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「なぁ、お前アントルメ作るのが好きだって言ってたよな? パティスリーに戻ってこないか? 俺のオンナになるなら2番手にしてやるからさぁ? デセール担当じゃ誕生日ケーキ作れないだろ?」
またか……もういい加減にして欲しい……。
バカバカしさにため息が漏れた次の瞬間、平衡感覚を失い、気付けば休憩室のソファに押し倒されていた。抵抗しようにも、繊細な仕事の様でいてその実肉体労働な職業に従事している相手の腕力というものはかなりのもので、普通にもがいたところでなかなか上手く行かない。
「もう30過ぎてんだろ? 抵抗するなって。彼氏もいないなら男に不自由してんだろ? 時々相手してもらえばいいからさ? パティスリーに来いって」
ブチブチと音を立て、シャツのボタンが飛ぶ。
ああ、買ったばかりだったのに……下着はカップ付きのキャミソールで良かった……ブラだったら帰り道困るもんね。
「ったく色気のない下着だな……そりゃ男もいないわけだ。綺麗な顔といい体してんのに勿体ねぇ」
ほっとけ、あんたにゃ関係ない。そう、心の中で呟いた。
もう最終手段をとっても問題ないだろう。こういう時、護身術を習わされていて良かったと実感する。とは言え、もう15年も前のことだけれど。身体が覚えたものって結構忘れないのね、なんて呑気な事を考えていたら、ガチャリという音と共に休憩室のドアが開いた。
次の瞬間、私を押さえつけていた男が消えた、と思ったら殴られて飛ばされていたようだ。
パチリ、と音がしたと思ったら薄暗かった部屋が明るくなり、私でも元上司でもない誰かがいる事に気付いた。
この人には見られたくなかった……私を正当に評価してくれているこの人だけには……。
私は水縹 夏月。
幼い頃は「水縹は鼻水だ〜」とからかわれて嫌いだった名字も今は嫌じゃない。31歳、独身彼氏なし。仕事はパティシエール。
今は、フレンチレストラン『Je porte bonheur』のデセールを担当している。
2年前までは、レストランに併設するパティスリーで働いていた。その時の上司が、先程私をソファに押し倒した男だ。既婚で子どもだっているのに全くふざけている。今回が初めてじゃないし、何度か例の最終手段で切り抜けて来たけれど、その度に私の仕事での待遇は悪くなっていった。
誰かのミスの尻拭いをさせられるならまだいい方だ。他人のミスを私のミスにされることも多々あった。主に私の代わりに愛人になった新人の子のミスの濡れ衣だったから、私のせいにするには不自然にもほどがあるし、分かる人には分かってもらえたから平気だったけれど…。
任されていた仕事の担当から外されて洗い場に回されたり、おかしな噂――男に興味ないのは女の子が好きだから――とか流されたり、もちろん給料もなかなか上がらないし、クレームの対応は完全に私の係で。もうウンザリだった。
当時からパティスリーのスーシェフだった例の上司が、来春シェフに昇格するらしい。それで「自分のポストをくれてやる、だから愛人になれ」と迫ってきたわけだが、再びそんな奴の下で働くなんて真っ平御免だ。
今は、当時とは比べ物にならないくらい恵まれた場所で働いている。先程私を助けてくれた人のお蔭で。
2年前、フランスでの修行から帰ってきた彼は、何故か私を指名して彼のアシスタントにしてくれた。
彼は私の仕事に対して正当な評価をしてくれたし、もちろんセクハラもなかった。給料も格段に上がった。
ザ・職人――そんな妥協を許さない仕事のやり方には物凄く尊敬していたし、長身でスレンダーな美形なので目の保養にも最適だ。
そんな人に無様な姿を見られてしまった。この人だけには知られたくなかった。
休憩室の電気がつけられた途端、嫌な元上司はそそくさと逃げるように部屋から出て行ったらしい。
こちらへは休み明けに使う特殊な包材――大型のケーキの箱――を分けてもらいに来た。時間的にパティスリーの従業員は皆帰ってしまっていたし、自分も着替えた後だったから、必要なものをさっさと拝借して帰るつもりだった。苦手な人たちと顔を合わせなくて、この時間を選んだのは失策だった。誰にも合わないだろうと気も緩んでいた。
油断したその結果がこの様だ。休憩室に引きずりこまれ、襲われてしまった。が、相手も油断して部屋の鍵をかけていなかったお蔭で助かった。
見られたくなかった相手にこんな姿を見られる羽目になってしまったけれど。
「おい、水縹、大丈夫か?」
起き上がり、シャツのボタンを拾い集める呑気な私に、彼は少し呆れた様だった。
「ええ、私も若くないですし、あの人はそういう人なんで慣れてます。それにここに来る前の店でも割と良くある事だったんで……」
ここの前の店の方がむしろ酷かった。若かった分、精神的なダメージも大きかった。
「春日野さんに助けてもらわなかったら、どうにか自力で切り抜けるつもりでした……でも、苦しい状況だったのですごく助かりました。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げると、呆れた顔で見つめられた。
「大体こんな時間に何しに来たんだ? 自力で切り抜けるって、逃げられなかったらどうするつもりだったんだ? 全く、お前に仕事辞められたら困るのは俺だ。相方探すのも色々大変なんだから心配させるな」
辞められたら困る、と言われて、泣きそうになる。そんな風に評価されたのも、心配されたのも初めてだ。
「学生時代、護身術を習っていたので逃げるのは得意です。ここには、休み明けに使う包材を分けてもらいに……」
その時、ガチャリと音がしてドアが開いた。
「涼?ここにいるの?」
聞き覚えのある声が聞こえる。
「桃子さん?」
「夏月ちゃん?」
声の主の名を呼べば、私の名前を返された。
なんでここに桃子さんが? パティスリーの販売のチーフの桃子さんはとっくに帰った筈では? しかも、春日野さんの事、下の名前呼び捨てで呼んだよね? そんな疑問が次々湧き上がる。
桃子さんは私がパティスリーにいた頃から販売のチーフだった綺麗なお姉さんで、不当に扱われる私の強い味方だった。彼女もまた私の恩人だ。そんな人にまたしてもこんな格好見られるなんて…。
それより、この2人は付き合ってるのだろうか? そうならば私と春日野さんのこの状況は非常に不味い。勘違いさせてしまっては本当に申し訳ない…。
「ねぇ夏月ちゃん、もしかして…。」
「あの、これはその、春日野さんに危ないところを助けてもらったわけで、決してこの方と何かあったわけでは…。」
慌てる私に溜息をつく春日野さん。
「桃子、佐藤とすれ違ったんだろ? お前の想像通りだ。あいつ、水縹に愛人になったらスーシェフにしてやるなんてほざいてたぞ。桃子に言われた時は信じられなかったがまさか本当に襲われてるとはな……何度もあったならちゃんと上に報告しろ。全く……」
「嫌です。上には言いません。今やめてもいいことありませんから……30過ぎの女、それも退職理由がセクハラだなんて、なかなかいい条件で雇ってもらえませんから」
再び呆れたような彼の溜息が聞こえたが気にしない。春日野さんの言うことは最もなのだが、思い出したくもない事を喋らされるのは苦痛だ。報告して得られるメリットを考えると余計、割に合わない。
桃子さんには何度が酔った勢いで元上司の佐藤スーシェフの事は愚痴ったことがあるので、それ以上の説明は不要だった。
2人は桃子さんの忘れ物を隣の建物まで取りに来て、私が1人で入って行くのを見かけた。しかしながら、なかなか出てこない私を心配して、春日野さんが様子を見に来たら案の定、と言うことらしい。
「ねぇ涼……やっぱりあの話、夏月ちゃんも誘うべきじゃないかしら」
「でもそしたら誰に任せればいいんだ?」
「そんなのどうにでもなるわよ。貴方の前にデセールだった田中くんもパティスリーにいるんだし……」
相談を始めた2人は、どうやら私のことを話しているらしい。誘うって何に? 任せるって何を? 田中くんって、私と交代でパティスリーに異動した彼? イマイチ話が読めない。
「おい、水縹、明日休みだよな? 予定あるか?」
「え? ノープランというか、寝て過ごすつもりですけど?」
「じゃあ、夏月ちゃん、今から飲みに行くわよ! 今夜は帰さないから!」
よくわからないけれど、2人と飲みに行くことになった様です。
***
飲み行くと言う2人に連れて来られたのは朝まで営業しているバールだった。
「ここ、早朝5時までやってるのよ、だから仕事終わりでよく来るの。料理も美味しいし、ワインも美味しいしリーズナブルでオススメよ。」
桃子さんはそう言って、白ワインのボトルと料理を数品頼んでくれた。
とりあえず、と言われチーズとワインで乾杯する。どちらもとても美味しい。それでこの価格は超が付くほど良心的。雰囲気もいいし、今度は1人で来よう。
なぜ1人かと言えば、一緒に行けるような相手がいないからだ。学生時代の友人は皆結婚してるし、以前勤めていた職場で私は嫌われていた。
パティスリーで働いていた時は時々桃子さんに誘われて出かけていたけれど、デセール担当になってからは終わりの時間が合わなくて桃子さんと一緒に出かけることが難しくなってしまった。
それに私を救ってくれた春日野さんに認められたくて、残って勉強をしたり、家に帰って調べものをしたりで仕事終わりで出かけることが皆無だった。
我ながら虚しい生活だと思う。
「ところで、お2人はいつからお付き合いされていらっしゃるんですか?」
私が尋ねると、春日野さんがむせた。
「ねぇ、夏月ちゃん? かなーり前に話したこと覚えてる?」
「まさか?! 遠距離の彼が春日野さんですか!?」
「そうそう、大正解! 実はね、涼にパティスリーに仕事のできる奴いないか? って聞かれた時に夏月ちゃんを推薦したの。前任の田中くん、もともとパティスリー志望だったらしいし、涼とはあんまり合わないのよね」
以前、桃子さんと食事をした時、何度か聞いていた遠距離恋愛中の彼の話。
桃子さんは愚痴だと言っていたけれど、私にはそれが惚気にしか聞こえず、桃子さんは彼が大好きなんだなぁって、そんな相手と遠距離中とは言え思いが通じている事がとても羨ましかった事を覚えている。桃子さんがそこまで惚気られる相手なんだから、きっと素敵な人なのだろうとは思っていたけれど、春日野さんだったなんて。なんて、お似合いの2人だろう。
「桃子の勧めも有ったけどな、パティスリーの厨房見てて、お前の立ち位置っつうか扱いに違和感有ったんだよ。何で仕事のできるお前が雑用で、仕事の出来ないチャラチャラした小娘がどうして仕上げ任されてるのか……。お前はそんな状況でも不満も言わず、押し付けられた雑用こなしながら、仕上げが間に合わない小娘のフォローまでして、店にも立ってただろう? 実際あそこを回してるのはこいつなのかって思ってお前に決めたんだよ。多分桃子の推薦なくてもあの中で選ぶのはお前だったな」
あの頃のあの場所での状況を正確に把握している事にビックリした。一緒に働いていた人達でさえ、気付かぬ人もいたはずだ。気付きながらも、自分にとばっちりが来ないように見て見ぬ振りをしていた人もいる。別に助けてくれなかった彼らを恨めしく思ったりはしないし、それも仕方ないのだと思う。誰かがアクションを起こしたところで、私の待遇が良くなるわけではなかったし、実際、逆効果になってしまった事だってあった。
「今日やっと分かったよ。お前が佐藤の酷い誘い断ったからそんな扱いだったんだって。あの子娘、愛人だったんだろ?」
春日野さん、ご名答! あの子は本当に厄介だった。出来る事なら、金輪際一緒に仕事をしたくない相手だ。
「夏月ちゃんが涼に連れて行かれた後、結構な間こっちはグチャグチャだったのよ。愛人ちゃんの仕上げは遅くて酷いし、洗い物は常に満杯だし、作業台は汚いし……店が忙しくなってもフォロー出来る人はいないわ、クレーム対応を厨房に回したらお客様更に怒るわで大変だったわ……。夏月ちゃんがいなくなってからみんながやっと気付いたのよ、厨房だけじゃなくてパティスリー全体を回してたのは、忙しくて殆ど顔を出さない関シェフでも佐藤くんでもなくて夏月ちゃんだって。佐藤くんもいなくなって困ってたから今日またあんな形でだけど引き抜こうとしてたんだし……」
あっちはそんなに大変だったんだ。私は新しい仕事をこなすのに精一杯で、古巣の事を考える暇もなかった。
「実は佐藤に水縹を返せって何度も言われたんだよ。もちろん断ったけどな。」
返されても困る! 戻りたくない! ――咄嗟にそう叫びそうになる。
「断って下さってありがとうございます。もうあんなところに戻りたくありません。お願いですから、まだ暫くデセールで、春日野さんの下で働かせて下さい」
これが私の本音だ。
なりたくてなったパティシエールだけど、仕事が楽しいと心の底から感じられたのはこの2年と、過去に働いていた店であのお客様に関わる仕事をしていた時だけだった。
「そこで、話があるんだが…。」
春日野さんが口を開く。言いにくいのか、桃子さんへチラチラと目配せをしてしながら。
「俺はそのうち店を辞めて独立する。…1年後オープン予定だ。桃子も連れて行く。水縹、お前も来ないか?」
突然の申し出に頭が真っ白になる。
「店の事を考えたら、お前は連れて行けない。俺が辞めたらお前にデセール任せるつもりだった。能力的には欲しいんだよ、俺も桃子も。ただ、場所が場所なんでそう簡単に誘えなくてな。でも、今日あんな事があって、俺らがいなくなったらお前がデセール担当続けられるか怪しいだろ。それで桃子と相談して声かけることにした。すぐに返事しろとは言わない。だけど明日予定地の下見に行くから、お前も来てくれ」
私の能力を買ってくれている。しかも、私の尊敬する人たちに、恩人の春日野さんと桃子さんに……。今の私にとってこれほどまでに嬉しい事なんて無い。
「もちろん、お2人にどこまでもついていきます!」
私は選手宣誓の様に右手を高く上げ、思わず椅子から立ち上がり腹から出した声で宣言してしまった。店内に居合わせた人が皆、こちらを振り向く。お酒が入っているとは言え。ああ……やってしまった……。
桃子さんは大爆笑。春日野さんは呆れ顔。
「おい、よく考えろ? 引越ししないと無理だぞ? 交通の便も悪いぞ? よく言えばリゾート地だが悪く言えばド田舎だぞ? 家族とも相談しろよ? 恋人はどうする? 確実に遠距離だぞ?」
春日野さんに矢継ぎ早に質問される。酔った、または佐藤の件でやけくそになったと思われているのかもしれない。そうじゃないことを伝えたい。よし、応戦しよう!
「よく考えました。お2人がいなくなったら間違いなく私は佐藤にどうにかされます。あいつの下で働くなんて、そんなの真っ平御免です。引越しは嫌いじゃないです。うち、荷物少ないですし。車の免許もあるんで交通の便悪くても平気です。あ、時々運転してるんでペーパーじゃないですよ? 基本休みは寝てるのでド田舎でも問題ありません。家族ですけど、両親はどちらも海外にいて基本的に私に興味がないですし、私は祖母に育てられたんですけど、私がやりたい事を応援してくれてます。盆と正月に会いに行けば問題ありません。もちろん、数日ズレても平気です。年に2回会いにいけばいいんです」
でもなぁ……と、春日野さんは渋る。えーい、酔った勢いで言ってしまえ。
「彼氏なんてものは存在しませんし、恋心なんてものも5年前に封印しました。憧れの人に一度だけ抱いてもらって、その思い出だけでこの先やって行こうと決めたんです。結婚願望もありません。以上です」
言いきれた満足感でドヤ顔になっているに違いない私を見て、春日野さんは開いた口が塞がらないようだ。桃子さんにつつかれて、ようやくいつも通りの締まった顔に戻った春日野さん。なかなかレアな表情、ありがとうございました。
「ツッコミどころが満載だな…。まあいい、明後日は早めに出勤してパトロンオーナーと話さないとな。」
やったー! 連れてってもらえるのね! レッツゴー、新天地。
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします!!精一杯頑張ります!!!」
「嬉しいー!!夏月ちゃんよろしくねー!!!店舗のフォローも期待してるからね。」
私達は再び、今度は辛口のスプマンテで乾杯した。
「夏月ちゅわーん、おねーさんはさっきの話で引っかかることがあるんだけどぉ? 封印した恋心って何ぃ? 憧れの人だとか、抱いてもらったとか、聞き捨てならない事をいって無かったぁ?」
桃子さんはめちゃくちゃ酔うと一人称が『おねーさん』になる。私も大分回ってる自覚があるけれど、どうやらその比ではなさそうだ。
気づいたら、ワイン赤白とスプマンテ、計3本をフルボトルで開けていた。手元のグラスは……カクテル……そう言えばキール頼んだんだった。
「もー、これから苦楽を共にする仲じゃない! そんな情けない顔してないで、喋ってスッキリしなさいよぉ。吐けぇー、吐くんだぁ……なんてね」
喋ったら、スッキリするだろうか。
あれからもう、5年。
忘れようと閉じ込めた思い出を忘れられずにいる。
春日野さんについて行く事を決めた私。
思い出は閉じ込めたままではなく、置いて去るのも悪くないかもしれない、そう思えた。