残された人々
朝早くからジョルジュは剣の稽古をしていた。剣を振り上げ下ろすたび、汗が光って飛び散り、今ここに漂う澄んだ空気と同じように、彼の姿は凛としていた。
息吹がここを立ち去ってから、随分経った。だが、屋敷には以前の空気は無く、暗く沈んだ船のようであった。
あんなに社交的で、快活だった妹は書庫にこもり、ニコニコ能天気に見えた母は、毎日父と深妙な顔でコソコソ話し合ってる。ふくよかだったゲリーさんは、だいぶ服が緩くなった。ぼっちゃまと、いつもうるさい大きな声は、まるで嘘のようにショボショボ話す。皆んな別人だ。
息吹と阿修羅を匿い、取り逃がしたアッカーテ一家は窮地に追い込まれた。だが、古くから続くエリザベートの家は、この国の貴族と多く繋がりがあり、今もなお、エリザベートが貴族の婦人達を束ねていた為、消される事を免れた。
また、エスペランサの父親が、大層ジョルジュを気に入っていた為、縁談が破断にならなかった事も、この一家生き延びさせた。
ジョルジュは、母の活躍はあまり理解していなかったが、エスペランサとの縁談がいかに重要かということは、アッカーテからしつこく説明された。
ジョルジュは、剣を放り投げると、どかっと空を見上げて座り込んだ。そんな大変な事があったのは、嘘のように空気は澄み渡り、空は雲ひとつなく真っ青であった。
書庫の窓がここから見えたが、カーテンは閉められたまま、エマが顔を見せることはなかった。
ジョルジュはあまり息吹と話したことはなかった。はっきり言ってあまり息吹自身に興味がなかった。息吹も、いつもしかめっ面のジョルジュを怖がって近寄って来なかった。
彼らには接点があまりなかった。
だがそんなジョルジュでも、あの日の出来事は頭の中から消し去ることは難しかった。
息吹を痛めつけるギア国王を見て、ジョルジュは初めて心の底から怯えた。あの真紅の瞳と真っ赤に燃える髪が、今も彼の心に居座り、彼を支配していた。
(だけどあいつは……屈しなかった)
武道の強さは、ジョルジュと息吹はさほど差はなかった。
だがジョルジュは、精神的には自分の方が、息吹よりも優っていると思っていた。いつも甘ったれな息吹を見て、こいつには負けてないと自負していたのだ。
だが、あの日から拭えない息吹への敗北感は一体何だろう。あの甘ったれで、泣きべそのあいつのどこに、あんな力があったのだろう?
いくら考えても答えはでなかった。
チチチと小さな小鳥が、ジョルジュの肩にとまった。
(あの大鷲……あんなに探したのにどこにも見つからなかった)
阿修羅の行方は結局わからずじまいだった。どうしてギアに阿修羅の存在が伝わったのか、そして、阿修羅にどうして、王家の人間がこだわるのか、誰も教えてくれなかった。
ジョルジュは立ち上がり、また剣を振り始めた。
彼にできることは何もなかった。たった一人の妹を心配していたが、彼女は心を深く閉め、人が入って来ることを拒否した。
(俺は全然強くなかった)
少し冷たくなり始めた風が、彼の身体を冷やしたが、心は熱く、掌もジンジンしていた。
たった7つの小さな少女は、アッカーテの一家の運命を大きく変え、今もなお、その爪痕を残しているのであった。
(もう二度と会わないほうがいい……)
ジョルジュは、次、息吹に会うことがあれば、それは息吹を殺さなければならないのだと心の片隅で感じていた。今自分に出来る事はただ剣を振る事だけだ。ジョルジュは立ち上がり、また剣を持って構えた。
大きく剣を振りかぶり、風を切ったさきで、ジョルジュは呟いた。
「……じゃあな息吹」
負けん気の強い、あの強く輝く緑黄石の瞳も、今は悲しそうだった。風は止まず、運命の輪はさらに加速し、それぞれの心に影を落とした。
いま、思い出だけが、哀しく城を包み込んでいるのであった。