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「今、時間良いですか?」
私は、休日の月曜の午後『ルミルカ』のライブが終わった後、いつもの場所に陣取る男に声をかける。
「やあ、君かい……ん、どうしたの、怖い顔をして」
三休法師さんは、いつものように暗い笑みを浮かべる。
「……あなたに話したいことがあるんです」
私の目をじっと見つめた三休法師さんは、ため息をつくと言った。
「わかった……ここじゃ目立つから、君が構わないなら場所を変えよう」
「はい、その方が嬉しいです」
私たちはライブ会場を出ると近くのカラオケ屋さんに入った。
「あなたは、いったい何者なんですか?」
「いきなり何者とは、また抽象的な質問だね。哲学に興味でもあるの?」
部屋に案内されるやいなや、前置きを省いて私が核心に迫ると、三休法師さんは余裕すら感じさせる顔で茶化すように答えた。
「惚けないでください。連日、ニュースで話題になっている事件に悪魔姫『ルミルカ』が関係しているんじゃないですか?」
「へえ、どうしてそう思うんだい?」
私の一方的な決め付けに彼は興味深そうに目を光らせた。
「仲の良い友達が……『ルミルカ』信者の親友が事件を起こしたんです……」
そして、私も起こしそうになった――それは口に出さずに心の中だけにとどめる。
「はは……それだけで僕や『ルミルカ』に関連付けるのは、いささか短絡的ではないかな」
「でも、他にそんなことする理由が見当たらないんです。それに私の直感がそう訴えてるんです」
「なるほど、それが君の内なる声というわけだ」
「茶化さないでください! それより、本当にあなたいったい何者で、何のためにこんな恐ろしいことを……」
「恐ろしいこと……ね」
「そうです。『ルミルカ』に……あなたに操られて、みんな取り返しのつかない事件を……」
「それは、どうかな」
「え?」
「『ルミルカ』は信者を操ってなどいないよ、今は少なくともね。ただ、自分に素直に……理性から解き放って本能のまま生きることを後押ししているだけさ」
「そんな……」
「それにまだ皆、ちゃんと理性が残ってるでしょ。そうでなきゃ、『ルミルカ』のライブが成立するわけないじゃない。無秩序に陥ってライブどころじゃなくなるよ」
「そ、それは……」
「まあ、強いて言えば、あの一連の事件は、感受性の豊かな者や精神的に参っているものが『ルミルカ』に強い影響を受けたに過ぎないって言えるかな」
三休法師さんの返答に私は目を見張る。
「『ルミルカ』の影響を……素直に認めるんですね」
「そうだね、そうとってもらっても構わないよ」
「やっぱり……でも、何故こんなことを?」
「復讐だよ」
三休法師さんは暗い笑みをひっそりと浮かべ、はっきり答えた。
「復讐……ですか?」
月並みな言葉に私は首を傾げる。
「そう、復讐さ。小説なんかに、よくある話でしょ」
三休法師さんは、私の表情を覗き込んで自嘲するように言った。
「聞きたいかい?」
「出来れば……」
私が答えると、彼は首を竦めると淡々と話し始めた。
「僕にはね、愛する妻と生まれたばかりの可愛い娘がいたんだ。とても幸せな毎日だったよ。……それがね、ある日突然消え失せてしまったんだ」
不意に彼は感情を爆発させて、テーブルをドンと叩いた。
「僕が仕事に行っている昼間、マンションに押し入った男によって奪われてしまったんだ!」
熱で浮かされたような目で私を見つめる。
「二人とも嬲り殺しにされた……けれど、そいつは罪に問われなかったんだ、何故だと思う?」
「…………」
「そいつは心の病だったのさ。君も聞いたことがあるだろう? 刑法第39条っていうのを……」
私が何も答えられずにいると彼は条文を諳んじる。
「『1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。』そういう法律だ……しかも、そいつは未成年でもあったんだ。結果的に奴は刑事罰は免れた……」
三休法師さんは、先ほどまでの激情がひっそり影を潜め、いつもの醒めた表情に戻っていた。
「せめて民事でもと争ったが、本人は元より親にも支払い能力はなかった……結局、僕は妻子のために何一つできなかったのさ」
硝子玉のような虚ろな目で私を見つめて問う。
「同じ法律で裁けない人間が同じ社会で一緒に生きているんだ。おかしいと思わないかい。理不尽だとも思わないかい……でも、こういう僕の考え方自体がおかしいってこの世界は言うんだ。だから、僕はみんな狂ってしまえばいいと思ったんだよ」
作り物のような冷たい目の奥に狂気の火が灯っているのを感じて私はぞくりとした。
「……それが動機なんですね。でも、人を狂わせるなんて、いったいどうやって……」
「それは実のところ、僕にもわからないんだ」
「え? どういうこと?」
「突然、見ず知らずの人物からメールが届いてね。紋章の画像データと使い方が書かれていたんだ。悪い冗談だと最初は思っていたけれど、効果は君も知っての通りさ」
「そ、そんな……」
「誰からかなんて、どうでもいいことさ。結果さえ出ればね。そして、今までのことは序章でしかないんだ」
彼が、そう述べたタイミングでスマホが着信を知らせる。
見てみると『ルミルカ』が新着動画で新しい紋章を紹介して待ち受けにするように呼びかけているようだ。
「今度の紋章は前のより、ずっと強力だよ。今まで紋章の影響下にあった人間なら確実に本能だけに忠実になるだろうね。初めて目にする人間だって、心が弱かったり疲れていたりすれば、ひとたまりもないさ。……それにね、とうとう『審判の日』か来るんだ」
無意識の内に私はその新しい紋章を待ち受けにし、それから目が離せないでいた。
「今日の夕方の民放各社のニュースで『ルミルカ』が一連の若者の事件に関係しているという報道が流れることになっている。僕も関係者としてインタヴューを受けてね。そしてその際、この新バージョンの紋章が画面いっぱいに映される予定なんだ」
私にはすでに彼が何を言っているのかさえ、分からなくなっていた。
「つまり、テレビを見た人間はもれなく狂う可能性があるってわけさ。え、見ない人だっているだろうって? 確かにそうだね。でもね、この世界はね、信頼によって成り立っているんだよ」
三休法師さんはゆっくりと私に近づく。
「自動車の運転は皆が交通ルールを守ることを前提にしているでしょ。床屋さんは髭を綺麗に剃ってくれる、看護師さんはちゃんと注射を打ってくれる、家で料理してくれる人は包丁で食材しか切らない……この当たり前なことは、相手を信用しているから成立するのさ」
三休法師さんは鞄から大型のサバイバルナイフを取り出す。
「でも突然、人が狂うかもしれない、人を信用しきれない社会で、それは成り立つだろうか……否、無理だ。だから、この世は生き地獄と化すんだ」
三休法師さんは、私にそのナイフをしっかりと握らせると、両手で私の首を絞めにかかる。
「もう僕には思い残すことなど無いんだ。本当は『ルミルカ』の中の人、義妹に頼むつもりだったけれど、僕を見つけ出した御褒美に君に殺されようと思う」
首を絞められながら、私は訳が分からず、手に持ったナイフと三休法師をぼんやりと見比べる。
「さあ、僕に絞め殺されたくなかったら……生きたいという本能のまま、そのナイフで僕を殺すんだ。でないと、君は本当に死んでしまうよ。でも、安心して欲しい。例え僕を殺しても、君は今の法律では罰せられないからね……」
息苦しさと心の奥から聞こえる声に、私はナイフを構える。
「ああ、僕はとうとう解放されるんだ。瑠実、瑠歌……遅くなってごめんね。やっと君たちのところに行けるよ…………」
理性と本能の轍 完