父さん
帝の表情からは、敵意は消え憂いに満ちた表情はいかにこの女を愛していたかを表していた。震える唇からは出てきたのは、生きていたころ伝えることができなかった未練であった。
「愛している……そなたを思い出さない日などなかった。例え憎まれていようとも、側に置いておければそれでよかったのだ」
女は、静かに男を見下ろしていた。どんなに男が懇願しても、女が口を開く事はなかった。
「……哀れだな。これはただの魂魄の塊だ。意思は存在しない。喋りかけたとしても届く事は決して無い」
尊治は、優しく帝が突きつけていた刀の刃を握った。赤い血が、すうっと床に落ちて行きポタリポタリと滴った。だが帝の瞳は、頭上の女に釘付けのままだった。
「確かに母さんは、お前を憎んでいた。殺したいほどにな。……だが、同じ位愛していたんだよ。だからこそ苦しんだんだ。自分の運命を呪った」
大きく見開いた瞳からは、雫が静かに流れた。
尊治はゆっくりと、帝から刀を離した。
「母さんがいた頃、俺もあんたの背中に追いつきたかった。……だが、もう遅い。狂った歯車に身を置いた俺たちはこのまま回り続けるしか無いんだよ」
最後は呟く様に何か言った。その言葉を帝が聞けていたなら、何か変わったんだろうか。七之助の耳にだけその言葉は届いた。昔少年が父を慕い距離を置く前の呼び方だった。
答えが出ることなく、尊治は刀をなぎ払った。
ぬるい空気が辺りを漂い、青の炎が燃え盛った。
帝の首筋に赤い線が入った。その瞬間に血飛沫が飛び散り、尊治の顔面は真っ赤に染まった。
「澄子……やっとそなたのところに行ける」
男はゆっくり倒れていった。その瞬間、髪や髭は白くなっていき、横たわる男は小柄の白髪の老人だった。その顔は穏やかだった。
倭国の頂点に君臨していた男にしては、あまりにもあっけない最後だった。
七之助は、尊治の顔を見つめた。
血に染まってもなお美しく、それが逆に彼を人でない者に見せた。
(やっと叶えられた、我らの望み。……なのに何故こんなに後味が悪いのだ)
七之助は口の中に感じる苦味を吐き出したい衝動に襲われたが、尊治の表情には何も写っていなかった。
(今この瞬間、我らは若様から心を奪ったのだ。死んだ帝共に、この青年の魂も葬させてしまった)
何故今なのか、七之助の脳裏に幼かった尊治が父の背中を見つめる姿が浮かんだ。
「……若様、七之助この恩義生涯忘れません。我一族の本懐果たして頂きましたこと、一族を代表して感謝を申し上げまする」
七之助は跪き、深く頭を垂れた。残りの黒子の男達も、跪き、深く頭を下げた。青の炎は次第に小さくなっていき、頭上にいた美しい女も薄れて消えた。
「っふ、地獄はここからだ。……お前ら全員道連れだ」
尊治は笑った。
血だらけの玉座は、派手な装飾を返って痛々しく見せた。
やっと訪れた倭国の平和は、束の間であった。あんなにも多くの血を流し、沢山の屍の上に築いたものであったのに、人は争うことを止めることができなかった。
天を仰ぎ見た尊治は、静かに瞼を閉じた。
大切な者への思いが強ければ強いほど、失った悲しみは強く、更なる苦しみを彼らに課した。
これから玉座を巡り更なる血が流れる事を、この場にいる全員が予感しているのであった。