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 カラオケでも更にアルコールが入り、みんなベロベロだった。

 彼女を送って行くつもりだったが、タクシーで帰るからと、1人で帰ってしまった。

 送るにしても、俺自身がベロベロでとても無事に送れそうになかったが……。

 何とか家に帰ると、ドアの前にはミキが立っていた。


「セージ? 遅いよ。あたし、ずっと待ってたの。会いたくなったから……」


 意味がわからない。

 5年前にきっぱり別れたはずで、その1年後には例の後輩と結婚したはずだ。

 ミキに遅いとか、待ってたとか言われる筋合いなんてあるはずがない。


「今更なに? 帰れよ。」


 顔も見たくなかった。

 無視して部屋に入ろうとすると、ドアの隙間に荷物を入れて閉められないようにしてこう言った。


「夜中だし、騒いだらご近所迷惑でしょ? 部屋に入れてくれないかな?」


 仕方ないので渋々部屋に上げる。

 ミキは勝手にベラベラ喋り始めた。

 林と結婚して離婚したとか、子供はいないとか、どうでもいい話で聞くのも馬鹿らしかったので寝ることにする。

 背中を向けて横になる。酒のせいもあり、あっという間に眠れそうだった。

 その時、急に口を塞がれる。

 目を開けるとミキの顔があった。


「……もう1度、無理かな?」


 全くふざけている。


「無理。そういうつもりなら出て行けよ。」

「でも、夜中だし帰れない……」

「どうにでもなるだろ? タクシーでも拾え」

「セージの中にあたしはいないの?」


 寝言は寝て言え。

 いるわけない。


「俺、好きな人、いるから。」


 そう言って俺は部屋を出た。

 深夜営業のファミレスへ行き、朝まで時間を潰した。

 そして、翌日不動産屋へ行き、新しい部屋へ引っ越すことを決めた。


 ミキのことだ。

 またおそらく訪ねて来る。


 もう10年住んだ部屋だし、10年前よりも給料も上がっている。

 引越しは何度か考えていたが良い部屋があってもタイミングが合わなかったというか結局のところ面倒でしていなかっただけ。良い機会だ。


 昼ごろ家へ帰るとミキはいなかった。

 酔っていない時に話したいからまた来るね、そんなメモが残っていた。






 もうすぐ冬。

 涼さんは独立の準備に忙しそうだ。

 仕事で夏月ちゃんと2人きりになることも度々あった。

 デセールの持ち場は他の場所よりも室温を低く保つ必要があるため仕切られているからだ。


 夏月ちゃんも涼さんの店で出すメニューの試作を重ねている。

 涼さんの店のメニューだが、上のOKが出ればうちでもメニューとして採用されるらしい。

 俺は彼女に頼まれて何度も試食とアドバイスをしていた。

 彼女に頼られているようで嬉しかった。


 今日もそんな流れで楽しい時間が流れていた。

 さりげなく、綺麗とか、可愛いとか、普段思っていることを言ってみたりして…。

 最近の彼女は以前よりもずっと明るくて魅力的だ。

 彼女は自分に自信が無いらしい。

 彼女の口から出てきた言葉に、俺はずっと気になっていたことを確かめられずにはいられなかった。


「多分、ずっと感情を押し殺してたんだと思う。5年前、人生最大の失恋しちゃってさ、最近やっとそれと向き合えたんだよね。それで気持ちに余裕出来たのかも」



「5年前……夏月ちゃんもしかして店に食べに来たことない?」

「え……? なんで?」


 ああ、やっぱり彼女だったんだ……。

 動揺する彼女を見て、確信する。

 おそらく、先日の反省会で話していた初めての相手というのも蘇芳様だ……。

 飲みすぎて反省会の日の記憶は殆ど無い、なんか失礼なことしていなかったかな?彼女はそう言っていたから俺の考えていることも気付かれずに済みそうだ。


「俺、5年前までギャルソンだったんだよ。それで、最後にサービス担当したお客様にすごく似てるなって最近気づいた。5年前まで常連で……少なくとも月に1度は来てたお客様が仕事で遠くに行くから暫く来れないって、そう言って予約されたんだよね。だからうちらも気合入れててさ、いい思い出にしてもらおう、帰ってきたらまた来てもらえるようにって。夏月ちゃん、その人が最後にいらした時のお連れ様に似てるんだよ。その常連さん、頻繁に来てたんだけど女性と2人で来たことなくってさ、たいてい商談か、家族…祖父母っぽい老夫婦と一緒だった。なのに、その時は凄く綺麗な女性連れててさ、深いグリーンのワンピースに白いヒールで、髪はアップにしてた……うちの料理食べて、感動して泣いちゃったその女性をすごく穏やかな顔で見つめてさ、ああ、この人もこういう顔するんだって……いつもどこか冷たい感じだったのにその時は別人みたいだった。人違いかも……って夏月ちゃん!? もしかして泣いてる!? 俺なんか言っちゃいけないこと言った!?」


 夏月ちゃんをパティスリーで見かけた時から気づいていた、などとても言えなかった。

 彼女の反応を見る限り、間違いなく今でも忘れられない……どころか、今でも彼のことが大好きなのだろう……。

 聞かなければ良かった。

 聞かなかったら彼女の気持ちを知ることは無かったのだから。


 少しずつ彼女の心の傷を癒して、俺のことを恋愛対象(おとこ)として見てもらいたい。


 それなのに、もし、彼女の前に彼が現れてしまったら……。

 彼女は彼に更に惹かれてしまうのだろう。



 でも腑に落ちない。

 彼女は彼が好きだった……。

 あの時の彼の姿だって……あんなに愛おしそうに彼女を見つめていた。そして予約の際「特別な日」だと。

 なのに彼は自分が幸せにするとは言わなかった。

 そして、今彼女は彼をおもって泣いている。


 俺には理解出来ない。

 もし、俺が彼の立場だったら、彼女を絶対に手放さない。自分の手で幸せにする。

 そして……今も一緒にいるはずだ。


 おそらく2人の人生の歯車は噛み合わなかったのだろう。


 その代わりに、俺が入り込むことは出来るのだろうか……。

 彼が現れなければ……きっと、振り向かせてみせる。

 勝算はないが、努力ならいくらでもする。

 彼女を支えたい。


 彼女が立ち去ってしまいそんな事を考えていた。






 その次の休み、俺は引越しをした。

 過去に何度か引越しを真剣に考えていたため、纏めてある荷物も多く、荷造りは比較的簡単だった。

 以前よりも通勤が楽になる。

 部屋も広くて綺麗になったし、これなら万が一、夏月ちゃんが来ることになっても……なんてバカなことまで考えてしまった。


 彼女はすごく頑張っている。

 試作を重ねたメニューも見事採用され、クリスマスメニューの口直しのソルベ、1月の限定メニュー、2月のバレンタインのコースのデセールに提供されることが決定した。


 先日、俺が彼女に話して泣かせてしまった件での気まずさは解消されたし、引越しも済んで気分もスッキリしたし、1年で1番忙しいであろう12月を迎えるにはまずまずのコンディションだ。


 そして迎えた12月。

 毎日が充実していた。

 仕事が楽しくて仕方がなかった。

 彼女も同じだったようで、休み返上で仕込みをすることも、いつも以上に仕事がハードだったのにもかかわらず、笑顔が多かったし、その笑顔も無理をして作った笑顔ではなく自然にこぼれた笑顔だった。


 そんなこんなであっという間に25日。

 営業後毎年恒例となっているクリスマスの打ち上げがある。

 さっさとするべきことを終わらせて、乾杯用のグラスを受け取りに行く。

 早い者勝ちでシャンパーニュが飲めるのだ。

 夏月ちゃんはパトロンと話しているので2つ確保する。

 あっという間にシャンパーニュは無くなり、グラスの中身は白ワインになっていた。


「あ、佐伯2つ持ってんだから1つくれよ。」


 何人かに言われるがもちろん断る。


「夏月ちゃん、これ。シャンパーニュ確保しといたから」


 夏月ちゃんに渡すと目を輝かせて喜んでくれた。

 喜んだ姿もやっぱり可愛い。


「佐伯さん、ありがとう! もう諦めてたから嬉しい!」

「ルイ・ロデレールだって。ほんとはボトル入れたお客様が残したクリュッグがあったから狙ってたんだけど……それは羽田さんに持って行かれちゃってさ、残念!」


 途端に彼女の表情が変わってしまう。

 笑顔が消えて少し悲しそうだ……。

 ああ、そうだった。


「そう言えば…あの日もこれ飲んでたよね……」


 彼女は小さく頷いた。

 笑ってくれたが、無理をしている顔だ。


 すぐに乾杯となり、涼さんと桃子さんが合流したので気まずい空気もすぐにどこかへ行ってくれて助かった。

 暫くすると、皆にソルベを配ると言うので夏月ちゃんを手伝う。

 彼女が作ったソルベはお客様に大変好評で、急遽来月の限定デセールに添えられることになったほどだ。もちろんスタッフにも人気だった。

 人数分しかないため、1人に1つずつ配っていくが、2つ食べようとする奴も多い。その度に断るのだが、みんな揃いも揃って俺をケチ扱いする。


「夏月さーん、おかわりくださいよぉ、佐伯さんケチってくれないんすよ」

「人をケチ呼ばわりするなって!」

「おい、北上、人数分しかないんだから我慢しろ。」

「涼さんまでそんなこと言うんすか?」

「残念、もう全部配っちゃったから無いよ?」


 夏月ちゃんの顔にも自然な笑顔が戻っていた。



 それから仕事終わりで飲みに行くことになった

 人数がそこそこ多いためテーブルが別れたが俺は夏月ちゃんの隣をキープする。

 同じテーブルには涼さんと桃子さん。

 夏月ちゃんが何かを取りだして俺に渡してくれた。


「佐伯さん、これハルさんと私からのプレゼント」


 分厚いファイルだった。

 ルセットや、道具や型のリスト、器具の癖やポイントが事細かにわかりやすくまとめてあった。


「纏めたのは夏月だけどな。俺はノートを提供しただけ」

「私も見せてもらったけどすごい力作だよ、これがあれば涼と夏月ちゃんがいなくなっても大丈夫よ!」

「すげぇ! 涼さん、夏月ちゃんありがとうございます! 俺、お2人が辞めても頑張りますから! 本当はやめてほしくないんですけど…っていうか寧ろ俺も連れて行ってほしいです」

「おい、今までの苦労を無駄にする気かよ? それに佐伯まで連れてったら俺が殺される」


 連れて行ってもらえるのならば俺だって涼さんの店で働きたい。

 夏月ちゃんのことを抜きにしても、それが本音だ。

 しかし、自分の置かれている状況や、2人が俺に一生懸命引継ぎしてくれたことを考えたらそれは失礼だし、無理だと言うのも十分理解している。

 第一、このファイルだって、2人が辞めてから俺が困らないよう夏月ちゃんが用意してくれたのだ。

 ここまでの物を作るのにどれだけの時間がかかったのだろうか。

 彼女の努力に応えるためにも俺は夏月ちゃんが辞めた後、責任を持ってデセールを作っていかなくてはいけないのだ。


 ファイルを開き、2人で眺めながら夏月ちゃんに質問する。

 距離が近い……顔も近い……ずっとこうして眺めていたい……彼女の顔を。

 ほんのり甘い香りもする。


「どうしたの?何か顔についてる?」


 急に彼女がこちらを向く。

 そんなに見られたら……心臓が飛び出してしまいそうだ。


「え!? ええええええ!? 夏月さん31なんすか!? てっきり俺の2個か3個上だと思ってたっすよ」


 そんな時、急に北上の叫び声が店に響く。

 あれ、夏月ちゃん、機嫌悪い?

 そりゃそうだ。

 北上はめちゃくちゃな事ばかり言ってる。

 おい、立候補って…それは俺が許さん!

 流石に大学生は…確かにそうも見えるが30過ぎて言われたらバカにしているのかと言いたくなる。

 隣ではいつの間にか夏月ちゃんが凹んでいた。

 北上は篠山さんにどうにかしてもらうことにする。

 俺は再び夏月ちゃんとファイルを見ながら話し始めた。


「なんか佐伯さんと夏月さんてすごくいい感じですよね。付き合ってるのかな?」

「宇部ちゃん、どこ見てんの? どう見てもあれ、脈なしやで?」

「え?」

「佐伯っちは夏月ちゃんがこっち来てからずっと好きみたいやけど。夏月ちゃんは眼中にないっていうか、気づいてないで?」

「そうですよね、見てて切なくなるくらい脈なしですよね。」

「え? 山田も気づいてたの? 気づかなかったの俺だけ? おい、佐伯さんのフォローしようぜ!」

「やめとき! 佐伯っちが今フラれたら夏月ちゃんが辞めるまでの3か月が地獄や……」

「そうですよ、当事者だけじゃなくて厨房全員が気まずくなりますから……」

「北上、やめとけ……」


 そんな会話が聞こえてきたが聞こえなかったことにする。

 脈なしって……俺が一番分かっているのに、他人に言われるとものすごくグサッと突き刺さる。

 北上、お願いだから放っておいてくれ。

 ていうか、俺はそんなに分かりやすいのか?


 暫くすると北上と篠山さんが同じテーブルにやってきた。

 なんだか嫌な予感がする。

 2人とも悪い人ではないんだが、おせっかいというか、失言が多いと言うか…先ほどの会話だって大きなお世話だ! とか、人の恋愛に口出すな! と言いたい。


「すごいなぁ、これ。夏月ちゃんの愛を感じるわぁ」


 ファイルをみてニヤニヤしながら篠山さんが言う。

 ああ、嫌な感じだ。


「もちろん、ハルさんと私のボヌールへの愛がこれでもかってくらい詰まってますよ!」


 夏月ちゃんは満面の笑みで答える。


「だからいったやろ……」


 小声で北上に篠山さんが言う。夏月ちゃんには聞こえていなかったようだが腹立たしかった。

 怒るわけにいかないのでなんとか笑うが……明らかに俺の顔は引きつってる。






「今から25年くらい前の話なんですけど。両親が離婚して、祖母に預けられた私は淋しくて毎日泣いてたんです。そんなある日、私にきれいなお菓子をさし出してくれた男の子がいて。マカロンだったんですが、初めて見るすごくおいしいお菓子に癒されたっていうか…それで、お菓子に興味を持って、自分でも作るようになって今に至るって感じですかね。その男の子、フランボワーズのマカロンが一番好きなのに、私が喜ぶからって譲ってくれるんですよ。それで自分は次に好きなショコラのマカロン食べるからって。顔とか全然覚えてないんですけどね。マカロンの味は鮮明に覚えてます。」



 夏月ちゃんがパティシエールになった理由。

 幼い日の初恋かぁ。きっとそのころから可愛かったのだろうな……。

 複雑な環境で育ったんだ……それにしても25年前にマカロンって……。


 それぞれがこの世界に入るきっかけを話したのだが、北上の理由がアホすぎてしょうもなかったので話題はバレンタインのコースのデセールについてに変わった。

 彼女はファイルの中から試作を盛り付けた写真のページを開き皆に見せてくれた。


「…Mon premier amour? このムースの名前?」


 私の初恋。

 メニューの名前にもなるらしい。


「思いっきりさっきの話じゃないですか、マカロンくれた男の子が夏月さんの初恋っすか?」

「うーん、それも多少はあるかな。祖母は私の初恋はマカロンの子だって言うんだけどね。どちらかというと、ムースの方なんだよね。甘酸っぱいけれど、ほろ苦い大人の初恋。中のワインのジュレは色気をイメージ? なんてね」

「それって体験談っすか? 元彼の話なんすか?」


 にやけ顔の北上が煽る。

 嫌な予感。


「夏月ちゃんの恋バナ気になるなぁ……教えてー!」


 篠山さんまで……。


「まったくつまらない話ですよ? パティスリーに来る前働いてた店で… …私を指名してアントルメ注文してくださるお客様がいたんですよ。たまたま友人の結婚式の二次会であちらは新郎の友人として参加していていろいろ話して、自分の気持ちに気付いた直後に失恋したんですよ。好きな人がいるからお見合いを断りたい、家族を納得させるのに恋人のフリしてくれって。失恋の記念に引き受けたんです。それだけですよ」


 夏月ちゃんは笑顔だったがいつもの笑顔ではなかった。無理やり作った笑顔だ。

 あの日、彼女は恋人のフリをしていたということなのか?

 あの場には彼の家族はいなかったはずだ。なのにあの場でまで恋人のフリをする必要があったのだろうか?

 予約の際、特別な日だと言うのもおかしい。

 本当に彼にとって特別な日であったのではないか?

 彼も、間違いなく彼女を……。


「それ、苦いっすねー」

「甘くて酸っぱくて苦いかぁ……そんな感じやなぁ。」

「それもあるんですけどね、フランボワーズとショコラのマリア―ジュが彼、好きだったんですよ。」


 そうだ、そんなことを聞いたことがある。

 ショコラとフランボワースのタルトを好んで召し上がっていた彼から……。


「今そういうの作っちゃうってことはまだ忘れられないんすか? その人のこと。」


 そんなの聞かなくてもわかるだろう。

 聞かないでくれ。

 彼女が……泣いてしまう。


「やだ、ちょっと飲みすぎちゃったかも……。何でもない、大丈夫だから」


 必死で笑顔を作る彼女の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。


「なんで佐伯さんまで泣きそうになってるんすか?」


 北上にそう言われた時だった。


 今ここに来ないでほしい奴が現れ、そして彼女に絡み始める。


「俺は不満で涼はいいのかよ? んで、今は佐伯とイチャついてんのか?」


 彼女は震えていた。

 口を堅く結び、歯を食いしばっている。

 まわりのフォローもあり、俺は彼女を連れて店を出た。

 俺は無意識で彼女の手を握っていた。

 ずっと握っていたかったのに。


「佐伯さん、本当にありがとう。手、離してもいいかな?」

「あ、ごめん」

「すごく楽しかったのに、嫌な気分にさせてごめんね」

「全然、気にしないで。…あの時、なんかあったの?俺がデセールに異動する2日前の夜。あの時、俺も篠山さんといたんだよ」

「あ……うん。愛人になれって押し倒された。そしたらあっちのスーシェフにしてやるって。断って殴って逃げようと思ったらハルさんが助けてくれて、ハルさんの店に誘ってもらった」


 彼女はまだ震えていた。


「殴って逃げるって…無謀じゃない?」

「護身術は多少身に着けてるし、そういう時は殴っていいってパトロンの許可とってるから。何回かそうやって逃げてるし」

「え…? 大丈夫なの?」


 大丈夫なわけないはずなのに…なんでそんなこと言ってしまったのだろうか。


「大丈夫じゃないよ。でもそんな理由で店辞めるの嫌だし。女は30過ぎたら仕事も探すの大変だし。ハルさんに誘ってもらった時は泣いちゃうくらい嬉しかったよ。嫌な奴と顔合わせ無くて済むし……思い出の……大切な思い出の場所で働けるから」

「まだ好きなんだね……」

「バカみたいでしょ? もう諦めたと思ってたのに全然そうじゃなかったんだよ。あの人は私が……身代わりになった……好きな人ときっと結婚してるはずなのにね。自分でも笑っちゃうくらい……未練がましいよね」


 分かり切っていたことだが、彼女の口から直接聞くのは辛かった。


「早く忘れなよ……そんな奴」


 そのまま彼女と別れて帰る事になった。

 送っていきたかったが……彼女に断わられたのでタクシーに乗せて手を振る。


「今日は本当にありがとう。いろいろひどい姿見せちゃってごめんね。じゃあまた明後日……じゃなくてまた明日、だね」

「気にしなくていいから。こちらこそこんなすごいものありがとう。大切にするよ」


 このまま一緒にいたら自分の気持ちを伝えていただろう。

 まだ早い。

 今伝えてしまっては、お互い気まずいだけだ。

 せめて、もうすこし彼女の心の中の彼が占める割合が少なってからでなくては……。






 彼女の口から直接聞いてしまった彼女の気持ち。

 そのショックは想像以上に大きく、引きずったまま年をまたいでしまった。

 毎年、正月休みには実家へ帰るのだが、今回は帰らず家で1人で過ごすことにした。

 彼女にもらったファイルを眺めたり、勉強したり……そこそこ充実していたのでかなり立ち直れたけれど、バレンタインのメニューのムースのページは開くことが出来なかった。

 彼女が彼の為に考えたであろうショコラのムース。






 休み明け。

 支配人ディレクトールの立花さんにファイルを見せる為、事務室へ行く。

 夏月ちゃんがデータを立花さんに渡しており、そのデータを見た立花さんが実物に興味を持って俺が呼ばれた、そういうわけだ。


「佐伯、ありがとな」


 ファイルを渡す。


「本当にすげぇなぁ……。これ、絶対他所に流すなよ……。コピーも禁止、データは閲覧OKにしてもプリントアウトはNG……枚数制限でOKしとくか……」


 俺がここに来たとき立花さんはPCを眺めていた。

 開かれていたのは記念日などで来店されたお客様を撮影したカメラのデータだった。

 記念日のお祝いで来店されたお客様には、確認を取った上で写真を撮影し、プリントアウトして台紙に収め帰り際にプレゼントしている。

 中には、毎年いらっしゃる方もいて、そんな方には以前のお写真と2枚をプリントアウトしてお渡しする事もあるのだが、なかなか好評だ。

 その為、サービスを始めてから今までのデータは全て取ってあるらしい。


 そして、立花さんが見ていたのは……5年前の7月のフォルダだった。


「立花さん……何見てるんですか?」

「お前、いつからだ……?」


 何の話だろうか。

 5年前の7月。

 ああ、そう言うことか。


「佐伯、いつから気付いてた? 夏月があの時のお客様だって」

「立花さんも気付いていたんですね……」


 立花さんは、夏月ちゃんが彼と来店された時の写真を開いた。

 そこには、幸せそうに笑う彼女と、やはり幸せそうに微笑む蘇芳様――彼女が今も忘れられない男――の姿が写っていた。


「何があったんだろうな……こんな幸せそうなのに…。…で、いつだ?」

「パティスリーで見かけた時です。この半年後位……」

「そうか。俺より先に気付いてたんだな。俺は涼が連れてきた時だ……。お前、直接サービスしてたんだもんな……」

「ええ、はっきり覚えてますよ。俺を指名して『特別な日』だから予約されて、こんなに綺麗な女性といらっしゃったんですからね……」

「お前、いつからだ…?」


 今答えたじゃないですか?と答えようとした時だった。


「惚れてんだろ……?」


 俺は相当分かりやすいらしい。


「いつでしょうね? まぁ、彼女は俺なんて眼中に無いんですけどね。」


 なのになぜか肝心の彼女には気付いてもらえないんだろうか。


「だよなぁ……。これもそうだろう?」


 そう言って、ファイルのあるページを開く。

 立花さんは、俺よりも蘇芳様の接客をしているので、彼の好みも知っている。

 あの日も、ショコラとフランボワーズのタルトを召し上がっていた事も。

 先程の写真にも写っているのだから……。


「ええ、間違いなくなくそうでしょうね。彼女の目の前に現れないことを願うだけですよ……。それで、急がず、焦らずじっくり攻めていきます。って言ってもあと3ヶ月無いんで、この3か月が勝負ですかね。どれだけ印象付けられるか……。どっかのバカみたいな最低な事はしませんよ……」

「だな。まぁ頑張れ」


 そう言って俺の肩をポンと叩いてくれた。

 俺もあの方がその間は店に来ないことを願ってるよ……そう立花さんが呟いた気がした。

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