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 翌朝、念のため6時に宿を出た私たちは、9時前には出勤していた。

 祖母がおにぎりとおかずを用意して持たせてくれたので、朝食もしっかり取った。戦闘態勢は万端だ。




 しかし、この威圧感はなんだろう。


 私は今、パトロンオーナーの部屋にいる。パトロンの部屋の半分は応接間で、そのソファに私とハルさんは座らされ、私達の周りを、パトロン、シェフ・ド・キュイジーヌ、パティスリーのシェフが立ったまま取り囲む。

 3人ともガタイがよく、強面なので威圧感が半端ない。


「んで、涼が独立するときに桃子だけじゃなくてこいつも連れて行くっていうのか?」


 シェフ・ド・キュイジーヌの羽田さんが凄んだ……もとい質問した。


「水縹に後釜任すんじゃなかったのか?」

「うちの綺麗どころ2人も連れて行くってお前ハーレム作るのか?」


 パティスリーのシェフの関さんにも、パトロンにも質問される。


「すみません、気が変わりました。こいつデセール任すつもりだったんですけど、雲行きが怪しくなってきたんで、やっぱり連れて行くことにしました。もともと、能力的には欲しかったもので…。」


 ハルさん…そう言ってもらえるなんて感動です、どこまでもついていきます!!


「んで、水縹はどうしたいんだ?」

「私も、春日野さんについていきたいです」


 パトロンに聞かれ、力を込めて即答する。


「まぁ、本人がそうならこっちはどうこう言えないよな。参考までに聞くが、雲行きが怪しいって佐藤が何か関わってんのか?」


 ドキリ……あれ? おかしいな? そんな話していない……あ、思い出した。




 私の採用の面接をしたのはパトロンと関さんだった。その時、前の店を辞めた理由を聞かれて正直に答えていたんだっけ…。


 ◇◇◇


 関さん(以下敬称略):「それで、なんで5年務めた店をやめたわけ?」

 私:「あの、非常に言いづらいことなんですが……先輩のセクハラに耐えかねてやめました」

 関:「ああ、そう。うちでもないとは言えないよ? 守ってもらえるとか期待されても困るしね。それにある日突然来なくなるとかやめてくれる?」

 私:「それは分かっています。一応、前の店も引継ぎ等はきちんと済ませて退社しました。……ですが、自己防衛だけは認めていただけないでしょうか?」

 関:「自己防衛? いざというときは先輩とか上司でも殴るってことか?」

 パトロン:「面白れぇじゃねぇか。よし、採用。自己防衛も認める」


 ◇◇◇


 脳内で当時のやり取りが再生される。……もう笑うしかない。

 そんな時助け舟を出してくれたのはハルさんだった。


「ええ、一昨日やばかったですよ。俺が助けなかったらどうなってたか。2番手にしてやるから愛人になれ、パティスリーに戻ってこいだそうです。それでこいつが2年前、雑用してたのも納得しました。このままだと、こいつは自分の能力を生かせないままだと思って誘ったんです。桃子と一緒に」


 上には言わない約束だったが仕方ない。おかげで助かった。


「つまりあいつを殴ったのは涼か……道理で酷い顔だったわけだ。あいつには俺たちも困ってんだよ。再三注意はしてるんだが、証拠がない。手を出すなって言っても、お互い同意してのこと、恋愛だって言うしさ。っつうか、恋愛ってなんだよ? 不倫だろ……って突っ込んだけどな。それに水縹、おまえも何も言わないしな。此処だけの話、切るに切れないから追い出すためにシェフに昇格させることにしたんだ。1年もしないうちに独立の話かなにか来るだろうな。俺がとある筋に推薦しといたから…。俺は佐藤が出て行ったらパティスリーにまた戻るよ。だけど水縹が出てくなら、俺がデセール戻りてぇ……」


 だって俺、パティスリーよりもこっちの方が好きだし……とか聞こえたのは気のせいでしょうか?

 ともかく腹黒関さん、怖いっす。あの人が昇格ってすごく不思議だったけれど、裏事情があったのね。


「水縹がひどい待遇だったのに力になれなくてすまなかった。あの頃外の仕事が忙しくて厨房パティスリーの状況が把握しきれていなかったんだ。涼に連れて行かれた後は酷いもんだったよ。店が回らないのに売り上げが一気に落ちたし。今は何とか持ち直してるけど、桃子がいなくなったらまた怪しいよなぁ」


 関さんが申し訳なさそうに言う。……私、意外と役に立っていたってこと?


「逆にこっちは助かったがな。それまでデセールに3人まわしてたのが2人でよくなったから、余裕が出来た」


 羽田さんにもそう言われて嬉しい。


「というわけで、春日野、お前は大事な戦力を2人連れて行くんだ。いや、お前を含めて3人だ。きっちり後釜育てて行けよ。今日から誰かデセールに入れろ、やる気のある奴……誰か興味あるやついたよな? そいつの分、ギャルソン1人厨房に入れろ。順番だと誰だ? それで、桃子にその穴埋めさせろ。パティスリーは時期的に1人減らしても平気だろ? もともと水縹がいたころは繁忙期でも桃子減らした人数でやっていたんだから何とかしろ」


 パトロンが話を〆る。


 ハルさんは来年の1月末まで、私と桃子さんは3月末までで辞めることが決定した。これで胸を張ってついて行ける!

 暫くは内密に。とはいえ厨房じゃそれも難しいからなぁ、パティスリーにはばれないようにしろよ、面倒なやつがいるから…。

 そんな会話が繰り広げられていたが、私とハルさんは退室を許可され、仕事に取り掛かった。






 ***


「おい、夏月、仕込んだアングレーズどこだ?」

「ハルさん、マーブル台の右下に入ってます」


 あの日以来、仕事にもより身が入る。

 そして、なぜかパトロンやシェフをはじめとする厨房の皆さん……だけでなくサービスの皆さんからも私は下の名前で呼ばれるようになっていた。みずはなだ、呼びにくいもんね。


「夏月ぃ、余裕があったらパン切って持って行ってやってくれー。」

「夏月さん、6番テーブルお誕生日でお願いします。」

「夏月ちゃん、よかったらこれ食べなよ。涼には内緒な!」

「おい、誰に内緒だって?夏月、明日の仕込み始めるぞ。」


 前よりもたくさん声をかけてもらえるのが嬉しい。


「夏月さんって、涼さんと付き合ってるんですか?なんか急に仲良くなってんじゃないですか?呼び方もお互い変わったし、最近綺麗になったって若手は皆噂してるんすよ、恋っすかー?」


 ある日の休憩中、最近ギャルソンから皿洗い(プロンジュール)へとジョブチェンジが叶った北上くんに声をかけられる。

 ギャルソンの半分は料理人志望で、彼は入店3年目。苦節3年、やっと希望の厨房へ異動が叶ったのだ。この店では3年目ではまだまだ若手だ。5年目の私も若手と中堅の間と言ったところだろうか。


「おい、北上、何言ってんだ?涼の相手は桃子だぞ?」

「え、そうだったんすか?じゃあ夏月さんは愛人っすか?」

「北上くん、ハルさんとはそんなんじゃないよ。ハルさんと桃子さんに助けてもらった上に無様な姿見られて、いろいろカミングアウトして腹わって話した結果? 残念ながら恋とは程遠いよ……逆に仕事に生きます、って覚悟はきめたけど」


 途端に爆笑がおこる。あれ?みんな聞いてたの?


「え、カミングアウトってあの噂本当だったんすか!?」


 北上くんの表情が曇る。


「は?どんなうわさ?」

「夏月さんは…同性愛者って…」


 ため息しか出ない。まさかここまでその噂が広がっていたとは……


「北上、その噂の真相知らないのか? 夏月口説いて振られた馬鹿が腹いせに流した噂だぞ?」


 なぜか関さんにフォローされる。あれ、関さんどうしたんすか?


「おい、北上、羽田どこだ?」

「あ、関さん、羽田さんなら店っすよ。」


 関さんは羽田さんを探していたらしい。北上くんに言われて店の方へ行った。


「その噂流したん佐藤やろ?有名な話やで~。」


 前菜オードヴル担当の篠山さんが核心を突く。篠山さんは関西出身の姐さんキャラだ。


「こないだ、なんかあったんやろ? 桃子さんと涼さんが『夏月ちゃんが佐藤に襲われてるかも』って騒いでたやん、涼さんが慌てて見に行って、その後顔腫らした佐藤が出てきて……私等はそこでかえってしもたんやけど。なぁ、宇部ちゃん。他にも目撃者いたもんなぁ?」

「あ、うん……。佐伯さんとか?ギャルソンも何人か…それに加奈子さんも。」


 篠山さんのアシスタントをしている宇部さん――小柄で可愛らしい女の子だ――が控えめに同意する。


「でも、ホンマに夏月ちゃん可愛くなったでぇ、まじで仕事に生きるん? 男だって必要やでぇ? 今度一緒に合コン行かへん?」

「そういうの苦手なんで……スミマセン」


 前に一度友人に誘われ、そういうのに付き合いで行ったことがあるが、私には向いていない、そう思った。


「そっか。それなら仕方ないよな。夏月ちゃんは涼さんについて行くんやろ?今彼氏出来ても微妙やしね」


 あれ?知ってるの?


「篠山さん、それまじっすか!?」


 北山君は知らなかったらしい。


「君もある意味当事者やろ? それでこっちに呼んでもらえたのに気付かなかったんかい……大体、デセール2人で問題なく回せてるのに人増やすっておかしいやん? 現状2人でこっちのフォローまでしてもらってるのに……それにどっちかやめるにしても、やめてから人をまわしたってこの人らなら全然問題無いで? なのに今、佐伯っちにすごく丁寧に教えてるってことは2人ともいなくなるって、そんなんこの状況からいくらでも想像つくやんか? 2人ともいなくなるって、どう考えても涼さんが独立して夏月ちゃん連れてくって事やん?」


 まわりも皆頷いていた。もはや公然の秘密だった。


「おーい、そろそろ休憩終わりだぞー!」


 スーシェフの小林さんの一声で皆仕事に取り掛かった。

 この会話がきっかけなのか私は皆と仲良くなり、仕事終わりに飲みに行ったりカラオケに行く様になった。






 ***


 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬の足音が聞こえるころになると、ハルさんは度々仕事を抜けて新しい店の打ち合わせに行くようになっていた。そうすると、私がデセールの責任者になり、同い年の佐伯さんと2人でさばかなくてはいけない。

 佐伯さんはここで10年目。ギャルソンから始まり、皿洗いや雑用を経て、少し前には篠山さんと一緒に前菜を任されていたが、デセールに興味があると言うことで春日野さんの後釜に指名されたのだ。


「佐伯さん、どう思います?率直な感想が聞きたいです。」


 私は家で作ってきたプティガトーを数種渡す。それは、ハルさんに出された宿題だった。

『ワインを使った、もしくはワインによく合うスイーツを考えろ』

 その材料となるワインも渡されていたので、数種類作って、みんなに試食してもらっている。パトロンとシェフが気に入ればここでも出してもかまわないそうだ。涼さんと一緒に店を出すレストランのオーナーがそう言っているらしい。

 彼はもともとボヌールの熱烈なファンで、むしろそれを出してお客様の反応を見て改良を重ねてほしい、そう仰っているそうだ。

 今はフランスに修業兼ワインの買い付けに行っており、来年春に帰国したら私を紹介するとハルさんは言っていた。

 彼はソムリエ、それでワインに力を入れたレストランか…。どんな人なんだろう? ハルさんの親友なのだから、きっと素敵な人なのだろう。


「このレーズン、ワインで煮てるんだよね?ブランデー漬けの方がもっと引き立つんじゃない?」


 お、私もそう思ってたんだ。


「でも、ワインをどこかに使いたいんだよね。」

「ソースにして添えてみたら?赤と白それぞれあっても面白いかも。」

「ありがとう!佐伯さんに相談して良かったー!!」


 自然と笑顔になる。彼ならきっとハルさんと私が辞めても素敵なデセールを作ってくれるはずだ。流石、ここに10年いるだけあって、仕事が出来る。味覚もすごく敏感だし、仕事も丁寧だし、センスもいいし、この人もハルさん同様、真面目で頑固な職人タイプだ。

 凄く気遣いが上手で、勉強熱心で、同志と言うか、とても良い刺激を受けている。以前彼に誘われてスイーツ食べ歩きに2人で出掛けたが、とても勉強になった。


 しかもかなりのイケメン。さぞかしモテることだろう。パティスリーの時、スタッフの女の子達も佐伯さんが来るたびにキャッキャ騒いでたもんなぁ…。

 ハルさんにここに連れてきてもらって3年目。仕事にも大分余裕が出てきてまわりが冷静に見えるようになってきた。パティスリーと比べてみんなの士気が高い。お客様からの反応がダイレクトに伝わるからなのかもしれないけれど、この差はなんだろう…。


「夏月ちゃん変わったよね。明るくなったと言うか、余裕が出てきたっていうか。前はストイックすぎて近寄りがたい感じだったけど……ほら、綺麗だし、仕事できるし、あんまり笑わなかったからさ、しかも涼さんも似たタイプで2人でいつも黙々と仕事してたじゃん、頑固な師匠と寡黙な弟子って感じで……実はみんなビビってたんだよね。でも今は涼さんも夏月ちゃんも表情が柔らかくなっていい感じだよ。2人が辞めちゃうのみんな残念がってるよ、特に夏月ちゃん、前から結構ファンがいるんだよ?」


 あれ、私嫌われてなかったの?


「てっきり私嫌われてるんだと思ってた。前働いてたとこでも嫌われてたし、パティスリーでも疎まれていたし」

「それってさ、疎まれてたんじゃなくて妬まれてただけだと思うよ? 仕事もできるし、可愛いから。それに関さんにはちゃんと評価されてたよ。関さん、夏月ちゃんがこっち来てからヒーヒー言ってた」


 涼さんにクレーム入れてたらしいよー、なんて付け加えてくれて。私、ちゃんと認められていたんだ…自分が客観的に見れていなかった。


「いい意味で変わったよ、本当に。」

「多分、ずっと感情を押し殺してたんだと思う。5年前、人生最大の失恋しちゃってさ、最近やっとそれと向き合えたんだよね。それで気持ちに余裕出来たのかも。」


 ハルさんと桃子さんと飲んだくれて以来、すごく楽になったんだ。


「5年前……夏月ちゃんもしかして店に食べに来たことない?」


 急に佐伯さんの表情が変わる。


「え……? なんで?」


 動揺してしまう。


「俺、5年前までギャルソンだったんだよ。それで、最後にサービス担当したお客様にすごく似てるなって最近気づいた。5年前まで常連で…少なくとも月に1度は来てたお客様が仕事で遠くに行くから暫くこれないってそう予約されたんだよね。だからこちらも気合入れててさ、いい思い出にしてもらおう、帰ってきたらまた来てもらえるようにって。夏月ちゃん、その人が最後にいらした時のお連れ様に似てるんだよ。その常連さん、頻繁に来てたんだけど女性と2人で来たことなくて、たいてい商談か、家族……祖父母っぽい老夫婦と一緒だった。なのに、その時は凄く綺麗な女性連れてた。深いグリーンのワンピースに白いヒールで、髪はアップにしてた。……うちの料理食べて、感動して泣いちゃったその女性をすごく穏やかな顔で見つめてたのがすごく印象的だった。ああ、この人もこういう顔するんだって……。いつもどこか冷たい感じだったのにその時は別人みたいだった。だけど、人違いかも……って夏月ちゃん!? もしかして泣いてる!? 俺なんか言っちゃいけないこと言った!?」


 それは間違いなく私だ。なんでだろう、涙が止まらない。吹っ切れたはずなのに、もう諦めたはずなのに、気持ちを消化したはずなのに。

 ああ、諦め切れていないんだ。きっと私はまだあの人のことが好きなんだ。


 今はまだ仕事中。必死で涙をひっこめ、笑顔を作る。


「ごめん、何でもない。私、ソルベ仕込んでくるわ」

「夏月ちゃん……」


 佐伯さんにはきっとばれちゃったな……私だった、って。







 幸い、先日の私と佐伯さんのやり取りは誰にも気づかれていなかったようだった。佐伯さんはあの話を誰にもしていない様子だったのがありがたかった。

 佐伯さんのアドバイスを参考に、改良に改良を重ねてチーズケーキのワインソース添えと、貴腐ワインソーテルヌのソルベはいい感じに仕上がっていた。

 それから、チョコレートとフランボワーズのムース。中にワインのジュレを閉じ込めている。


 チョコレートとフランボワーズ。良くある組み合わせだけれど、私にとっては特別な、彼が好きだった組み合わせ。

『私も大好きなんです。フランボワーズのオー・ド・ヴィがいい仕事するんですよね』

 そんな言葉を交わした時の事を、今でもはっきり覚えている。

 いい加減、未練がましい自分が嫌になる。


「夏月、お前最近思い詰めてないか?」


 ハルさんに声をかけられる。

 違う、思い詰めているわけじゃない。だけれど、感情を押し殺しているのは確かだ。


「佐伯、お前も最近おかしいぞ?2人とも何があった?」


 あの日以来、ギクシャクしてしまう。私のせいでどうも気まずい。私のせいなんだから謝らなければ……でも何と言って?

 逃げかもしれないけれど今は仕事中だ。曖昧に笑ってごまかし、話題を変える。


「ハルさん、宿題仕上げました。結構自信作です。佐伯さんのアドバイスがすごく参考になってます。

 佐伯さん、ありがとう」


 2人に少しずつ取り分けた皿を渡すと、無言で食べる2人。反応が気になる。早く感想が聞きたい。

 カタリ、フォークを置く音がした。


「お、悪くないな……寧ろあいつが喜びそうな味だな。これと同じの今すぐ3皿用意しろ、それから休憩時にも出来る分だけ用意してくれ」


 私が3皿用意すると、それを持ってハルさんは行ってしまった。


「よかったね、夏月ちゃん…。」

「佐伯さん、こないだはごめんなさい。突然泣き出したりして。それ、私です。でも他の人には言わないで……」


 どういう訳か、気負わずするりと話すことが出来た。自然に笑えてた気もする。


「もちろん、言わないよ。思い出したくないことだったんだよね? こっちこそごめん」


 佐伯さんは申し訳なさそうだった。


「いいえ、思い出したくないわけじゃないの。すごくいい思い出だから。ただ、感情をうまく処理できないだけ」


 胸のつかえが取れた気がした。


「そっか。それならよかった」


 笑顔の佐伯さんがなぜか少し淋しそうに見えた。。



 ハルさんがパトロンとシェフ・ド・キュイジーヌの羽田さん、それから支配人ディレクトールの立花さんに試食をお願いしたところ、評判は上々で、バレンタインのメニューにも取り入れてもらえることになった。

 ソルベは、クリスマスのメニューにねじ込むそうだ。魚と肉の間の口直しのソルベを変更してもらえるらしい。

 ハルさんの手直しなしに、私の考えた物が商品化されるのは初めてだったので、素直に嬉しい。


「夏月、よく頑張ったな。もうすぐ休憩だから試食用意しとけよ」


 ハルさんも自分の店で出すメニューを考えているそうだが、それはボヌールで出すつもりはないらしい。1度試作を食べさせてもらったが、私はハルさんの足元にも及ばない、繊細で複雑な物だった。


 休憩時に用意した試食だが、試作だったため人数分そろわず1皿を数人で分けてもらった。ところどころで奪い合いとなっており、なぜかパティスリーから関さんまでこっそりやってきたり、さっき食べたはずのシェフ・ド・キュイジーヌの羽田さんまでちゃっかり1皿確保していた。

 そんな反応は、とても嬉しい。美味しいって言ってもらうよりもずっと。ものすごく正直な反応だ。空っぽの皿がすべてを物語っている。



 彼にも食べてもらいたいな……。ふと、優しい笑顔が思い浮かぶ。

 かつての常連だったあの人は、また再びボヌールを訪れるのだろうか。私がいるうちに、私の作るデセールを食べてくれるのだろうか……。ううん、私がいなくなってからでもいい、佐伯さんが作ったデセールでもいい。

 私の考えたルセット(レシ)であの人を笑顔にできたらそれで満足だ。

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