大人と子供
女は固まり歯をガチガチと震わせ、どういうこと、どういうこと、と又ブツブツ呟き、瞳は空中を彷徨った。息吹は頬を赤らめ、息遣いは荒く、今にも飛びかかりそうだったので神谷はワタワタと両者の間に入り、二人に落ち着くよう促した。
「息吹、君をずっと探し続けて、母上は心も体も疲れてるんだ」
「そんな事私は知らないし、どうでもいいよ!早く封印を解いて貰って、帰りたい!」
息吹は、先ほどまでの沈黙は嘘だったかのように感情を爆発させた。神谷は分かってるよと優しく息吹の両肩に手を置き、でももうちょっと時間をくれないかと息吹に頼んだ。息吹の体から湯気が出てるように周りの者には見えたが、息吹は少し俯き、分かったと返事して納得してるように神谷に示した。握り締めた拳はぎゅっと音がなり、息吹が我慢してるのは明らかだった。
「どういうこと、どういうこと、どういうこと、どういうこと、どういうことどういう」
「叔母上、ちょっと座りましょう。今日も部屋は随分綺麗に掃除されていますね。叔母上がされたんですか?」
女はハタと呟くのをやめ、そうよ私は掃除が大好きなの!あの人もいつも褒めてくれていたわと、少女のように目を輝かせ話し始めた。そこからは永遠と、あの人の思い出話が始まっ
たが、神谷はニコニコして女の話を聞いていた。息吹は段々とこの状況に嫌気がさしてきて、怒りも落ち着いていった。女の話が終わる様子が無いので瀬尾は息吹に、一緒に付いて来るように目配せし、息吹も無視することはできずついていった。
二人を残して、瀬尾は息吹を廊下に促した。眼下には古びて荒れた庭園が広がっていたが、空は晴れ始め、風も少し吹いている。
「お前らは下におれ。俺はこいつにちょっと話があんねん」
瀬尾が一言うと、男達は瀬尾のする事になんの疑問も持たないようで、階段をズラズラ降りていった。息吹はこの血の気の多い大男と二人きりになり、恐怖で心臓が縮み上がりそうだった。
「おい、お前さっきからここに来るまで旦那の動向をずっとうかがっとんな」
息吹は息を吐くのも苦しく感じたが、爪が手の平に食い込むほど握りしめ、瀬尾の大きな黒い目から逃げるように、空を見て、精一杯考えて答えた。
「お兄さんしか知らないんだから、べつに普通でしょ。……おじさん達みたいな怖そうな人達が一杯いるんじゃこっちだって疲れる!」
素直な頃の息吹を知らない瀬尾には、息吹の態度は大変生意気に見えた。瀬尾はギロリと息吹を睨むとズカズカ近寄り、胸倉を掴んで、息がかかるほど顔を近づけて低い声で唸った。
「……おい……大人を舐めんのも大概にせえよ……お前の首なんか一捻りやねんからな」
息吹は黒い髪の隙間から、瀬尾の顔を見た。鬼がいるとしたらこの人だと息吹は恐怖したが、ここで折れるわけにはいかなかった。
「……だったらそうしなよ。そんな事して困るのはそっちじゃん」
息吹は般若のようなこの男を睨み返した。だが瀬尾は息吹の誘いに乗ってくるほど馬鹿では無かった。少し沈黙が流れた後、先に口を開いたのは瀬尾だった。
「そんなんで俺を旦那から遠ざけようとすんなんて小賢しいガキやで」
瀬尾はパッと手を離し、息吹を見下ろした。息吹はケホッと咳き込んだ後、バツが悪そうにこうなったのも全部大人のせいだよと床を睨みつけて呟いた。
「……旦那から聞いてた話しと随分ちゃうな。もっとアホの子って聞いてたんやで。それが命の恩人の旦那の隙をうかがってんねんから、世の中怖いわー」
息吹は最後の言葉だけは聞きたくなかった。バレていたのもショックであったが、命の恩人という言葉はぐさりときた。決意したはずだったのにもう揺らぎそうだ。
「誰の指示か知らんけど、旦那は姉ちゃん置いてここにおんねん。その事よう考えとけ」
瀬尾は吐き捨てるように言うと、階段の下にいる男たちに、もうええでと一言放ち部屋へ戻っていった。息吹は座り込んだまま動かず、大人達は見て見ぬふりをして息吹の横を通り過ぎるのであった。