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◇◇◇
勝手な思い込みで自分の気持ちを押し殺して……あの子の昔からの悪い癖なのよ。
あの子の両親は、あの子が5歳になる年に離婚したの。
あの子の母親、私の娘が原因……いいえ、元々の原因は私のせいね。結婚を考えるような恋人がいたのに、別れさせて別の男性と結婚させたのよ。
娘婿は、娘にはもったいないくらい良く出来た方だったわ。
離婚の直接の原因は娘にあったのに、嘘をついて全て彼のせいにして……娘が恥をかかないようにってね。娘婿には何の落ち度もなかったのに……。
それだけではないわ。娘は夏月を引き取るのも拒否したの。父親に似ているから……って。
娘婿は夏月を引き取って育てると言って聞かなかった。きっと、娘がもともと娘よりも彼の方が夏月を可愛がっていたし、あの子も父親にとても懐いていたわ。でもね、無理を言って私が引き取ったの。彼には、若いころ諦めた夢をかなえてもらいたくて……とても夏月を連れては叶えられないし……それに私が夏月を手放したくなかったから……。
泣いてばかりいたあの子も、はるくん——英治さんのお陰で笑うようになって……あっという間に大きくなった。
17になる直前、今まで何の音沙汰もなかった娘が急に夏月を引き取るって言いだしてね。
結局、直接話をした結果、夏月が嫌だと言って話はなくなったのよ。
その時……実際どんなことを言われたか知らないけれど、その時からなの。母親に酷い事を言われたらしいわ。あまり笑わなくなった……笑っても作り笑い。
それまで、父親からは夏月宛に定期的に手紙が届いていたわ。夏月はそれをとても楽しみにしていたし、返事も書いていた。でもそれ以来、届いた手紙を読むことも返事を書くこともしなくなってしまったの。
彼はね、高校卒業後の進路も真剣に考えていてくれたわ。
夏月がパティシエールになるなら、留学したらどうかって。
修業したいなら紹介もする、語学も教えるし、面倒も見るからって。
それをずっと楽しみにしていたはずなのに、結局夏月は断って、成人の頃会いたいと言った父親に会うことさえ拒否して……。
先程の話を聞いて、そんなことを思い出してしまったわ。
そのうち、あの子と父親を会わせてあげたいと思っているの。
その時は、英治さん、あなたも力を貸してくれないかしら……
◇◇◇
夏月はどんなことを言われたのだろうか。彼女があの日見せた悲しそうな、苦しそうな顔の原点を僕は知った気がした。
僕に彼女を癒すことが出来るだろうか。
僕がつけてしまった心の傷だけでなく、母親につけられてしまった深い傷までも。
そのために、彼女に会ったらあの日の事をきちんと謝ろう。
その上で僕の気持ちをきちんと伝えよう。
僕は、今日が何のための会食だったのかすっかり忘れてしまっていた。
祖父母の目的は、おそらく僕と夏月を再会させるための第一歩だったのだろう。
アヤメさんにも本当の事を言えなかったため、出資の話を持ちかけ、彼女の都合に合わせて今日会うことになったのだ。
涼のデセールを食べてもらうため、ボヌールを予約した事を思い出した僕は、メインの皿を下げに来た山田君にお願いをする。
話に夢中になってしまい、すっかり食べるペースが遅くなってしまっていた。
「山田君、悪いがデセールは担当者にサービスしてもらいたいんだ。それに、少し話もしたい。伝えてもらえるかい?」
「畏まりました。食後の御飲み物はいかがいたしましょうか?」
「紅茶をデセールと一緒に……こちらは早めにいただけるかな」
祖父母もアヤメさんも紅茶派だそうで、僕もそれに合わせて紅茶をお願いする。
暫くすると、ティーセットを持った山田君が戻ってきた。
「デセールはすぐにパティシエールがお持ちいたします。今からお紅茶をお入れしてもよろしいでしょうか?」
今、パティシエールといったか? つまり女性だ……涼ではない。
「山田君、デセールの担当は涼じゃないのか?」
「申し訳ございません、春日野は1月末で店を辞めました。夏に独立する予定なんです」
せっかくボヌールを予約したというのに……まぁ、美味しかったので良しとしよう。
「まったく、相変わらず詰めが甘いぞ。そのくらい確認しておけ」
祖父に笑われてしまった。
もうひと月も前に辞めていたのか……せっかくだから明日、涼に会ってから帰ろう。そう思った時だった。
「失礼いたします。大変お待たせいたしました」
この声……とても聞き覚えのある、聴きたくて仕方がなかった声に僕の胸は締め付けられた。
「『Mon premier amour〜ショコラとフランボワーズのムースとマカロンにあの日の思い出を添えて〜』でございます」
夢……だろうか……目の前で、祖母とアヤメさんにサーブするコックコートの女性こそ、僕が会いたいと願ってやまなかった女性――夏月だった。
「あら、どうして貴女がこんなところにいるの?」
アヤメさんも目を見開いて驚いている。
「おばあ……さま?」
それ以上に驚いたのか、彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で立ち尽くしていた。
そんな時、不意に後方から聞き覚えのある声がした。
「夏月ちゃん……これもサーブお願い」
……声の主は佐伯君だった。
僕は夏月を目で追う。佐伯君から皿を受け取った彼女は祖父にサーブした。
誰だか気付いたのだろう。祖父母を見て明らかに動揺している。
そして……僕の前に皿を置いた彼女と目があった。
僕も彼女も見つめあったまま動けなくなってしまったらしい。
「夏月、こちらは私の古くからの友人よ。蘇芳 英臣さんと春乃さん。お会いしたことがあるでしょう?」
「夏月さん、お久しぶりね」
アヤメさんと祖母に声をかけられた夏月は、はっと我に返ったようだった。
明らかに動揺しており、その顔は青い。
「ご無沙汰しております。その節は……大変失礼なことをいたしまして、本当に申し訳ありませんでした」
そう言うと、夏月は深々と頭を下げた。
彼女は、いまだに祖父母に嘘をついていたことに罪悪感を抱いていたのだろうか。
それが僕の胸をさらに締め付けた。
「そんな、頭を上げて頂戴。謝らなくてはいけないのは私達の方なのですから。貴女が英治の恋人ではないことは知っていたのよ。英治に頼まれて恋人のフリをしていることもね」
夏月は混乱しているようだった。
青い顔が更に険しくなっていく。
「お話し中大変申し訳ございません、差し出がましいようですが、よろしければデセールをお召し上がりください。是非、美味しい状態で召し上がり下さい」
佐伯君だった。彼の気遣いは素晴らしい。すっと入ってきて、さっと引いていく。
決して邪魔ではない……が、今に限っては余計な事をしてくれたものだと恨みがましく思ってしまう。
「夏月ちゃん……こっちにおいで……」
佐伯君が夏月を促し、部屋の隅へ連れて行ってしまい、僕は呆然とする。
そんな僕を気にすることもなく祖父母たちはデセールを楽しみ始めた。
「それもそうだね。いただこうじゃないか」
「あら、この組み合わせ、懐かしいわね」
祖母が無邪気に笑っている。
「夏月の初恋はマカロンをくれた男の子でしょう? フランボワーズとショコラのマカロンが好きな、ね。あなた、いつかあの男の子にお礼がしたい、自分の作ったマカロンを渡したいって言ってたでしょう? それが今、叶ったのよ」
アヤメさんが夏月へ声をかける。
Mon premier amour〜ショコラとフランボワーズのムースとマカロンにあの日の思い出を添えて〜
皿にのったフランボワーズとショコラ、2色のマカロン。
艶やかなグラッサージュをまとったハート形のムース。
ハート形にカットされた苺、フランボワーズ、ブルーベリー。
”Mon premier amour”――夏月自身の初恋の話なのだろうか?
このマカロンは、あの日僕があげた『げんきがでるまほうのおかし』なのだろうか?
このムースは、ショコラとフランボワーズのムースだという。
僕が大好きなショコラとフランボワーズのマリア―ジュ。
振り返る。
まだ呆然と立ち尽くす彼女の手を佐伯君が握っていた。
なぜ、佐伯君が手を握っているのだろうか?
夏月の瞳から、大粒の涙があふれ出した。
気付くと、佐伯君から夏月を引き離し、きつく抱きしめていた。
一度腕を緩め、彼女の涙を指先ですくう。
近くで彼女の顔を眺めれば、夏月は5年前と変わらず美しい。
「夏月、結婚して欲しい」
突然のプロポーズに、僕自身も驚いていたが、彼女は更に驚いていた。
言い訳がましいが自分の気持ちを伝えると、彼女は再び涙を流して立ち尽くしていた。
僕の隣に椅子をもう1脚用意してもらい、夏月を座らせる。
「英治さん、貴方も夏月の作ったデセールを食べて頂けるかしら? このマカロンはあなたに幼いころいただいたマカロンを、このムースは貴方のことを思って作ったものだそうよ。それにこの名前。この子の中ではもう返事が決まっているのでしょう」
アヤメさんに促され、僕も座りデセールに手を付ける。
繊細な食感の甘くて酸っぱい、フレッシュさを感じるフランボワーズのマカロンと、あの時のものよりもずいぶんビターな、口どけの良いガナッシュがたっぷり挟まれたショコラのマカロン。
フランボワーズのオー・ド・ヴィがよく効いたショコラのムースの中には、フランボワーズのジュレと、フルーティなワインのジュレが閉じ込められていた。
それらに彩りを添えるフレッシュなベリー。
さまざまな食感、香り、甘味、酸味、苦み……。
夏月が僕を思って作ってくれた一皿。
今まで食べたどんなものよりも美味しかった。
心が温かくなった。
涙が止まらなくなるほどに。
「ずっと……気持ちを押し殺していました……。去年の夏、やっとその気持ちと向き合って、もう諦めようと思いました。でも、無理でした。今でも、英治さんが大好きです。忘れられません……。でも……結婚は……すぐには出来ません。しばらく忙しくなるので……」
夏月も僕を思っていてくれた……それを彼女の口から聞けた僕は、天にも昇るような気持だった。
もう、15年も夏月を思っているのだ。それが多少伸びたってかまわない。
「それでも構わない。何年でも待つよ」
僕にとって、今、目の前に夏月がいる、それだけで十分過ぎる程幸せだった。
「私は、もうすぐここを退職します。その後は、今度独立する先輩の元で働きます。その先輩は、私の恩人だから……その人の期待に応えたいんです。それに、少し遠くて……もうすぐ、引っ越すんです。だから、本当になかなか会えないと思います。それでも、いいですか?」
『間違いなく夏月ちゃんが好きだ。そういう目をしていた』
友人夫妻が電話で話してくれた、夏月と同い年の同僚のパティシエ——
『佐伯がベタ惚れで、俺と桃子の目標は連れて行くまでに佐伯とくっつけること』
涼が連れてくると言った変わり者のパティシエール——
『夏月ちゃん…こっちにおいで…』
僕の目の前で、彼女の手をしっかりと握っていた佐伯君——
まるでパズルのように、それらが僕の頭の中でピタリとはまった。
「もしかして、その先輩というのは、涼……春日野、春日野 涼なのか?」
そう尋ねると、夏月は頷いた。
「夏月、やはり待てない。すぐにでも結婚しよう」
すぐ側にいられるというのに、なぜ待つ必要があるのだろうか。
それに、帰国するまでの間、夏月の側にいるのは僕じゃなくて佐伯君だ。
ウカウカして彼にとられてたまるものか。
「涼を誘ったのは僕だ。僕の初恋も君だった。だから思い入れのある……君に出会った八ヶ岳で自分の店を持つことにしたんだ。高校の時、毎朝駅で見かける、初恋の女の子によく似た君が気になって気付いたら好きになっていた。実際に君があの時の女の子だったと先程知った。ずっとそばにいられるんだよ。なのに、待てるわけないだろう? だから今すぐにでも結婚してほしい。」
夏月は驚いた後、あの日のように、幸せそうに笑った。
夏月の大きな瞳からはまた大粒の涙が零れ落ちていた。
あの日の、あの写真と同じ夏月の笑顔を僕はやっと思い出すことが出来た。
「はい」
涙を流しながらも、にっこり笑う夏月が愛おしくて、強く抱きしめていた。
「蘇芳様ご無沙汰しております。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません」
「佐伯君、また君に会えて嬉しいよ。君のサービスが大好きだったからね」
「この度は、ご婚約おめでとうございます。お2人の、思い出のシャンパーニュをプレゼントさせてくださいませんか?」
佐伯君は今までに見たことのないほどひどい顔をしていた。泣き腫らした真っ赤な目をしていたのだから。
彼の愛する女性は、突然現れた昔の男にプロポーズされ、OKしてしまった。
それを目の当たりにしてしまった今、泣かずにいられるだろうか?
それでも、こうやって僕の前に現れて、祝福してくれるのが彼らしいというか、プロというか、僕が評価している佐伯君だった。
「ぜひ、佐伯君と立花さんにも一緒に祝って欲しい」
残酷なようだが、彼を尊敬しているからこそ一緒に祝って欲しかった。
フルートグラスにシャンパーニュを注ぎ、佐伯君と立花さんにも渡す。
あの日飲んでいた、僕の好きなシャンパーニュをきちんと把握して持ってくるあたりが真面目な、気の利く佐伯君らしい。
「おふたりの、再会と、変わらぬ愛を祝して…À votre santé!!」
佐伯君の音頭で乾杯する。相変わらず、目は真っ赤に腫れているが、先程とは違い、スッキリとした顔をしていた。
「蘇芳様、ご婚約おめでとうございます」
立花さんはそう言うと、僕と夏月にあの日の写真を手渡してくれた。
その写真を眺める夏月は、写真の中で幸せそうに笑う夏月よりもずっとずっと幸せそうで、ずっとずっと美しかった。




