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夏月が記入を終えた婚姻届を見た僕は言葉を失った。
具体的には、父親の名を書いた欄だ。
そこには、僕の良く知る人物の名が記されていた。今朝も挨拶を交わした人物の名が……。
『実はね……お恥ずかしい話なんですが、日本にいた頃は家庭を持っていたんですよ。妻とはお見合い結婚で、可愛い娘がいました……』
『娘が成人をしたのを機に、1度、電話で話しをさせてもらいました。……面会を申し出たんです。そしたら、会いたくないって言われてしまって……。仕方ないですよね。結果的に自分を捨てた父親に15年たって、いきなり会いたいなんて言われても……』
『なぜ、あの時母の言葉を鵜呑みにして父との関係を一方的に絶ってしまったのか……なぜ、父を信じようとしなかったのか……もう10年以上後悔しているんです……』
『父に報告したい。父にも祝ってもらいたい。あわよくば、親子としてやり直したい……。だけど、それじゃあ私を捨てた母と一緒じゃないですか……私に、そんな我が儘を言う権利が無い事位……分かっているんですけど……』
淋しそうに笑う2人の顔を思い出す。
……そっくりじゃないか。
***
今朝の目覚めは最悪だった。
愛する夏月の温もりを感じながら、微睡んでいた僕を起こしたのは、無機質な電子音だった。
半ば寝ぼけたまま電話を取れば、聞きなれた声。その声を聞いた途端、無性に腹が立った。
「靖……今何時だと思ってるんだ? せっかく夏月と気持ち良く眠っていたのに」
『何時だと思っているかって? ……その台詞、そっくりそのままヒデに返す。ついでに言わせて貰えば、奥様は5時になる前から働いてるぞ?』
起き上がり隣を見れば、ベッドはもぬけの殻だった。愕然としながらも、リビングに移動し、壁の時計を見れば僕が思っていたよりも2時間近く針は進んでいた。
『ここから本題。大倉さんがお見えになりました。最後までご自身の手で仕上げたいとの事でしたので、倉庫の方のセラーにご案内しました。……まるで自分の娘を嫁に出すような気分だって仰いながら、丁寧に1本ずつエチケットを貼って……そんないい話に朝から感動したのに、ヒデのせいで台無しだ。……さっさと起きて働け!』
そのまま一方的に切られた電話に苛立ちを覚えながらも、身支度を整えた僕は、大倉さんのところへ顔を出し、挨拶を交わしたのだった。
***
気付けば、僕はワインセラーに向かっていた。
店内のディスプレイも兼ねたお飾りのセラーではなく、朝僕が顔を出した、仕入れたワインの殆どが保管されているバックヤードにあるセラーだ。
数か月前に届いた、店名を冠したオリジナルワインもここで保管されている。
エチケットのまだ貼られていないそのボトル。そのセラーで、今、そのボトルにエチケットを張る作業をしている、僕にとって恩人とも言える男性。
僕がフランスでお世話になり、この店で出すワインのほとんどの仕入れに関わる彼に連絡をもらったのは、新居への引っ越しをしている最中だった。
6月に仕事で日本へ来ることになったので、せっかくだから開店前ではあるけれど、僕の店を訪ねたい、という内容のメール。来日の詳しい日程を聞けば丁度、2回目のお披露目の日とも重なっていた。
実は招待客候補リストの中に彼は入っていたものの、流石にフランスから来てくれとも言えず、招待するのを断念していたのだから、これはもう招待しないわけにはいかない。
『でしたらその時に出来上がったエチケットをお持ちしますよ。せっかくならば最後まで自分の手で面倒見てあげたいですから……』
僕が招待すると、彼は大変喜んでくれた。そして、ボトルにエチケットを張る作業を自ら行いたいと申し出たのだ。
そしてほんの1時間半前、靖からの電話で起こされたかと思ったら彼が到着していて……挨拶だけ交わし、作業を彼に任せて……。
店に向かった僕は靖に捕まり、雑用を済ませて着替えをして、夏月のもとへ行って……今日こそ婚姻届を出すべく、昨夜夏月が寝てから記入した、半分記入済みの婚姻届を渡したのだった。
夏月の父親が15年前、パリでソムリエをしていたことは聞いていた。現在、何をしているかは夏月自身も知らなかった。
まさか、本当に彼が夏月の父親なのだろうか?
夏月が、婚姻届に記入した彼女の父親の名前は、僕の恩人のものと全く同じ。
ソムリエではないが、同じ国で、ワインに関わる仕事をしている。パリではなくブルゴーニュに住み、ワインの醸造もしているワイン商。
心臓が飛び出してしまいそうなくらい、激しく拍動する。緊張で体中が強張る。
息を切らせながらセラーの重い扉を開けると、驚いた顔で振り向く彼。しかし、そんな表情もすぐに穏やかなものに変わる。
「蘇芳さん?どうしたんですか?そんな怖い顔して慌てちゃって。」
僕とは対照的に、柔らかな彼の笑顔。その笑顔には、どこか夏月と通じるものがある。
大事そうにワインのボトルを抱え尋ねる彼に、僕も質問を返す。
「大倉さん、以前大倉さんには御嬢さんがいらっしゃると仰ってましたよね?」
「ええ。もうずっと会っていない娘ですが……それに、あの子はきっと私を父親だなんて思っていませんよ」
「大倉さん、15年ほど前、パリでソムリエをしていらっしゃいませんでしたか?」
「どうしてそれを?」
先程までの彼の柔らかな表情が一変する。驚きの表情を浮かべ、そこには明らかな戸惑いが見られた。
しかし、すぐにそれを隠すかのように、彼の表情は不自然な笑顔へと変わってゆく。
間違いない。
同姓同名で、かつてパリでソムリエをしており、もうずっと会っていない娘がいる……そんな人物が複数いるはずなどない。
「大倉さん、今すぐ来てください。」
「蘇芳さん? どういうことですか?」
もう無我夢中だった。夏月の事を彼に話すのをすっかり忘れてしまうほどに……。
「ちょっと待ってください……私は若くないんですから……そんなに早く走れませんよ」
「すみません……少しでも早く、あなたをお連れしたかったもので…。」
「ところで、その恰好……サービスするのには派手というか……まるで結婚式の……新郎みたいだ」
僕は立ち止まった。そして、彼と向かい合い、姿勢を正した。
「……大倉さん、御嬢さんとの結婚を、僕と夏月さんが結婚する事をお許しください。」
「な、夏月……が……蘇芳……さん……と……け、結婚ですか?」
状況が飲み込めないのか、しどろもどろの大倉さんはそれだけ言うと黙り込んでしまった。
彼の表情は、困惑というよりも、混乱しているように思える。
「僕は、あなたに祝福してもらいたいんです。今から夏月さんと式を挙げるのですが、参列して頂けませんか?」
僕の言葉に、大倉さんは固まってしまった。
しばらくの沈黙の後、ようやく彼は口を開いた。
「あの子を……娘を、夏月をよろしくお願いします。幸せにしてやって下さい。この通りです。」
そう言いながら、深々と頭を下げた大倉さん。つまり、結婚を認めてもらえたということで間違いない。
内心喜んだのもつかの間、彼の返答の続きに僕は落胆せざるを得なかった。
「ですが、私があの子に会う資格など無いんです……義理の母からも、あの子からも、蘇芳さんとの結婚の話を聞いていません。以前お話ししましたよね? あの子が結婚する時、僕には祝う資格があるから連絡してくれる、そんな話を。なのにそれが無い……それはつまりやはり僕にはその権利がないという事なんですよ。だから、参列は出来ません」
「大倉さん、今日式を挙げる事……先程まで夏月も知らなかったんです……だから、あなたに連絡出来なかっただけなんです!」
「そんな馬鹿な話があるわけないでしょう? あなたの気遣いは嬉しい……けれど、嘘をつくにしても流石に無理がありますよ? ……ともかく、どこの誰かも分からない男ではなく、あの子が結婚するのがあなたで良かった……。あの時話していた、忘れられない女性というのが夏月なんですね。それがわかっただけで充分です。あの子と会ったからって、あの頃のような関係には戻れるわけありませんし、今更、父親ぶるだなんてムシが良すぎるんです」
夏月も彼と同じ気持ちだ。
会いたいけれど、以前父親を拒んで傷つけてしまった自分に、会って祝福してもらう権利など無いと思い込んでいる。
この親子、顔だけじゃなくて、思考や性格まで似ているのかもしれない。
子供の頃のような関係には戻れなくたっていい。これから、良い関係を一から築いていければそれで良い。
「大倉さん、僕の話を聞いて頂けませんか?」
「私が夏月の前に急に現れたところで、困らせてしまうだけですよ。もしかしたら、嫌な気分にさせてしまう可能性だってある。私はこのままセラーへ戻って作業を続け、それが終わったら失礼します。せっかくご招待いただいたのに申し訳ありませんが、会食は辞退させて下さい。これ以上あの子を傷付けたくないんです。あの子は……きっと私に会いたくない筈ですから……」
同じ様なやり取りを何度も繰り返す。
一向に、話を聞こうとしない彼と、どうにか聞いてもらいたい僕。
そんな膠着状態を打破出来る、唯一の人物がすぐ側まで来ていた事に気付かないくらい、僕も大倉さんも、周りが見えなくなっていた……。
「お……父……さん?」
遠慮がちにかけられた声。その声がした方に視線を向けると、そこにいたのは夏月だった。
ウェディング担当者の寺木さん、カメラマンと一緒だった。夏月本人には言っていないが、HPやパンフレット用の写真撮影をお願いしていたのだ。
僕と同じ様に、声を辿って振り向いた大倉さん。彼がどんな表情をしていたのか僕の立っている位置からは確認できない。
「お父さん!!」
今度ははっきり、力強く聞こえた夏月の声。
それと同時に、彼女は駆け寄り、大倉さんに抱きついた。
「ごめんなさい……あの人の言葉を鵜呑みにして……お父さんを信じなくてごめんなさい……会いたかったのに、意地を張って会いたくないなんて言って……ごめんなさい」
その声はだんだん弱々しく、涙声に変わる。
声をあげて泣き出してしまった夏月の肩にそっと手を置き、呆然と立ち尽くす大倉さんに抱きついたままの彼女を離した。
彼に抱きつくのを止めた彼女の涙をそっと拭き、僕と彼女が姿勢を正して彼の前に並ぶ。
「彼女は、あなたが先程言ったのと同じ様な事で悩んでいました。あなたに会いたいけれど、父親を自ら遠ざけて傷付けてしまった自分が会って良いのだろうか? と。あなたに僕との結婚の報告をして祝ってもらう権利などないのではないかと。……実は、今日式を挙げる事は、友人の結婚式に便乗したもので……本当に夏月も先程まで知らなかったんです。正式なものは店が軌道に乗ってから、遅くともこの1〜2年中には挙げる予定で、そちらにはパリでソムリエをしているという父親を捜して、招待しようと話していたんです。まさか、大倉さんが夏月の父親だとは思いませんでした」
いつの間にか、大倉さんも泣いていた。歯をくいしばり、静かに大粒の涙が彼の頬を伝って流れていく。
「わがままなのも、身勝手なのもわかっています。だけど、やっぱり私にとってお父さんはずっと大好きなお父さんだから……あの頃みたいに……一緒に暮らせなくても、幸せで、お父さんが身近な存在だったあの頃みたいになりたい。それに、お父さんには、英治さんとの結婚を認めてもらって、お祝いしてもらいたいです。だから、このまま帰るだなんて言わないで下さい……」




