温もり
部屋に戻ると女は気分が落ち着いてきたのか、先程のように息吹に近寄って来なかった。息吹は瀬尾にバレていた事を考えると早めに手を打たなきゃと頭の中が一杯で、女の様子が変わった事などどうでも良かった。
「息吹、悪いな待たせて。そばに来て上げてくれないか」
「……うん」
息吹は恐る恐る女に近づいて、女の前で正座した。あまり直視したくなかったがゆっくりと顔を向け、こんにちはと小さい声で挨拶した。女は少し目を丸くした後、こんにちはと悲しそうに返事をした。
「さっきは取り乱してごめんなさいね」
息吹はなんと答えていいか分からず、質問で返した。
「ここで何をしてたんですか」
女は、ふふふと笑った。神谷は間に入り、一枚の紙を見せた。
「お前と離れて離れになってしまった場所を思い出そうとしていたんだ」
紙には、岬と船、松林が細かく描かれていた。息吹はなんだか奇妙な気分でその絵を眺めた。神谷は他にもあるんだぞというと、小さな赤子が描かれた絵を何枚も見せた。
「お前の顔を忘れるんじゃ無いかと心配で、何枚も描いていたんだよ」
息吹はちょっとしかめ面をし、このしわくちゃな顔が自分なのかと益々変な気分になった。
「これ私?」
「そうよ」
女はニコニコして返事をしたが、あっという間に泣き顔になり、ワンワンと泣き出した。息吹は大人がこんなに泣くのを初めて見たので仰天していたが、神谷は優しく背中をさすってやった。やっとやっと会えたと泣きじゃくる姿は小さな子供のようで、流石の息吹もさっきの自分の態度は酷かったのかもと少し反省した。しばし女が泣き続けたが、誰も咎めなかった。
「生きていてくれて良かった、生きていてくれて良かった、生きていてくれて良かった」
息吹はこの人ホントに自分を心配していたんだとなんだか遠い目で見ていた。まだこの女が母親という実感は無かったが、先程までの嫌悪の気持ちは大分薄らいでいた。しばし泣いた後、女はスンと鼻を鳴らして恥ずかしいわねと息吹に微笑みかけた。息吹は、随分彼女が年老いているように見えていたが痩せこけているだけで、本当はもっと若いのかもと思った。
「神谷、ありがとう。随分大人になって……子供の頃と変わらず優しいのね」
神谷は、今から自分が彼女に酷な頼みをする事がわかっていたので、笑いかける彼女の顔を眺めると胸が痛かった。
「叔母上、しばらく僕らはこの城に滞在します。その間、親子水入らずで過ごして下さい」
神谷は立ち上がると、息吹に得意のウインクをして、瀬尾達を引き連れ出て行った。息吹はエッと小さく驚き、予想しなかった展開にしどろもどろしながら、自分の母親の顔を眺めた。彼女は息吹の気持ちを理解しているようで、ゆっくり息吹に話かけた。
「あなたにしてあげたい事がうんとあるのよ。……私を母親だと思えなくてもいいの。暫し一緒に過ごさせて」
彼女はそっと息吹の手をギュッと握った。息吹は最初ビクっとして、振り払いたい気持ちになったが、その手は温かくなんだか安心するものがあった。
(今はまだお兄さんに手出しできない。……言うこときくしかないよね)
空は紫色に染まり、夕日ももう見えない。もうすぐ夏が終わる。
瀬尾は神谷の背中に時間あんま無いでと警告したが、神谷は何も答え無かった。
ヒグラシがカナカナと聞こえて、湿った風が各々の間を通り抜けるのであった。