名前
倭国の岸に船が到着したころ、先生もようやく会話をすることが出来るようになっていた。船からゾロゾロと降りていく一行の中で、狼達の前に奇妙な二人が立ち止まった。先生が小さな息吹の肩に掴まりながら、針金の様に細くなった身体でやっとこさ立っていた。
「……長い事、世話になった。……お前達に出会わなければ、俺は死んでいただろう。……ありがとう」
先生は、狼の前に手を差し出した。狼は、照れ臭そうに手を払った。
「俺達は礼を言われるようなことはなにもしとらん。気にするな。……色々あるだろうが、頑張れよ」
狼の金色の瞳も、大きく裂けた口から見える白い牙もとても凄みがあったが、相変わらずゴワゴワした声からは思いやりが感じられた。甲高い声が、冷やかす様に割り込んできた。
「なんでえ。まあた格好つけちゃってえ。心配して医務室ウロウロしてたお人の言葉とは思いえやせんぜ!」
トカゲは息吹の方を見て、大きな目玉でウィンクした。息吹はフードの下からクスリと笑うと、ありがとうと小さい声で答えた。
狼達は船に乗り、船は出航の準備を始めた。からりと晴れた空の下で、カモメ達が気持ちよさそうに飛んでいる。潮の香りを運んだ風は、息吹たちの頬だけでなく胸の中も通りすぎていくようだった。
息吹は船を眺めながら、寂しそうに呟いた。
「本当はもっと色々教えて貰いたかった。……コウテカって名前なのとか」
息吹は眩しそうに太陽の方を向いた。
「でも……狼さんたちにもまた迷惑かけるからダメだよね。」
先生は、息吹が色々な事を経験して変わっていくのが悲しかった。仕方のない事とはいえ、あの頃の人懐っこい生意気な息吹はもう何処にも居ないのだ。
「息吹、ここまでお前は本当によくやった。俺もお前に感謝してるんだぞ」
先生は元気づけるつもりで言ったが、今の息吹には逆効果であった。
「でも、私に会わなければ腕を切らなくてもよかった!!」
息吹が大声を出したのは、久しぶりだった。先生は絶句した。息吹のフードの下から涙がポタリと岸に落ちた。
息吹の心の中は、狼やトカゲと離れる寂しさと、また、エマ達の様に、狼達に迷惑をかけてしまうかもしれないという不安でいっぱいだった。変わり果てた先生の姿も見るのが辛かった。
「………息吹」
息吹は拳を強く握り閉めて、頑なに顔をあげなかった。
「よく聞くんだ、お前が」
突然風が強くなったかと思うと、出航しようとする船から、大きな甲高い声が二人に割り込んで来た。
「おおーい、カラスの子!!」
トカゲがこっちに向かって手を振っている。後ろには狼が腕を組んでこちらを眺めている。
「元気にやるんだぜー!困ったことがあったらいつでも頼れよーーっっ!!」
トカゲが満面の笑みで手を振り続けている。強い風は息吹のフードを吹き飛ばした。息吹は唇を噛み締めながら涙が溢れるのを感じた。さっきの涙とは違うものだった。
後ろで黙っていた狼が、あのゴワゴワした声で息吹に向かって叫んだ。
「俺の名はコウテカあ!カラスの子!お前にコウテカのご加護があるように!」
息吹は船を追いかけて走った。岸は走りにくく、何度もつまづきそうになった。
「私は息吹っっ!!コウテカのご加護がありますようにっっ!!」
息を切らしながら、息吹は大声で叫んだ。小さくなっていく二人の姿に届く様に、息吹は大きく手を振った。
風は優しく息吹の頬を撫でた。
先生は息吹の背中を眺めながら、目を細めていつまでも風を感じていた。