現実へ
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
「七之助 七之助!」
一体誰の事だろうと思いながら息吹は目を開けた。低い鼻に、真っ黒な髪と小さい瞳。自分に話しかけてくる子供が、倭国の者だということがすぐにわかる。
(……七之助じゃない)
息吹は反論したかったが、声が出ない。一体自分はどうしたのだろうと思いながら息吹はぼんやりしていた。勝手に喋り出した口からは聞いたことのない声が聞こえる。
「……うるさいな。今から戻れば問題ない」
不満そうな声を漏らして、七之助はごおごおと唸る川の側で、バシャッと顔を洗った。川面に映った顔から感情を読み取ることは難しく、息吹には先ほど見た少年の顔と同じように見えた。
小さな蝶とんぼが肩にとまった。茶色い羽には目玉のような模様がついており、トンボの羽は蝶のようであった。トンボは羽を自慢したいかのように、七之助の周りをヒラヒラ飛び回り、七之助は先ほどとはまるで違う声出した。
「祭りには間にあうよ」
そんならいいけどさぁと少年は返事すると、かぶりとマスクをつけ深い森のなかへ消えて行った。
息吹は、彼らが自分と同じような格好をしていることに驚いた。少年の動きには自分と似通ったものがあることにも気づいた。
―――黒ずくめの格好は、忍を連想させた。
(忍びって一体なんだろう)
息吹は先生から何度かこの言葉を聞いていたが、詳しく聞いたことがなかった。
知りたいと思っていた事に、今近づいているのだろうか。逃げ出したい気持ちを抑えながら、息吹は覚悟を決めた。
(怖いけど……)
七之助もまた、深い森へと風のような早さで突き進んでいく。
清んだ川は相変わらずごおごおと唸っていたが、カナカナと響くヒグラシの声は、息吹を落ち着かせてくれた。
(先生、阿修羅、待ってて)
忍の村への訪れが、これから辛い現実を見せる事になろうとは、今の息吹は知るよしもな無かったのであった。




