければ廃部――――って……」
「へぇー、廃部……って、えぇ――――っ!!」
途中までのほほんとあたりめを咥えながら聞いていたいずみ先輩が大声でわめきながら立ち上がる。今のこの通知に驚くあまり酔いが覚めたのか、いずみ先輩の表情も先ほどより幾分か引き締まって見える。
絶句する俺、さわぐいずみ先輩、二人とも反応は真逆だが、驚きのあまり普通じゃない、と言う点では共通している。
そしてそんな中、一人冷静な栗山が静かに口を開いた。
「これ、かなりマズイ状況ですよね? しかも一週間以内って……」
「と、とにかく学校に聞きに行きましょう! 飯原くん、栗山くん、行くよ!」
そう言っていずみ先輩は部室をものすごい勢いで駆け出て行ってしまった。その後に栗山が続き、最後には俺だけが部室に残された。
確かに代わり映えの無い毎日は嫌だと言った、だけど神様もこんなにも急に波風を立てる必要無いんじゃないだろうか。
「やれやれ……」
今度は心の中でなく、自然とその言葉が口の中から漏れ出した。。
部室の扉に鍵を掛け、戸締まりをしっかりと確認した後、俺は急ぎ足で一階へと向かった。