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 眩しくて目が覚めた……頭が痛い。

 いつもと違う天井。見慣れないカーテン。昨夜の事を回らない頭で思い出す。……思い出した途端、急に頭痛が酷くなる。

 でも、とても清々しい気持ちだった。

 昨日、飲んだくれて潰れた私は、桃子さんと春日野さんが同棲するマンションに連れて来てもらったらしい。壁一面に2人の写真が飾られているリビングのソファーで眠らせてもらっていたようだ。


「お、起きたな?」

「夏月ちゃん、おはよう! よく眠れた?…!? ってその顔どうしたの!?」


 上手く目が開かない。昨日の飲み過ぎと泣いたせいで桃子さんが驚くほど目が腫れているのだろう。


「しばらくすると元に戻るんで気にしないでください。それより、昨日はお見苦しい姿を晒した挙句、過去の酷い話を聞いていただいた上に、素晴らしいお話にお誘い下さって、本当にありがとうございます」


 ハッと我に返り、姿勢を正して正座をする。フッカフカのソファの上に、だけれど。


「本当に申し訳ありませんでした。ここで目を覚ましたってことは夢じゃ無いってことですよね?」


 深々と頭を下げ、現実かどうか確認したところ、2人は顔を見合わせて笑い出した。


「もちろん夢じゃ無い。酔いが覚めて断りたい、そう言うんじゃ無いだろうな?」

「絶対断りません。やっぱ来るなと言われても無理やりついて行きます。思い出の場所にしがみついたままいるのも、そろそろ潮時なんじゃないか、そんな気もしますし……」


 封印した恋心の話をしたことにも後悔はない。なんだかんだで諦めきれなかったものが吹っ切れたんだから…。

 5年かけてやっと消化出来た、彼への思い。


「じゃあ、出かけましょう! 夏月ちゃんは一度帰って着替えた方がいいわね。レンタカー借りたら迎えに行くから。動きやすい服装でスニーカー履いて来てね。ヒールは絶対ダメよ?」


 時計を見るとまもなく9時になろうとしているところだった。10時に迎えに行くから、笑顔でそう告げる2人のマンションを出て自宅へ戻った。


 シャワーを浴びて着替える。言われた通り、Tシャツに細身のデニムを合せて。一応羽織り物も持ったし、日焼け止めも塗った。シャワーで冷やしたら顔の浮腫みもだいぶ引いた。他に何がいるかな? なんて考えていたらインターホンが鳴る。時刻は9時45分。約束の時間にはまだ早い。

 一体誰だろう?と思い応対すると、モニター越しに、待ちきれずに来ちゃった、そう満面の笑みで話す桃子さんがいた。

 支度も出来ていたし、スニーカーを履いて出かける。

 スカイブルーのコンパクトカーの運転席には春日野さん、助手席には桃子さん、私は後部座席に乗り込む。

 車内に流れる音楽は、昔好んで聞いていたアーティストのアルバムだった。とても心地よい空間で、お喋りも弾む。


「高速に乗ってどこに行くんですか?」

「昨日言っただろ?よく言えばリゾート、悪く言えばド田舎だって」


 車は中央道を走り、山梨へ入る。


「もしかして八ヶ岳ですか?」

「大体その辺りだ。でもなぜそう思った?」

「私、時々自分で運転して行くんです。祖母に会いに。それで、そうだったら頻繁に祖母に会えるから嬉しいなぁ、そう思って。あ、そうだ! せっかくだから祖母のところへ寄ってもいいですか? インターからそんなに遠くない所なんですけど、上手くすればご飯食べさせてもらえるかもしれません。」


 祖母には半年以上会っていない。祖母も忙しいし、会うのは1月と8月後半か9月頭。お盆と正月かそれを少し過ぎた頃。私が高校を卒業してから大体そうだ。旅館が開業した1年は手伝っていたけれど…。

 今は7月だから、通年であれば祖母に日程のお伺いを立てる頃。


 祖母は私が高校を卒業した翌年、八ヶ岳に旅館を開業した。

 私が生まれる前、祖父が元気だった頃はホテルや旅館や料亭を幾つか経営していたらしい。しかし、祖父が亡くなり、1人娘である私の母も嫁ぎ、後継者がいなくなった為その殆どを手放したと聞いている。信頼できる人に経営権を譲ったそうだ。

 唯一残していたのが八ヶ岳の旅館だったけれど、両親が離婚し、祖母が私を引き取る事になると同時にそこもたたんで、都内の家で華道や茶道を教えてながら私を育ててくれた。

 私が高校を卒業すると同時に、老朽化した建物を綺麗にして祖母は八ヶ岳に引っ越し、今もその旅館の女将をしている。


「ああ、下見した後ならばいいぞ。もう1時間程で着くだろう」


 春日野さんに許可をもらったので、祖母に電話をかけた。




「明日って桃子さん何時出勤ですか? 祖母が良かったら泊まっていけって言うんですけど…。」

「明日は10時出勤だけど……私達まで泊まるなんて流石に申し訳ないわよ」


 10時なら、祖母のところを7時に出れば問題ない。念のため6時に出れば余裕だろう。


「祖母は旅館を経営してるんです。それで、先ほど電話をしたところ、急なキャンセルが出たらしくて。仕込んだ食材や用意した物が無駄になるから来てもらえたら嬉しいそうです」

「それならせっかくだしお言葉に甘えさせてもらおうか。高速降りて遠くないならご挨拶も兼ねて…。明日朝早めに出ればいいだろ、桃子?」


 春日野さんの鶴の一声で、私達は祖母の旅館に泊まることになった。




 インターを降りて1時間程で目的地に到着。途中軽く昼食をとってこの時間だから正味20分といったところか。比較的アクセスも良さそうだ。

 空き地に車を停め、少し歩く。そこにはもう既に重機が入り、整地をしていた。スニーカーでと言うのも納得だ。すぐ脇にはワイン用の葡萄畑が広がっている。


「ここに、ワインに力を入れたレストランと、俺の店が出来るんだ。それから小さなチャペルも建つ。普段はレストランとパティスリーだが、予約が入った時は結婚式場になるんだよ。披露宴のデセールやウェディングケーキ、引き菓子は俺の店が卸すことになっている」


 まさか結婚式場の中の店だなんて……。定期的にウェディングケーキが作れると思うと、凄く嬉しかった。


「それにしてもスケールの大きな話ですね。リゾート地に出店するって聞いて、てっきり賑やかな場所にカフェ併設の店舗でも出すんだろうなって勝手に思ってました。ここで式挙げるってつまりリゾートウェディングですよね? 参列者はどこに泊まるんですか?」


 春日野さんの店とは関係無いことかもしれないが、気になった事を質問する。


「俺もこういう形で独立するとは思ってもいなかったよ。スポンサーがいるんだ、ここから車で5分位の所にあるリゾートホテルを経営しているところな。ウェディングの客もそっちが引っ張って来てくれる。参列者はそこに泊まるんだ。レストランのオーナーになる奴が、俺のこと気に入ってくれてさ……俺の作るものも含めて。それで、初めはレストランのデセールをってお願いされたんだけど、自分の店が持ちたいからって断った。でも、いろいろ話しているうちに、いつの間にか親友って言える位仲良くなってな。それでレストランとパティスリーがそれぞれ独立した形で、レストランにデセールとかウェディングケーキとか引き菓子卸してくれって再度口説かれた。忙しい時はレストランも手伝って欲しいって言うし……しかも、スポンサーに企画を練り直してもう出しちゃったからとか言い出す訳。俺としては独立するならパティスリーのつもりだったけれど、レストランのデセールにも未練があったから凄く魅力的で……カフェ併設の皿盛りデセールとコースの締めの一皿とはやっぱ違うからさ、これ以上の話は無いと思って二つ返事でOKしたんだ」


 春日野さんの熱く語る姿を初めて見た。熱い男っていいなぁ。桃子さんも春日野さんのこういう所に惚れたのだろうか?


「涼ったらフランスから帰って来た途端、3年後に独立するとか言い出したから凄く驚いたわ。初めはそんなにうまい話があるわけ無いって反対したんだけどね、出資がきちんとした所だったし、実際に私も同伴して担当の方とお会いしたんだけど、本当の話だったのよ。企画を出したレストランのオーナーが会長のお孫さんだそうよ。私もその方には何度か店で接客したことがあって……といっても、かなり昔にレストランの方でね。実はその時から涼の作るデセールのファンだったんですって。たまたまフランスで涼と出会って、意気投合して、涼がボヌールで働いていたのを知って必死で口説いてきたそうよ?」


 ちなみに"ボヌール"とは、私達が働く"Je porte bonheur"の通称というか略称だ。桃子さんの解説はとてもわかりやすかった。

 結婚式場か……春日野さんと桃子さんは付き合って長そうだ。思い切って聞いてみよう。


「あの、春日野さんと桃子さんはご結婚されないんですか? お付き合いされて長いんですよね?」


 顔を見合わせて照れる2人。これはきっと具体的な話があるに違いない!


「あのね、もともと私ってレストランで給仕(セルヴーズ)だったでしょ? 涼と同時期に入店したのよ。それで仲良くなって、友達以上恋人未満の曖昧な関係がずっと続いてて、涼がフランス修行に行くことが決まってから付き合い出したの……それが6年前ね。結婚……実はもう籍は入っているの。今年、私の誕生日に届けを出したわ。式は、店が軌道に乗ったら、そこで挙げようって約束をしているのよ。」


 乙女な桃子さん、超かわいい!!

 照れながらそう語る桃子さんはとても美しく、とても幸せそうだった。見ているこちらも幸せな気持ちになる。それにしても、友達以上恋人未満の時期を入れたら2人のお付き合いは凄く長そう……。


「おめでとうございます!! もう既に春日野桃子さんだったんですね!! あの、結婚式挙げる時、是非私にウェディングケーキ作らせて下さい。あ、でも春日野さんが作りますよね、すみません……でしたら二次会のウェディングケーキを私に作らせて下さい。お願いします!!」


 大切な人の特別な日を彩るもの。それに自分が携われるということはとても幸せなことだ。


「きっと桃子さんのドレス姿綺麗なんだろうなぁ……いいなぁ、結婚式……」


 思い浮かべてにやけてしまう。


「ありがとうな。式のケーキもよろしく頼む。お前、昨日は結婚願望無いって言ってなかったか?」


 笑いながら春日野さんに言われた一言に涙が出そうになる。


「嬉しいです!! 絶対ですよ? 結婚願望は無いですが、結婚式願望はあるんです。1度ドレスが着てみたいだけなんですけど……。でももし万が一、式を挙げる事があればバージンロードを祖母と歩くのが夢です」


 照れ隠しで、私の意味不明な願望も告白する。私を育ててくれたのは、父でも母でもなく、祖母だ。口には出さないけれど、私の結婚を望んでいるはずだ。だから、もし結婚できた場合、祖母には側で見守って欲しい。


「でもその気持ちわかるよ……私も涼ときちんと付き合うまでそうだったもん。涼ってば私が告白してもちゃんと返事くれなくてさ……もう無理だって諦めてたの。その時の私も結婚願望無いけど結婚式願望はありますって感じだったから。夏月ちゃんって本当にお祖母様が好きなのね。これからお会いするのが楽しみだな。」


 桃子さんに共感してもらえるなんて意外だった。春日野さんはバツが悪そうに苦笑いしながら一歩先を歩き、振り向いた。


「ここに俺達の店が出来るんだ。3人でいいもの作って行こうぜ。」






 ***


 車の運転を交代して、祖母の旅館へ向かう。高速を降りてから進んできた道を戻る形で5分ほど車を走らせたところで脇道へ入る。ここまでくればもうすぐだ。実際走ると、思っていた以上に近くてびっくりする。


「なぁ、昨日今日と腹を割って話したところで頼みと言うか、許可を取りたいんだが…。水縹って凄く言い難い。今後夏月と呼ばせてもらいたいんだが……もちろん仕事中もな?」

「ふふふ、ずっと言ってたのよ。言いにくい、下の名前で呼びたいって。私は何度も呼べばいいのにって言ってたのによ?」


 桃子さんもこう言っているんだから、もちろんOKだ。


「もちろんです。よく言われるんですよね。みずはなだは言いにくいって。私も春日野さんって言い難いので、ハルさんって呼んでもいいですか?」

「ああ、そうしてくれ。その方が仕事も捗るだろ?ハルヒノって言い難いんだよ。」

「ハルさん、桃子さん、これからもよろしくお願いします。」

「夏月、こちらこそよろしくな。」

「私はこれからも夏月ちゃんって呼ぶからね!」


 そんな会話をしているうちに、祖母の旅館へ到着。いつも停めている関係者用の駐車スペースではなく、宿泊者用の駐車場へと車を停めた。


「おい、まじでここなのか?」

「嘘!? ここって凄く高くて予約も取れないとこよね…」

「あの、祖母にはどこで働いているか内緒にしてもらってもいいですか? とあるフレンチレストランって事にしてますので……。高級店(グランメゾン)っていうのも伏せてもらいたいです。それがバレると特定されかねませんから」


 店の愚痴も時々話すので、祖母にはどこで働いているか内緒にしている。そうじゃないと……恐らくないとは思うが……セクハラの件に関してとか、店側に苦言を呈したりされたら困る。


「それは約束しよう。でもいいのか? こんな高級旅館に……」


 祖母の旅館は、1日4組限定の離れの宿で、最低でも1泊2食付き10万〜という値段にも関わらず予約が取れないと有名なのだった。隠れ家的な雰囲気や、他のお客様と顔を合わせないというのがウケて、何処かのお偉いさんが愛人と泊まるのにうってつけだとか。私もオープン後1年はお手伝いしていたけれど、いかにもそういう雰囲気のお客様結構いたもんな。もちろんお部屋に露天風呂もついていて、源泉掛け流しというのも売りだ。

 おそらくお風呂の準備もした後でのキャンセルだったから泊まっていけと言われに違いない。


「それは気にしないで下さい。今までのお礼も兼ねて……祖母にはお2人の事も度々話していたんです。恩人だって。だから是非って言ってくれたんです。それに、昨日もあんなにご馳走になって、私は1円も払ってません。だからいいんです。ただ、サービスは私がしますので、そこは期待しないで下さいね」




 出迎えてくれた番頭さんに挨拶をして、私達が通されたのは1番小さな離れ『萌黄』だった。

 しばらくすると祖母がやってきた。


「本日は孫の我儘でお立ち寄り下さりありがとうございます。夏月が大変お世話になっているそうで……感謝しております。大した事は出来ませんが、ゆっくりしていって下さいね」

「お祖母様、少しお時間頂戴してもいいかしら?」

「ええ、少しなら構いませんよ。」


 ハルさんから是非挨拶したいとの事だったので、祖母に確認を取ると快く承諾してくれた。


「まだ来年の話なのですが、今の仕事を辞めることにしました。」

「初めまして。春日野 涼と申します。水縹さんと一緒にデセールを担当しています。こちらは私の妻の桃子です。実は来年、ここから比較的近い所に、自分の店を出す予定でして……その店で働いて欲しいと夏月さんを誘いました。今の店からは遠いので……実際に店の予定地を見てもらって決めて頂こうと思いまして。オープンが近づいたら、改めてご挨拶させて下さい。今後ともよろしくお願いいたします。」


 にこやかにハルさんの話を聞く祖母はなんだか嬉しそうだ。


「それで夏月は決めたのね? 近くに居てくれるなら嬉しいわ」


 祖母も賛成の様だ。基本的に、私の人生だから私の自由にしていいと言ってくれるが、流石にセクハラの話は心配だったらしい。そんな職場から救ってくれたハルさんだから祖母も安心なのだろう。


「はい。今よりも顔を出せると思います。」


 私の答えに、にっこり微笑んで祖母は仕事に戻っていった。


「お二人共、温泉にでも入って寛いで下さいね。結構お湯もいいお湯なんです。私は祖母の手伝いをして来ます。何かあれば内線で呼んで下さい。ケータイでもいいです。今夜はお二人でここに泊まって下さいね。私は積もる話もあるので、祖母と寝ます。ではごゆっくり……」


 私も祖母を追いかけて客室を出て、かつて手伝いをしていた時の私室へ向かった。


「夏月、着替えなさい。きちんと化粧もするんですよ?」


 私は和服に着替え化粧もして、旅館の皆さんにご挨拶をした。みんな顔見知りで私を可愛がってくれる人たちばかり。だから、ここにいるとついつい甘えが出てしまう。急な訪問でも、笑顔で迎えてくれるこの人たちに迷惑をかけまいと雑用を幾つかこなす。


「夏月が急に人を連れてくるっていうから少し期待してしまったのよ。」


 お客様のお出迎えが済んだ祖母と2人きりになると、祖母はそう切り出した。

 私は先月31歳になった。仕方ないのだろう。


「ごめんなさい。今もお付き合いしている男性はいません。仕事が楽しいから……。それに、ハルさんに誘われてから、もっと仕事への関心が高まってしまって……だから期待しないで。期待されても裏切ることしか出来ないから……」


 申し訳ないとは思う。でも、今の私には仕事しかない。


「貴女、もしかしてまだあの時のことを引きずっているの?」


 5年前に失恋した事は祖母も知っている。彼と過ごしたホテルの部屋から、ここへ直接来たのだ。酷い顔をしたまま……。


「うん……でももう終わりにしようと思います。実は今働いている店は彼と一緒に食事した店だったの。ハルさんと桃子さんに誘ってもらって、思い出にしがみつくのは辞めることにしました。きっとまだ好きなんだと思う。でも、もう5年前の話。彼には好きな女性が居たのよ? きっともう結婚しているわ」

「貴女に縁談があったの。でも先方にはお断りするわ。貴女がやりたいことをやりなさい。悔いの無い様にね。……実は今日キャンセルされたのは縁談をいただいたお相手だったのよ」


 止めたいのに止められず、涙が落ちた。

 今朝はもう大丈夫だって思えたのに。まだ好きなんだって気付いてしまった。






 ***


「え?本当にいいの?これって高い方の食事よね?」

「もちろんよ。お2人はご入籍されたばかりなのでしょう、そのお祝いですよ。今日キャンセルされたのは私の古くからの友人で上得意様だったの。キャンセルの部屋は『珊瑚』で『萌黄』をご予約されていたお客様のお部屋をお代を頂かずに変更しています。お料理までそのままお出ししたらやりすぎでしょう? だからいいのよ」


『珊瑚』のお部屋は1番広く、料金もその分高く設定されている。と言うわけで有難く頂くことにする。


「貴女も一緒に食べていらっしゃい。悪いけれど、一度に作るからみんな一緒に持っていってもらえるかしら? その方がこちらも楽ですからね」


 普段は、お客様の召し上がるスピードを見計らって出来たてをその都度お持ちしている。こちらが楽だと言うが、きっと私が行ったり来たりしていたら、桃子さんやハルさん、そして私が落ち着いて食べられないと配慮してくれたのだ。


「もちろんです。でも……私もいいんですか?」

「いいのよ、3人のご予約だったのですからね。たまには美味しい和食も食べなさい」


 祖母だけでなく、板さん達にも笑顔で頷かれてしまったので、出来上がった料理をワゴンに乗せて部屋へと向かった。




「うわぁ、すごい……」

「一気に並ぶと壮観だな……」

「祖母からご入籍のお祝いだそうです。さぁ、温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに召し上がってください。お祝いなのに私もご一緒させていただくのも申し訳ありませんが……」


 目の前に並ぶ高級懐石に圧倒される。職業柄、そういった料理も勉強のために食べる機会はあるのだが、今日のは更に格上だった。


「本当にいいの?」

「ええ、当日キャンセルだからと、お代金も既に振り込まれていたそうです。同業の上得意様だったらしいです。だから気にせずいただきましょう。実は日本酒もほんの少しですがもらっちゃいました。板長さんと仲良しなんです、私」


 切子のグラスへ注ぎ、ハルさんと桃子さんに渡す。


「それでは、お二人のご入籍と、明るい未来を祝して、乾杯!!」


 やっぱり料理には雰囲気や一緒に食べる相手も大切だ。

 素材の味を大切に、シンプルに、しかし手間は惜しまない。それがモットーの料理。

 もちろん、ハルさんにも桃子さんにも大好評で、刺身のツマから米の一粒、〆の水菓子まで綺麗に完食した私達に、板長はすごく喜んでくれた。畑は違えど同業者のそういう評価は励みになる、そう言って。

 帰ったらお礼に何か作って送ろう。


 厨房の片付けを手伝い、温泉に入らせてもらって床に就く。目まぐるしく充実した24時間だった。

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