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 専門学校を卒業した翌年、個人経営のフランス菓子店に就職しました。

 初めの2年は女だからという理由で販売員(ヴァンドゥーズ)でした。職人志望でしたが厨房に入れなかったんです。

 それについては不満は全くないと言えば嘘になりますが、他のところに就職した同級生でもそういう子はそれなりにいたので、割とすんなり受け入れられました。それなりに楽しかったですし、やりがいもありました。


 でもね、今日みたいに厨房に入れる様にシェフに掛け合ってやるから抱かせろ、そういう奴がいたんです。もちろん断りましたけれど。

 2年経って厨房に異動してからもまた、仕事任せてもらえる様に掛け合ってやるから抱かせろ、そう言ってきたわけです。

 パティスリーにいた頃のあの人みたいな感じで、しかも2人もいたんですよ。で、愛人ちゃんみたいな人もやっぱりいて。ミスの濡れ衣耐性も、クレーム対応もこの頃習得しました。

 愛人ちゃんみたいな人を出し抜くには自分の仕事をきっちり、しかもスピーディにやって、彼女達のフォローをする体で仕事を奪うしか無かったんですよ。

 もしくは、店に出て、お客様の希望を聞いてちょっと手を出すとか。飾りをもっと華やかにして欲しいと言われたら、追加料金さえいただければやってOKだったんです。販売員だと自分では出来ないので厨房に仕上げをお願いするんですけど、私はパティシエールでそれが出来たので、店から回ってくるそう言う飾り付けは全部私が勝手に担当してました。

 大口の注文も積極的に取ったんですよ。そうすれば、手が回らなくなって私にも仕事を振ってもらえるから……。

 アントルメにお誕生日のプレート付けるのも好きでした。店の誰よりも上手に書ける様に努力もしました。

 なので、お客様にご指名いただけるまでになったんですよ。「お誕生日のプレートは水縹さんに書いてもらいたい」って。憧れの人もそう言っていつも私に声をかけてくださいました。


 そんな感じで必死で頑張っていたんで、シェフからはそれなりに認めてもらえたんです。

 最後の1年はお誕生日のケーキは任せてもらえる様になりました。いわゆるショートケーキのデコレーションですね。キャラデコとか似顔絵のデコも、私が予約を取ったりご指名頂ければ作らせてもらえる様になったんです。

 でもね、認めてくれる人よりも、私を嫌う人の方が多かったです。

 そんなに大きくない店です。

 あの人みたいな人が2人に、その愛人が3人とか4人? 入れ替わりも早かったんでもっといたかもしれません。それから、私より早くに厨房に入ってた男の子達よりも先にキャラデコとかオーダーメイドの物作らせてもらえる様になったので私は彼らにとっても目の上のたんこぶというか、かなりうざい存在だったようです。

 それだけじゃなくて、ある販売員からも反感買ってたみたいで…。

 彼女も、私の憧れの人が好きだったんですよね。なのにその方は来店される度に私ご指名でオーダーしてくださるので、面白くなかったのだと思います。


 前の店辞めたきっかけですが、それまでは抱かせろと言われるだけだったのが、口だけじゃなくなったことです。帰り道に暗い路地に連れ込まれて襲われました。幸い、護身術でどうにか切り抜けたので、何事もなかったのですが……。

 翌日辞表を出しました。そのままいなくなるのは悔しかったから、1ヵ月後に祖母と同居しなくてはいけなくなった事にして……祖母は入院中ということにして、退院したら私がお世話しなくちゃいけないことにしました。

 もちろん実際はすごく元気ですよ。今もバリバリ働いてますし。

 すぐやめなかったのは、私の負けず嫌いな性格とか社会人としてのけじめなんて建前もありますけど、私を指名してウェディングケーキをオーダーしてくださった方がいたので……それだけは絶対作りたかったんです。

 1ヶ月かけて引き継ぎもきっちりして、襲ってきた奴には何も無かった様に普通に接して過ごしました。


 辞める1週間前、高校時代の友人が結婚して。式には出られなかったんですが二次会には出席しました。

 仕事が終わってから駆けつけてびっくりしました。そこに私を指名してくださるお客様……憧れの方もいたので……。

 彼は新郎の友人でした。そこで、さらにびっくりすることがありました。

 私が作って、夕方彼に引き渡したケーキがそこにあったんです。


 メッセージプレートも私が名前を入れていたのに、友人だって気づかなかったんです。新郎は智也さん、新婦は鞠子なんですけど……【TOM&MARY Happy wedded life.】じゃあ気づきませんよね。てっきりトムとメアリーって外国人カップルなんだろうなって思ってたら日本人、それもまさか私の友人で。なんでも、留学中に出会った二人は、現地でそう呼ばれていたらしくって。


 私が現れて憧れの方もすごく驚かれていました。

 私も、私の友人も私が作ったケーキだって事にみんながビックリして……ケーキは皆に、すごく喜んでもらえました。

 世間は狭いねって話したりもして。

 その時、私はこの人のこと好きなんだって、ずっと好きだったんだってやっと気づいたんです。

 嫌な思い出ばかりだけど、そんな店でやってこれたのは彼が来店されるたびに私を指名してオーダーしてくださるからだって…。





 ***


 こうやって、自分から進んで前の店の話をするのは初めてだった。

 自分からでなくとも、今の仕事の採用面接以外で話したことはない。祖母にポツポツ愚痴ったことはあっても、詳しく話すのは笑顔で誤魔化して拒んできた。

 時効、とは少し違うけれど、嫌だった記憶も少しずつ風化されているのだろう。


「なんで封印しちゃったの? 告白は? しなかったの?」


 桃子さんは少し落ち着いた様だった。





 ***


 二次会の後、彼と2人きりで話しました。1週間後に辞めることもお伝えしましたが理由は言えませんでした。本当の事も、嘘つくのも嫌だったんです。今までのお礼も伝えて、私を指名してくださるから今まで辛くても頑張れた事を打ち明けました。そしたら、その方も、「君のケーキだと仕事が凄く上手くいく、幸運のケーキだ」と言ってくださいました。

 そして彼も私に別れを言うつもりだったって仰るんです。2週間後に海外へ修行に行くからもう店には行けなくなるって、私の作るケーキが大好きだって、言ってくださいました。


 それから彼は……「厚かましいけれどお願いがある」と言いました。「1日だけ、恋人の振りをして欲しい」、それが彼の『お願い』でした。

 彼に持ちかけられたお見合いの話があって、恋人がいる事を理由にして断ったところ、「それならその恋人を連れて来い」と家族に言われ困っていたそうです。

 自分には恋人はいないが好きな人がいる、そう仰っていました。恋心に気づいた日に失恋したわけですよ。超スピード失恋です。笑っちゃいますよね。

 でも、嘘でも、1日だけでも恋人になれるならそれで心機一転新たな仕事捜しをしよう、そう思えたんです。

 彼氏とか居ないのが当たり前だったので……失恋しても割と平気でした。

 かつていた唯一の……学生時代の彼氏は付き合ってすぐ、友人に寝取られました。しかも10代で出来ちゃって、結婚までして。その2人、別れるのも早かったですけどね。

 余談ですが、その元彼氏、再度私に付き合えとか言うわけですよ? もちろん即丁重にお断りしましたけど……男運ないんです、私。


 話が脱線しましたが……二次会の一週間後、つまり私が仕事を辞める翌日、1日だけ彼の恋人になる約束をして、その日はそのまま別れました。酔いも回っていたし、すっかり連絡先を交換するのを忘れていたんです。

 実は帰り道に気付いたんですが、店にいけばオーダーの時に聞いていた番号があるからいいか、そう思っていましたし、翌日こっそり彼の番号を控えて帰りました。

 残りの1週間も精一杯働きました。シェフは送別会をしてくださると仰ったんですが、辞める理由が理由なのでご丁重にお断りして。お酒入って襲われたら厄介ですから。それに、私の事をよく思っていない人たちに送別会をしてもらうのも……お互い微妙ですし。


 最終日、仕事が終わって、オーナーとシェフと話をして、今までのお礼をお伝えして帰りました。

 他のスタッフよりも帰りが遅くなりました。まぁいつものことだったんですが、ひとりで帰りました。

 途中、件の2人が待ち伏せしていたんです。『最後にやらせろ』そう言って、2人がかりで襲われかけたところを、彼に助けてもらいました。連絡先を交換していなかったので、翌日の事を私が覚えているか確認しに来たそうです。

 助けてもらったのは有難かったのですが、今日みたいにシャツのボタンはなくなるし、シャツの下にキャミソールやタンクトップを着ていなかったし、下に履いていたデニムも脱がされかけてでもう最悪でした。下着は見られるし、仕事を辞めた本当の理由もばれちゃいました。しまいには警察に行こうって言うのを、泣いて拒否しました。

 その日は凄く怖くて1人で自分の家に帰れなくて…そしたら彼の家に連れていってくれたんです。

 それで、自分は友達のところに泊まるからって言うんですけど、私は1人になるのも怖かったんですね。朝まで一緒にいてもらいました。


 その日は何もありませんでした。

 翌朝、シャワーを借りて、彼の服を借りて出かけました。恋人の振りをするにしても、ご家族にはキチンとした格好で会いに行かなくてはいけません。彼はどこぞの御曹司っぽかったですしね。

 私はブティックへ連れて行かれ、エステに連れて行かれ、美容院に連れて行かれました。

 上質な服や靴に身を包み、髪もメイクもネイルまで綺麗にしてもらって、彼と並んでも見劣りしない程磨いてもらった結果、鏡の中の私は別人でした。


 それから彼に縁談を持ってきたというお祖父様とお祖母様にお会いして、恋人の振りを無事終えて。本当に優しくて、良い方々でしたから、とても心苦しかったのですが……会うのはこれきりだと言い聞かせて演じ切りました。


 夜は彼と2人で食事をしました。それが…今の店"Je porte bonheur"です。彼との思い出の場所で今働いています。

 春日野さんからデセールに誘ってもらった時は凄く嬉しかった……幸せな思い出の場所で働けること。しかも、正当に評価してもらったのも、セクハラされない職場も初めてだったから……パティシエールになって良かった、心からそう思えました。仕事も楽しかったですし。

 パティスリーに桃子さんがいなかったら私はデセール担当になる前に辞めていたと思います。桃子さんのお陰で初めて職場に『自分の居場所』を手に入れました。

 そんなお2人だから、是非ついて行きたい、そう思いました。このまま残って、そんな思い出が穢されるのは嫌です。大好きな場所は、いい思い出のまま去りたいです。


 だから、絶対、つれていってくださいね。






 ***


「夏月ちゃん……絶対連れて行くからね。パトロンがダメって言ったら、私、納得してもらうまでがんばるから!」


 ポロポロと涙を流す桃子さん。

 そんな桃子さんを見ていると、私まで泣きそうになってしまう。






 ***


「"Je porte bonheur"のporte bonheeurは幸せのお守りって意味。"Je porte bonheur"は…要約すると…あなたに幸せが訪れます様に、そう言う意味なんだよ。だから今日ここへ連れてきた」


 彼は私にそう教えてくれました。

 今までで1番美味しいと思える食事でした。涙が出るほどに。

 それから、場所を変えてお酒を飲んでお話ししました。私も彼もかなり飲んでいて、とても帰れそうになかったので、その日はホテルに泊まりました。

 自分の部屋代は自分で持ちたいと伝えたところ、それはダメだと言われました。1日中お金を使わせてばかりで申し訳なかったので、こちらも譲れませんでした。ですが、彼も折れてくれなくて。同じ部屋で良い、そうでなかったら帰ります、そんなことを主張して、結局同じ部屋に泊まることになりました。


 ……彼は困っていたようです。


『同じ部屋に泊まるって意味わかってる?』


 そう言われたので、私は頷きました。

 前日あんなことがあったし、寧ろずっと憧れていたあなたに抱いてもらって嫌な記憶を上書き修正したい、そう言いました。好きな女性がいる人に言うのは失礼だってわかっています、とか私はあなたに助けられました、とかあなたが来てくれるから嫌なことがあってもがんばれました……なんて事もお伝えしたと思います。

 あの時の私、どうにかしていました。酔っていたとはいえお酒のせいだけではないです。もう会えなくなるならせめて……なんて欲が出てしまったんですね。


 実はその時が初めてでした。

 どさくさに紛れてずっと好きだったって……自分の気持ちも伝えました。


 そのままその日は眠りました。

 夢の中で彼は私のことが好きだと言ってくれました。

 それだけで幸せでした。


 朝、いつもの癖で5時前に目が覚めました。

 そしたら、急に罪悪感に襲われてしまって……好きな女性がいる彼に申し訳なくて、彼が寝ている間に私は部屋を出ました。

 手紙、と言っても部屋に置いてある便箋と封筒を使い、自分の気持ちとお礼を綴って残しました。迷惑になるのは分かっていましたが、それでも伝えたかった……読んだら捨ててもらえば良いし、読みたくなかったら読んでもらえなくても構わない、思いを吐き出さずにはいられませんでした。


 それから、10日間引きこもって泣いて暮らして……すっぱり気持ちを切り替えて仕事を探しました。そのときたまたま、Je porte bonheurが新しくパティスリーを出すって知り……今に至ります。






 ***


 私はいつの間にか泣いていた。桃子さんもずっと泣いたまま。春日野さんは複雑な顔で私達の顔を交互に見ていた。

 どのくらいの時間そうしていたのかは分からないけれど、気が付けばずいぶん空席が増えている。


「そもそもどうしてパティシエールになろうと思ったんだ?」


 沈黙を破ったのは春日野さんだった。


「お菓子に救われたんです。幼い頃、両親が離婚し、私は祖母に預けられました。毎日泣いていました。ある時、泣いている私に知らない少し年上の男の子――祖母の友人がお孫さんと遊びにいらしていたらしいです――が綺麗なまあるい、色鮮やかなマカロンを私に差し出してくれたんです」


 思い出すと、自然と涙が止まった。


「今から25年位前です。マカロンなんて見たことも食べたこともありません。フランボワーズのマカロンでした。甘くて、酸っぱくって、凄く香りが良くて、幸せな気持ちになりました。それが忘れられなくて……私がマカロンに癒されたから……私もそんな風に誰かを救えるお菓子が作りたい……それがきっかけです」


 残念ながらその男の子の顔は覚えていないけれど、マカロンの味と香りは鮮明に覚えている。

 いつか彼にもお礼を言いたい、その時に自分が作ったフランボワーズのマカロンを渡せたら……そう思った事もあったっけ。

 今となっては、そんな昔の事を相手が覚えている筈も無いし、そんなことをして迷惑をかけるのもなぁと思ってしまうけれど。


「フランボワーズのマカロン、か……」

「今もそう思って仕事してますよ。誰かの心に残る一皿を供したいって」


 春日野さんが呟く。何か考え込んでいるようにも思えたけれど、私がそう言うとにっこり笑ってくれた。


「初心忘るべからず、ってやつだな」

「もう、今日は潰れるまで飲むわよ! 嫌なことはぜーんぶ忘れて、明日から心機一転夢に向かって頑張りましょー!! 幸せな未来に、かんぱーい!!」


 スプマンテをボトルで注文し、涙を拭いた桃子さんの音頭で再び乾杯した。

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