お礼
息吹は急いで馬に乗る様瀬尾に命令された。理由は話して貰えず、神谷が母親に別れを言うよう促したので、またあの異様な部屋の前に立っていた。
(……別れって、仲良い人とするもんじゃないのかな)
息吹にとってまだ、雪は母親ではなく知らない奇妙なおばさんだった。だが、あの時必死になって自分を生かしてくれようとしていたのは、息吹も理解していた。人の気配を感じ取り振り向いた青い瞳には、心配そうに見つめる雪の姿があった。
「息吹……ここに居ていいの?」
いつもより落ち着いている様に感じた息吹は、ゆっくり自分でも何を話すかわからないまま口火を切った。
「すぐここをでなきゃいけないみたい。……お世話になったし、お礼を言いに来た」
息吹は喋りながら、別れの挨拶よりお礼の方が、自分にはしっくり来るなと思いながらそのまま喋り続けた。
「おばさん、元気でね。私のことは忘れて、自分の幸せ見つけた方がいいよ」
これじゃあただの忠告だなあと息吹は思いながらも、それしか言う言葉が見つからなかった。また雪はジンワリ涙を浮かべ始めたので、息吹は急いで背を向け去ろうとした。
「息吹!!また会えるわよね?!」
立ち去ろうとした息吹に追いすがる様に、雪は小さな背中に必死で言葉を投げかけた。だが息吹は振り向かなかった。煩わしく感じたのではない。身近に感じる事ができずとも、この人の事を自分は嫌ってはいないのだと、はっきり自覚した。立ち止まり、俯いたやいなや、大きな声で床に向かって喋った。
「おばさんの絵、一枚勝手に貰っといたから!またね」
それが息吹にできる精一杯の表現だった。息吹はもう走り出して、雪の前には居なかった。
けれど、最後の一言だけで雪には十分だった。
(……きっとよ息吹)
雪は祈る様に手を合わせ、小さな我が子を見送った。締め切られて居た部屋には新しい空気が入り、時間が再び動き出そうとしていた。
小さなカラスの子は新しい風をこの奇妙な部屋に招き入れ、去って行ったのであった。