サヨナラ
光の中で小さな幼児が、こっちに向かってきている。
「せんせえー、」
よちよち歩きの幼児は息吹だった。満面の笑みでこっちに駆け寄ってくる。足にしがみつき、ニコおっと笑うと、だっこだっことおねだりする。いつものパターンだ。ハヤテはしょうがないなと言いながら、抱っこしてやると息吹はきゃっきゃと喜び、次は高い高いしてと、お願いしてきた。
ハヤテが、甘えん坊の困った奴だと言おうとした時、突然景色は暗くなり、息吹そっくりの長い黒髪の真っ黒な瞳の女性が、ハヤテを睨みつけていた。
ハヤテは驚愕した。
身体はこわばり、油汗が身体中から吹き出すのを感じた。腕の中にいた小さな息吹は何処にもいなかった。喋ろうとしたが、声が出ず、それどころか息をするのも苦しくその場に倒れこんでしまった。
女性は、ハヤテを見下ろし口を動かした。
ウラギリモノ
声は聞こえなかった。ただはっきり、こう言ってるのがわかった。
(……許してくれ)
ハヤテは朦朧とする意識の中、この言葉を心の中で唱え続けた。
がばっとハヤテは起きあがった。いつもの畳の部屋だった。
頭が割れるように痛かった。障子のほうからはシトシトと雨音が聞こえる。今が、朝なのか夕方なのかわからない。暗く沈んだ部屋の中を見渡すと、よく知った髭の男が、こちらを見ている。
「……慶獄、……今は朝か?……嫌な夢を見た」
ハヤテは少し機嫌悪そうに言った。慶獄は、夕刻だと返事をし、飯にするかと聞いた。
「いや、今日は俺はいい。……なんだか気分が良くなくてな。悪いが息吹の分だけ頼む」
慶獄は、返事をしなかった。ハヤテは、変に思い慶獄に喋りかけた。
「息吹を呼んで来てくれ。……朝一緒に食べれ無かったから、きっとむくれてるだろう」
慶獄はハヤテに近づき、ボロボロの小さな黒い手袋を渡した。息吹が普段から身につけているものだった。
ゴロゴロと遠くで雷鳴が聞こえる。
「……息吹を呼んで来てくれ」
ハヤテはもう一度慶獄に言った。雷鳴が近づいている。
「あやつはあ、去ったああ」
ピカッと雷光が、慶獄の顔を照らした。
雨音は止まず、ゴロゴロと雷鳴は鳴り止まなかった。
ハヤテは拳を強く握りしめた。
カラスの子はもう、立ち去った跡だった。




