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カエ…シテ

作者: 本城集太

 詩織、今から会いにいくよ。

 僕が何故会社を辞めなくちゃならなかったのか、もう一度、最初から話してあげる。奴等が僕に対して、どれだけひどい言葉を吐き、どれだけひどい態度をとってきたかを。だから今日は、ちゃんと聞いてほしい。

 詩織ならわかってくれるはず。そして、「別れましょう」なんて二度と口にはできないはず。

 汗が止まらない。エアコンは正常に動いてるんだ。二十度以下に設定してある。

 何故だか君にはわかるかい?

 腹の底に、ヘドロのように溜まった感情達が、気持ち悪くて仕方ないからさ。

 焦燥。憂鬱。自嘲、不安、不満、絶望。そいつらが膨れ上がり、胃袋を押し上げて、絶えず吐き気を催させる。

 ひと月前。君が突然、あの電話を寄越してきた日からずっと。

 さて、そろそろ出かけよう。部屋に丁度いてくれるといいんだけど。

 そうだ、傘を持っていかなくちゃ。たしか天気予報で、夕方から雨みたいなことを言っていた。もしかすると、詩織の帰りを外で待たなくちゃならないかも知れないから。そうならないことを心から願うよ。

 ついでに、これも持っていこう。誤解しないでほしい。君を傷つけるためじゃないんだ。ただ、怖いんだよ。君を失うことになるかも知れないと思うと、とても。

 だから僕を一人にしないでくれ。僕にはどうしても君が必要なんだ。

 わかってくれるよね、詩織。





 黒灰色の雲が急速に空を埋める。あたりは怖いほど暗くなった。

 ぽつ、ぽつ、と大きな雨粒が落ちてきたかと思うと、一気にどしゃ降りになった。

 四限目。三百人は入れる五号館の五百二十五番教室では、社会学概論の講義が終わりにさしかかっていた。

「うわっ、すごいね」

 教壇側から徐々にせり上がっていく座席の列。その一番後ろの窓際の席で、柴田亜美が外を眺めたまま呟いた。

「ちょっとぉ。今日、降るって言ってた?」

 振り向いた亜美はふくれっ面だ。

 隣りで岡本紗恵は困り眉の笑顔を作ってみせた。そんな文句、私に言われても。

「さあ、どうだろ」

 適当に答えたが、紗恵は知っていた。夕方から大気の状態は次第に不安定に。念のため、折り畳み傘を持ってお出かけ下さい。朝、お天気お姉さんが液晶画面の中から、そう忠告してくれていたことを。

 でも、こんなに晴れてるじゃん。降水確率も二十パーセントだし。

 トーストを齧りながら観ていた紗恵は、お姉さんの忠告を無視した。

 そうして今、亜美と一緒に困っている。

 彼女に難癖をつけられた紗恵の方がストレスが溜まるが、仕方なく亜美をとりなした。いつもの役回りだ。

「案外すぐやむかもよ、夕立みたいに」

「そうかなあ」

 亜美は再び窓の外を見上げた。「でも空、真っ黒だよ」

 確かに。

 あまりの暗さに、早くも灯った常夜灯の光のオレンジ色が、なだらかな斜面になった芝生の中庭の真ん中に浮かび上がっている。

 それが霞んでしまうほどの雨の勢いは、弱まる気配すら無い。

「しばらく時間潰しますか」

 紗恵の提案を、亜美は即座に蹴った。

「えー!でもあたし、行く前にDVD返しに寄りたいんだよね」開いたテキストのページを、シャーペンの先でトントンしている。

「ぎりぎりになって慌てるの、嫌じゃん」

「まあ、そりゃそうだけど」

「そうだよ。化粧だって最終チェック、余裕でしたいし」

「うん」

「それに、もしも遅れたら舞衣に悪いし」

「そだね」

「向こうの男子にも悪いし。だいたい、第一印象悪いっしょ、だらしない女だなーって」

「はいはい、わかった、わかりました」

 ったく――

 亜美は我を通そうとする時に限って、妙に論理的だ。我儘で甘ったれのくせに。紗恵は、つい意地悪を言ってやりたくなった。

「じゃあ、強行突破する?」

「はあ?冗談。せっかくのお団子が台無しでしょ。絶対にイ・ヤ」

 そんなムキになんなくても。

 とはいえ、予想通りの亜美のリアクションではあった。なんとも可愛くて、紗恵は思わず吹き出す。

「なに?なによ」

「ごめん、ごめん。なんでもない」

 素直に謝る紗恵を、亜美はまだ睨んでいる。

 黒目がちの瞳。ふっくらした頬の線。あどけなさを残す顔立ちの彼女は、栗色の髪をお団子に決めてきた。

 服装も違う。上はオフホワイトのノーカラーブラウス。胸元に小さなリボンがあしらわれている。下は膝丈のフレアスカート。レモンイエローが目に鮮やかだ。普段はほとんどパンツスタイルなのに。

 全ては、この後予定されている合コンのため。共通の友人である山下舞衣プロデュースの今回、相手はK大医学部の学生だ。

 イケメン揃いだと、舞衣は豪語していた。だから亜美も気合十分。細い指先には、白くて小さな花びらが舞っている。まさに爪の先まで準備万端だ。

 紗恵も、これまでの合コン前よりは高ぶっている。だからこそ、自身の白いフリルTシャツにネイビーのプリーツスカートという組み合わせを、少し後悔していた。

 もっと派手にすればよかったな。

 地味顔を自覚している紗恵は、どうしたって服もおとなし目に抑えてしまうのだ。

 亜美はシャーペンを鼻の下に挟んで、頬杖をついた。上目使いで天井を見上げる。

 いかにも「考えてます」のポーズが可笑しくて、紗恵は笑いを含んだ声で尋ねた。

「何かいいアイディア、浮かんだ?」

 亜美は黙ったまま、ぴくりとも動かない。

「ねえ」

 重ねて呼びかけると一瞬の間があって、亜美は急に振り向いた。テキストの上にシャーペンが落ちる。学食でスペシャルAランチにするか、日替わりヘルシー和定食を注文するかで悩んでいる時と同じくらい、真剣な面持ちだった。

「やっぱ行こう」

「へ?」

「行こう、今すぐ」と言っているそばから、机の上に広げていたテキストやノートを片付け始める。

 紗恵は慌てた。

「ちょっ、ちょっと。行こうって、どこへ?」

 手を止めた亜美が、不思議そうな目を向ける。「合コンに決まってんじゃん」

「はあ?今すぐって?」

「今すぐは、今すぐだよ。さ、早く」

 最後にペンケースを詰め込んだトートバッグを肩に掛け、亜美は立ち上がった。席の後ろに回り、さっさと出口に向かう。

「ちょっと亜美。なんなのよ、もう」

 訳もわからないまま、紗恵も机の上のものを急いでショルダーバッグにしまう。

 バタバタした気配に、前の席の男が振り返った。ゲジゲジみたいな眉をしかめている。銀縁眼鏡の奥の目は糸のようだったが、非難の色を湛えているのは明らかだった。

「す、すみません」

 なんで私がペコペコ頭を下げなきゃなんないのよ、バカ!

 内心で眼鏡男と亜美に悪態をつきながら、席を立った。


「亜美、待ってよ!」

 廊下の先を早足で進んでいた亜美に、小走りで追いついた紗恵は、並んで歩きながら問いただした。

「どうしたの、急に」

「行くんだよ、合コンに」

 前を向いたまま、亜美はケロリと答える。

「行くって、この雨ん中?」

「そ」

「お団子、台無しになるんじゃないの?」

 私だってご免だ。こんな土砂降り、バッグを頭上にかざしたくらいじゃ何の足しにもならない。出た瞬間、ずぶ濡れになるのは間違いなし。一応、お洒落してきてるんだから、私なりに。

 不意に亜美が立ち止まった。

「大丈夫。ほら」指を差した先は正面玄関。亜美は駆け出した。

 紗恵も後を追う。何があるんだろ?

 それほど広くはない玄関ホールに着いてもまだ、紗恵にはわからない。

 入口の自動ドアの向こうに見えるタイル張りの通路には、屋根が付いているにも関わらず、叩きつけられた雨が飛沫を上げている。

 右手の壁には、防災強化月間や海外ボランティア募集のポスター。左手の壁には、緑色の掲示板が掛かっていて、学生課からのお知らせや、いろいろなサークルの新人勧誘ビラが貼ってある。

 他には、とあたりを見渡している紗恵に、

「ほら、これがあるから大丈夫」

 亜美が指したのは、その掲示板の下に据え付けられている、黒いスチール製の傘立てだった。数本の傘がぱらぱらと差してある。

「なんだ、傘、持ってきてたんだ」

「んーん」

 亜美は首を振った。

「じゃあ、何?あ、置き傘してたの?」

「それなら最初っから、そう言ってるよ」

 笑いながら答える亜美の眉間に、うっすらと縦皺が寄った。クリクリした目が、ほんの少し憎たらしく見える。まーた、人を小馬鹿にして。

 亜美は傘立てに近付くと、中を覗いてキョロキョロし始めた。

「さーて、ど・れ・に・し・よ・う・か・な」右手の人差し指を顎に当てて、そう口ずさみながら。

「まさか、亜美」傘、パクろうってんじゃないでしょうね。

 後の言葉を呑み込んで、紗恵は後ろから見ていた。

 と、亜美が嬉しそうな声を上げる。

「決ーめた!これにしよっと」振り向きざまに掲げてみせた右手には、黄色の傘が握られていた。

 紗恵は溜め息をつく。

「亜美、それはさすがに」

「平気だよ、置きっ放しの傘じゃん」

 事も無げに返す亜美。もうバンドをはずして開こうとしている。

「置きっ放しかどうかわかんないでしょ。今日持ってきてたんだったら」

「今日傘持ってきた人なんかいないって。見た?傘持って歩いてる人」

「そりゃ、見なかったけど」

「ほーらね。あ、ほら、見て見て」

 亜美は傘を開いた。スカートと同じ。爽やかな黄色。

 なんという偶然のコーデ。などと感心している場合ではない。

「放置してあるやつだったらいいってことには、ならないと思うけど」

「いいの。ほったらかしにされたままじゃ、この子だって可哀そうでしょ?」

 たたみながら亜美は、既にそれを自分のものにしてしまっているようだった。「どうせ、あと五分もしてごらん。講義が終わって、みんなワッと出てきて、ここにある傘なんかあっという間に取られちゃうんだから」

 それは…そうかも知れない。だから早目に抜け出してきたのか。

「誰もがやってることなんだから。そんな気にすることないって」

「だけど」

「損だよ、自分だけ真面目やってると。あたしなんか、今までに何本パクられたことか」

 何本パクられたかは知らないけど、今持ってる傘が代わりになんてならないでしょ。

「ギブ・アンド・テイクだよ」

 言葉の使いどころを間違えているような気がするけど。

 またしても登場の理論派亜美先生は、それでも自信満々だ。論破した相手をいたわるかのような微笑を、口元に浮かべている。

 引き下がるわけにはいかない紗恵は、別の案を持ちかけてみた。

「じゃあさ、せめて、それじゃなくて他のにしたら?そこのビニ傘とか」

 なんだ、これ?これじゃ亜美と一緒じゃん。ただ、別の傘を盗れって言ってるだけ。でも、そっちのなら少しは気が楽かも。だから。

「どれよ?これ?」

 紗恵の言う傘を、亜美が抜き取った。

 埃で薄汚れたビニール傘。いびつな形のままたたまれて、固まっている。開くとバリバリ音がしそうだ。そもそも開けるのか、紗恵にはわからなかった。

「えー、やだー、こんなのー」

 そんなに嫌がらなくても、と言いたくなるほど顔をしかめて、亜美が拒絶する。

「でも、それなら絶対に放置してるやつだってわかるから」

「嫌。こんなゴミみたいなの」

 亜美はビニ傘を元の位置に、投げるように突っ込むと、

「やっぱ、これしか無いっしょ」黄色の傘を頬の横に並べてみせる。唇の両端をきゅっと上げて。

 本当に困った子だ。

「ほら、もうすぐ講義終わっちゃうよ。行こ」

 自動ドアの前まで行き、亜美は再び傘を開こうとする。ドアが開いたせいで、盛大な雨音がホールに飛び込んできた。どこかで雷が低く唸る声も聞こえる。

 紗恵は、なおもぐずぐずしていた。

 亜美が呆れたように笑った。「ほんっとにお人好しだよね、紗恵は」

「だって」

「わかったわかった。じゃあ、借りるってことでどう?」

「借りる?」

「そ。今日一日だけ借りて、明日また、ここに戻す。それならいいでしょ?」

 まるで自分が聞き分けのない子供で、それを包容力のある大人の亜美があやしているような今の構図が、紗恵は気に入らない。面倒にもなってきた。

 ここはひとつ、余裕のあるところを見せて、亜美の妥協案を受け入れてやろうか。

 紗恵が決意しかけると、敗色濃厚な良心が悲鳴を上げた。何はどうあれ、今やろうとしてることは、紛れも無い泥棒だよ!

 その言葉を支えに、紗恵はもう一度、悪あがきを試みた。逆転の可能性は限りなくゼロに近いことは百も承知で。

「やっぱり、コンビニで買ってかない?」ご機嫌伺いのような口調になってしまった。

「無理無理。一番近いとこだって、行くまでにずぶ濡れだよ」

 紗恵の言葉を一蹴した亜美の笑顔から、柔らかさが失われつつある。

 やばい、イライラしてる。

 これ以上粘る勇気は、紗恵には無かった。懸命に自分自身を説得しにかかる。

 大人げないぞ、私。亜美も折れてきてるんだから、わかってあげなきゃ。あの傘だって、本当に放置してあったのかも知れないし。いや、放置してあったんだよ。それにしては綺麗なのが気になるけど。でも、今日置かれたんじゃないとは私も思う。あんなに晴れてたんだもん。前に降った日に持ってきて、帰りは止んでたから忘れていっちゃったんだね、きっと。忘れる方が悪いよ。それに、盗ろうとは言ってない。借りるだけ。明日には返すんだから。

 紗恵、と亜美が急かす。

 結局、亜美の言い分が通るんだよね。

 脱力感に包まれながら、紗恵は溜め息混じりに答えた。「借りるだけだからね」

「よし、決まり。明日必ず持ってくるから」

 心からの笑顔を取り戻した亜美は、傘を開いた。「さ、入って入って」

 手招きをする亜美の元へ、紗恵が駆け寄る。

「さあ、行くよー」

 亜美の掛け声と共に、二人は外へ飛び出し、屋根の下を抜けた。

 雨が傘を叩きつける。あまりの激しさに、傘の骨が折れるのではないかと紗恵は心配になった。隣の亜美が、こちらを向いて口を動かしたが、何を言っているのか聞き取れない。

 直後に稲光が走り、凄まじい雷鳴が轟いた。





 幅三メートルの道を挟んで両側に並ぶ店は、どこもみな閉まっている。時刻は午前零時前。

 H駅近くの、この商店街にはコンビニやファミレスは無く、古くからある八百屋や総菜屋ばかりだから、夜の9時を過ぎると寝静まってしまう。

 街灯の光が反射する、濡れたアスファルトの通りを、紗恵と亜美は歩いていた。

 突然、亜美が大声を上げる。「あー、楽しかったー」

「しーっ!」

 紗恵は慌てて人差し指を鼻の前に立て、亜美を睨んだ。

 けれども、亜美に悪びれる様子は微塵も無い。ペロッと舌を出すと、

「商店街の皆さん、ごめんなさーい」

 ふざけた調子で周囲に謝っている。反省の色が感じられたのは、声のボリュームを落とした点だけ。

紗恵は苦笑した。

 ま、はしゃぐのも無理ないか。今日の合コンでの主役は、間違いなく亜美だったのだから。

 最初の洋風居酒屋でも。二次会のカラオケでも。医大生達の関心は、常に亜美に集中していた。

悔しいけど。

 カラオケの店を出た後、もう一軒誘われて、亜美は行きたそうだったが、紗恵が無理矢理連れて帰ってきた。もう一軒どころか、行くところまでとことん行きそうな危険を感じたからだ。

 帰りの電車の中、亜美は不満たらたらだった。とろりとした目で紗恵を見据えて、紗恵はあたしの保護者なの?などと絡んだりして。

 途中から紗恵の肩に頭を預けて、口を開けたまま熟睡し、電車を降りた時には機嫌は直っていたが。

「これ、あたしのラッキーアイテムかも」

 ん?と振り向くと、亜美が立ち止まっていた。黄色の傘を抱き締め、柄のところに頬ずりしている。

「何やってんの?」

 気色悪そうに紗恵は聞いた。

「あたしさー、今日、モテモテだったじゃん?」

 何を言うかと思えば、よくもまあ、ぬけぬけと。

「うん、まあね」

 癪に障るが、紗恵は肯定してやった。言葉を発する前に、深呼吸する必要があったけれど。

 気を良くした亜美は、デレッとした顔で近付いてくる。酒臭い。

「今日のあたし、キラキラしてたでしょ?」

「そうだね、してたしてた」

 あー、面倒臭い。

「なあにー、その言い方。さては紗恵、妬いてるな?」亜美の右肩が、紗恵の左肩を小突いた。

 コイツ、まだ酔ってやがるな。

「そんなことないよ」

「ホントにー?」

「ホント、ホント」

「じゃあさー、あたしが男子全員からアドレスもらったって聞いても怒らない?」

 亜美が小首を傾げる。わざとらしい、不安げな表情。

 ウソ、いつの間に?

 紗恵は唾をゴクリと飲み込んだ。

「怒んないよ。怒るわけないじゃん。へえー、凄いね亜美。全然気付かなかったよ」

 最後の方は声が震えた。この話を、もう続けたくなかった。

「それより、早く帰ろ」精一杯優しい声を出すと、亜美はへにゃっと笑って、素直に頷いた。

 歩き始めて、間もなく。亜美が、傘を握った両手を前に突き出した。

「この子のおかげだよ、きっと」

 まだ言ってる。アホらしいとは思いながら、紗恵もノッてやった。

「幸せの黄色い傘だね」

「お、紗恵、いいこと言う!」

 亜美の弾んだ声に、紗恵も思わず顔が綻ぶ。そして、ハッと思い付いた。

「亜美、駄目だからね」

「えー!」

 紗恵の言おうとするところを察して、亜美がたちまち駄々をこね始めた。「だって捨てられてたんだよ」

「そんなのわかんないでしょ」

「絶対そうだよ」

「わかんないよ。ただの忘れ物だったらどうするの。持ち主が思い出して取りに来た時、困るじゃない」

「考え過ぎだよ。置き去りにされてたんだって、この子は。紗恵だって、あの時納得したじゃん」

 納得したっけ?いやいや、そんなことは言ってない。亜美は強引に話を捏造しようとしてる。それとも本当に勘違いしてる?どちらにしても、あの時の約束は覚えてるでしょ、亜美。

「明日、ちゃんと返すんだよ。いい?」

「でも」

「いい?わかった?」

 紗恵は、たたみかけて念を押した。

「わかったよ。もう」

 ようやく亜美は呟いた。思い切り、唇を尖らせてはいたけれど。

「あーあ、もっと一緒にいたかったのにな」

 大声で残念がってみせた亜美の口を、紗恵が手で塞ごうとした。

 それを逃れて亜美は走り出し、五、六歩行ったところで立ち止まると同時に傘を開いて、くるりと向き直った。

「ねえ、紗恵もさしてみる?幸せの黄色い傘」柄を肩より高く持ち上げてみせる。

「ご利益あるかもよ」

 何言ってんだか。

 紗恵は取り合うつもりもなかったが、亜美は歩み寄ってきて、傘を差し出した。

「ほら」

 亜美の子供みたいな笑顔につられて、紗恵は傘を手に取った。

 そうだね、ご利益あるかもね。本当は合コンで欲しかったけど、でも、明日からは。

 なんだか少し、ふざけてみたくなった。両手で柄を握り、中棒を右肩に乗せて、その場でターン。

「どう?」

「似合う、似合う」

 亜美は手を叩いて笑った後、真顔で付け加えた。「でも明日、返さなきゃ駄目だぞ」

「亜美ィ!」

 紗恵が傘を振り上げ、叩く真似をすると、亜美はキャーッと走って逃げた。


 商店街の突き当りは片側二車線の大通り。昼間は結構な交通量だが、この時間ともなれば、それもまばらだ。

 ここで紗恵は左に、亜美は右へと別れる。

「大丈夫?亜美んちまで一緒に行こうか?」

「平気、平気。心配ご無用」

 二人のアパートは、どちらもそこから近く、大通りからも離れていないため、帰り道に暗い場所は少なかった。だから紗恵が心配したのは、主に亜美の酔っ払い具合だったのだが、ヒールを履いて走れるぐらいだから、確かに心配は無用だろう。

「そんじゃ、また明日ね」

 亜美が手を振った。

「うん、また明日。二限の倫理、遅れんなよ」

「了解!」

 敬礼のポーズを取る亜美に、紗恵も手を振った。


 アパートの前に辿り着いた頃には、足元がふらついていた。随分後になって、酔いが回ってきたみたいだ。

 失敗した。カルーアミルク、飲み過ぎた。亜美、ちゃんと帰れたかな。などと、痺れたような頭で考えつつ、紗恵は外階段をのろのろ上がった。

 二階の角部屋の鍵を開ける。こもっていた生温かい湿気が体を包み込む。

 暗闇の中、入ってすぐのキッチンを通り抜けて六畳の居間へ。蛍光灯のスイッチを入れる。

 もう一つ向こう、勉強部屋兼寝室の襖を開いてバッグを放る。布団が敷きっ放しだったら、そのままダイブできたのに。こういう時に限って、押し入れにしまっている。

 紗恵は居間の、ガラステーブルと壁の間に詰め込んだようなクッションソファに、仰向けに倒れ込んだ。

暑い。汗が吹き出てくる。

 いかん、いかん。シャワーを浴びなければ。でも、その前に水。

 テーブルに右手をつき、体を起こした。目の前にあったリモコンで、エアコンをつける。よっこらしょと立ち上がり、キッチンへ。

 水切り籠からグラスを取る。蛇口をひねって水を注ぎ、一気に飲み干した。ぬるい水は喉の渇きを癒やすよりも前に、汗に変わっていく。もう一杯注いだグラスを持って、居間へ戻る。

 座っちゃ駄目だ、座ったら動けなくなる。

 と思いながら、テーブルの前にぺたりと座ってしまった。

 なんとはなしにテレビをつけると、ニュースキャスターが、こんばんはと挨拶をしたところだった。

エアコンの風が気持ちいい。

 紗恵はウトウトして、ソファに横倒しに倒れ込む。そのまま、すうっと眠りに落ちそうになった時だった。

「殺害されたのは、S学院大学一年生、ニノミヤセイカさん」キャスターの一言が意識を捉えた。

 うちの学生だ――

 寝転んだまま頭だけをもたげる。薄目を開けて、画面を見た。

「……○○市××町のコンビニエンスストアの前で…」

 あ、ここのコンビニ、大学の近くの。

 タイホ……ムショク……サカシタトモハルヨウギシャ……

 ニュースの切れ端が、羽虫のように耳に潜り込んでくる。

 けれども、紗恵は何も思わなかった。思えなかった。

 ナイフ……ムネヤハラ……ニジュウスウカショヲササレ……

 眠りの淵でかろうじて踏みとどまっていたが、もう限界だった。紗恵は意識を失った。





「今日のゲストは××さんでしたー!」

 テレビから聞こえる、お笑いタレントの声で目が覚めた。

 寒い。紗恵は身震いした。

 そこで思い出す。昨夜、テレビもエアコンもつけっ放しで眠ってしまったことを。

 そして気が付く。寝過ごしたことに。

 飛び起きると、浴室へ駆け込んだ。

 昨日から粘りついていた汗をシャワーで流した後は、下着姿で洗面所に立ち、歯ブラシをくわえたままドライヤーを当てる。

 箪笥の引き出しから、目についたTシャツとデニムのパンツを引っ張り出し、身につける。朝食をとっている暇は無い。とにかく大学へ行かなければ。倫理学だけは、なんとしてでも出席しとかないと。

 テキストやノートをバッグに投げ込み肩に掛けると、玄関にダッシュ。

 スニーカーをつっかけて部屋を飛び出し、鍵をかける。起きた時冷え切っていた体は、既に汗ばんでいた。

 外階段を駆け下り、駅へと急ぐ。

 どんよりとした曇り空。日差しの熱こそ無いが、半端ではない蒸し暑さだ。水蒸気の中をかき分けて歩いている気がしてくる。背中に張り付いたTシャツが気持ち悪い。

 まだまだ買い物客もまばらな商店街にさしかかって、初めて思った。傘、持ってきた方がよかったかな。

 脳裏に、昨日の黄色い傘が浮かんだ。

 亜美、忘れずに持ってくるかな。ま、今はそんなこと心配してる場合じゃないか。

 腕時計にちらりと目をやる。本当に、そんなことを心配している場合ではない。

 紗恵は走り出した。


 最寄りのK駅から一番近い西門から、銀杏並木の下の煉瓦通りを駆け抜け、ヘロヘロになった紗恵が最後部のドアから三百一番教室に入ったのは、モジャモジャ頭で口髭を生やした倫理学の教授が最前部のドアから入るのと同時だった。滑り込みセーフ。走った甲斐があった。電車の待ち時間がほとんど無かったのも大きかった。

 百人ほどが入れる教室は、二人掛けの机が三列に並んだ細長い部屋で、いつもと同じように七割がたの席が埋まっている。紗恵は肩で息をしながら、亜美を目で探した。

 講義中、黒板を多用する教授の板書した文字をより近くで見ようと、受講生の多くは前列から座っていくため、教壇から離れるほど人影もまばらになる。だから亜美がいれば、どの教室でもそうだが、好んで座る後方の席に、その姿を見つけるのは簡単なはずなのだが。

 やっぱり――

 亜美はいなかった。

 紗恵はドアの前の席に着くと、隣の机の上にバッグを置いた。真っ先にスマホを取り出し、机の下でメールを打つ。

「起きてる?二限始まったぞ」

 それから九十分。エアコンの効いた快適な空間で、マイク越しに響く教授の柔らかな低音の声をBGMに、欠伸をかみ殺し、瞼が閉じそうになるのを懸命にこらえながら、紗恵はノートをとった。

 出席していれば単位がもらえる、という評判を信じて履修登録した講義だったのに。

 今年から方針を変更しました。出欠の状況を重く見るのは、これまで通りですが、試験も基準点に届かなければ単位はあげませんので、悪しからず。

 初回の講義で開口一番、モジャモジャ教授は受講生達の信頼を、あっさり裏切った。紗恵は、ゲッという顔で舌を出した亜美と見つめ合ったものだ。

 だから、居眠りなどしていられない。亜美にノートを見せてやるためにも。

 ったく、亜美のやつ。今度、駅前のカフェで絶品チーズケーキを奢ってもらうからね。

 とは思いながらも、途中で顔を出すのではないかと微かに期待していたのだが、結局、亜美は最後まで来なかった。

 モジャモジャ教授が座席の列の間を、出席カードを配りながら歩いて回る。最後に紗恵がカードを受け取ったところで二限が終了した。

 前に戻っていく教授の背中を眺めながら、大きな伸びをする。それから遠慮なく大欠伸。首を左右に傾けて、凝りをほぐした。

 あー、疲れた。こんなんで午後のバイト、大丈夫かな?

 名前を記入したカードを、教壇で待つ教授に提出して部屋を出た。

 学食へ向かう。食欲はそれほど無かったが、ちゃんと食べて、体力をつけておきたかった。

 歩きながらメールをチェック。亜美からの返信は無い。電話してみた。

 出ない。

 まだ寝てんのかな。

 諦めて切ろうとした時、つながった。

「もしもし」囁くような声。

「もしもし亜美、今起きたの?」

「んー」

 不機嫌な返事。まだ目が開いていないに違いない。

「大丈夫?二日酔い?」

「んー」

「しょうがないなー。倫理、すっぽかしちゃって。昨日調子に乗って」

「ちょっと」

 亜美が弱々しい声で話を遮る。

「あんまり、ガミガミ言わないでくれる?頭、割れそうなんですけど」

 私は盛大な溜め息をついてみせた。

「今日、これからどうすんの?ずっと寝てる?」

「んー、多分」

「そっか。私、これからバイトだから。終わったら、また電話するね」

「ん、頑張って」

「亜美もね」二日酔いを醒ますのに、頑張るも何もあったもんじゃないけど。

 紗恵は二階から一階へ階段を下り、出口に向かった。

 途中、サロンの前を通りかかる。三十人が入れる小教室程度の広さのそこは、学生達が自由にくつろげるスペースで、ソファや鉢植えの観葉植物、飲み物の自動販売機も、大きなテレビもある。

 そのテレビの前に、結構な人だかりができていた。

 なんだろう?

 紗恵は近寄り、後ろから伸び上がって覗いてみた。

 液晶画面の中央に、マイクを持った眼鏡の男性。その腹のあたり、画面下の中央に「吉田正人記者」のテロップ。

 右上の文字に目を移す。

「中継 ○○警察署前」

 ○○警察署って、確か、大学とは駅の反対側にある――

 紗恵の頭の中で、つながった。目の前の映像の意味と、昨夜、眠りに落ちる寸前のおぼろげな記憶とが。

「それで吉田さん、事件の詳細については、どの程度わかっているんでしょうか」

 スタジオから問いかける男性の声。昼の情報番組で司会を務める、売れっ子タレントのものだ。

 吉田記者が答える。

「はい、坂下智春容疑者は逮捕直後は動揺が激しく、口もきけない状態でしたが、今朝は平静を取り戻しており、非常に冷静に取り調べに応じているということです」

 やや早口。分厚い唇がせわしなく動く。吉田記者の緊張が、はっきりと伝わった。

「そこで、まずわかったのは、殺された二宮聖香さんと坂下容疑者とは、一度も面識が無かったということです」

「ひどい」見物人の中から、女の子の震えた声が漏れた。

「そして、今回の事件の背景には、ひと月前、坂下容疑者がそれまで交際していた女性から、別れ話を持ち出されたことがあったようです」

 映像が切り替わる。

 群がる報道陣の中を、ゆっくりと進むパトカー。間断無く焚かれるカメラのフラッシュが、車内を照らし出す。後部座席で関係者に挟まれ、ジャンパーのようなものを頭からすっぽり被っている犯人。

 吉田記者の声が重なる。

「一方的に別れを告げられ、それでも諦めきれなかった容疑者は、昨日の午後四時から四時半までの間に、同じ町内にある、その女性宅を訪ねました」

 今度は、事件後間もない現場の録画。何人もの鑑識課員が立ち働いている。そこは紗恵にも見覚えがあるコンビニの駐車場。大学から近く、よく利用している。昨日も行こうと思った。亜美と一緒に。傘を買うために。

 やっぱり、コンビニで買ってかない?

 自分の言葉が耳に甦った時、紗恵の背中を冷たい何かが走った。

 もしもあの時、このコンビニに寄っていたら、もしかすると。

「犯行に使われたナイフは、その時から持っていたんでしょうか?」スタジオからの質問。

 再び吉田記者の姿が現れる。

「はい、そうです」

「すると最初から、元の交際相手に危害を加えるつもりだったということですか?」

「その点については、坂下容疑者は否定していまして、ただ一人では不安だから、精神安定剤のつもりで持って行ったと供述しているようです」

 ホントかな?

「ホントかよ」同じように思ったらしい男子学生の声が聞こえた。

「一旦は元交際相手の家に向かった容疑者が、何故、事件現場となったコンビニの前で、二宮聖香さんを殺害するに至ったのでしょう?」

「はい、それにつきましても、既に坂下容疑者は取調官に話しておりまして」

 記者は、そこでメモに目を落とす。

「訪ねた時、女性は留守で、帰るまで街をぶらついて時間を潰そうと考えた坂下容疑者は、特にあてもなく、K駅方向に向かって歩き始めました。その途中で当のコンビニにさしかかり、二宮さんと出くわしました」

 ワッと泣き声が上がった。くずおれそうになる女の子の肩を別の女の子が抱いて、人だかりから離れていく。

 二人は近くのソファに並んで腰掛けた。片方は両手で顔を覆って泣き続け、それをもう片方が、背中をさすりながらなだめている。

 二宮さんて子の友達だろうか。

「当時○○市一帯は、猛烈な雨に見舞われており、びしょ濡れでコンビニの屋根の下に立っていた二宮さんに、坂下容疑者は、自分の差していた傘に入らないかと声をかけました」

「坂下容疑者は、傘を持っていたんですね?」

「はい。急な雨だったんですが、天気予報では、夕方から降るかも知れないようなことを言っていたので、持って出たそうです」

 私より几帳面だな。紗恵は妙なところに感心した。

「しかし、何故、見ず知らずの人間に声をかけたんでしょう?通常、傘を持っていたからといって、入っていきますかなどと誘う人は、あまりいないと思うんですが」

「その理由については、容疑者は自分でもよくわからないと言っているようです。見知らぬ女性に声をかけたことなど、これまで一度も無かったそうです」

 運が悪かったんだ、二宮さんは。結局は、そういうことなんだろう。

 でも、その一言で済ませられるものなんだろうか。たとえ、そうとしか言いようが無いにしても。

「坂下容疑者の申し出を二宮さんは断り、しばらく押し問答があった後、二宮さんはコンビニに入り、ビニール傘を購入すると、それを差して立ち去ろうとしました。その態度にカッとなった坂下容疑者は、持っていた果物ナイフで二宮さんの後ろから」

 ギャーッと絶叫が響き渡った。ソファに座って泣いていた女の子だ。

「聖香!聖香!」両耳を塞いで、名前を呼び続ける。もう一人の子が「行こ、ね」と立たせようとする。

「おい、もうテレビ消せよ!」

 誰かが怒鳴る。人混みが散らばり始める。

 紗恵も、その場から離れた。

 腕時計を見る。やばっ、ちょっと急ごう。

 足取りを速めながら、しかし紗恵はそれほど強く焦りを感じてはいない。頭の中の大半を占めていたのは、アルバイトまでの残り時間のことではなかった。

 私と亜美は運が良かった。あれが無ければ、あのコンビニに行って。あそこに行かなかったとしても、びしょ濡れになって、どこかで雨宿りして。犯人と出くわして、ナイフで何回も刺されて。もしかしたら二宮さんじゃなく、私達が。

 腹の底がゾクリとした。

 あれがあってよかった。いろいろ迷ったけど、あれを使って本当によかった。あれはまさに、幸せの黄色い傘だ。





 その日のファミレスには、多くの来店客があった。紗恵が春先に週三日のアルバイトを始めてから、最も忙しい一日だった。

「休日でも、こんなのは珍しいよ」スタッフに混ざり、厨房に料理を取りに来た店長が、嬉しさと困惑の入り混じった顔で話していた。

 紗恵はオーダーを一つ、取り間違えた。海老フライ&コロッケ&ハンバーグセットを、海老フライ&メンチカツ&ハンバーグセットと。初めてのミスだった。

 まぎらわしいメニューを作るからだ。

 ネチネチとクレームをつける子連れの若い母親に頭を下げながら、紗恵はまず、ファミレス本社の商品開発部に責任転嫁した。

 それから、海老フライ&コロッケ&ハンバーグセットを運び直している途中では、ドリンクバーの前で騒ぐ子供達のせいにもした。あんた達がうるさいから、気が散るのよ!

 午後十時過ぎ。従業員用の裏口から店を出た紗恵は、ぐったりしていた。ぬるい空気が肌にまとわりつき、更に萎えた。

 頬にぽつりと感じて空を見上げた。その拍子に頭がくらりとする。顔に二つ目、三つ目の雨粒が落ちてきた。

 傘持ってないけど、ま、いっか。本降りにはならないでしょ、多分。

 投げやりな気分で、重い足を最寄り駅に向けてから思い出した。

 亜美への電話。あとでまたかけると、昼間に約束した。

 アルバイト中は忙し過ぎて、亜美のことなど少しも思い浮かばなかった。休憩中も、紗恵はスタッフルームで、何も考えず長机に突っ伏していた。

 ミスもしたし。

 あの若い母親の顔が目に浮かぶ。意地悪い目付きだった。注文を間違えたことの他に、料理が出て来るまでしばらく待たされたことへの苛立ちも合わせて、紗恵にぶつけてきたに違いない。

 舌打ちしたかったがこらえて、ショルダーバッグからスマホを取り出す。

 とりあえずメールのチェック。中に舞衣からの着信もあった。次の合コンの予定って、ペース速過ぎない?中身はあとで、他のと一緒に読むことにする。

 次に電話。これを確かめ終えたら亜美に電話しようと、履歴を開く。

 足が止まった。当の本人からの着信を見つけたからだ。かけてきたのは午後八時十二分。不在着信ばかりの中で、亜美の履歴にだけ録音テープのマークが付いている。伝言メモを残しているらしい。

 珍しいな、どうしたんだろう?講義をさぼったことが急に不安になって、ノート絶対見せてよ、なんて、そんなわけないか。あ、まさか。

 嫌な予感がした。昨日の男の子からメールもらっちゃった、とか?

 わざわざ電話までして伝えるようなこととも思えなかったが、亜美の性分なら、それもあり得る。

 疲労が、特に精神的な面で更に増すことを覚悟して、紗恵は液晶画面をタップし、再生してみた。

 ……何?

 紙をクシャクシャと丸めているような音がする。

 よく聞き取るために紗恵はスマホを耳に押し当て、そしてすぐに離した。音の正体がわかったからだ。

 泣き声。

 全身に鳥肌が立った。亜美……なの?

 画面を見つめていると、その中で亜美だと思われる誰かが喋り始める。紗恵は慌ててスマホを耳に当て直した。

「紗恵……紗恵……どうしよう、あたし……どうしたら……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい」

 しゃくり上げながら続く、震えた声。間違いなく亜美だった。

 ごめんなさい?ごめんなさいって、一体……

 と、亜美の口調が変わる。

「来た……来る、来るよ、来るよ、どうしよう、ねえ、ホントどうしよう……来た、来た、イヤ、イヤー!」

 鼓膜に突き刺さる金切り声。直後に、ゴボッという、嘔吐する時の呻き声のような音が聞こえた。

 あまりの気味悪さに、再びスマホを耳から離した時、紗恵はそれを手から落としてしまった。

 なんのつもり、亜美?いたずらにしては、迫真の演技じゃん。

 恐る恐るスマホを拾い上げた。ひび割れたりはしていなかったが、画面は雨で濡れている。再生は既に終わっていた。

 でも、いたずらじゃなかったら。よくわからないけど、亜美の身に、何か良くないことが起きようとしていたのだとしたら。

 血の気が引いた。

 けど、もしそうなら、電話するのは私じゃなくて警察でしょ?そうだ、警察。警察に電話だ。

 と思い立ち、紗恵はすぐに考え直した。警察に通報したとして、今のこの状況をどう説明すればいいのか、全くわからないのだ。ただのいたずらかも知れない。もしそうなら面倒なことになる。

 でも、本当にいたずらだったらいいのに。

 そこまで考えて、ようやく気付いた。一番先にやるべきことは、亜美への電話だ。

 駄目だ、駄目だ、しっかりしろ!

 訳も分からず動揺している自分を励まして、紗恵は亜美に電話をかけた。頼むから出て、と祈りながら呼び出し音を十回以上聞いたが、亜美は出ない。「ただいま電話に」と応答メッセージが始まったところで、電話を切った。スマホをバッグに突っ込み、紗恵は駅に向けて走り出した。

 とにかく亜美のアパートへ行こう。そこにいるかどうかはわからない。それでも自然とそう決めていた。

 行けば全部わかる。やーい、紗恵、ひっかかった、びっくりしたでしょー、なんて亜美が笑って……笑って出迎えてよ、亜美、お願い。

 右側にある車道をタクシーが、紗恵を追い越し、走り過ぎて行った。紗恵は後ろを何度も振り返りながら走り続けた。次のタクシーが来るのを期待して。

 雨脚が次第に強まってきた。髪もTシャツも濡れているのが、はっきりとわかるが、冷たさは感じない。

不意に黄色い傘の絵が思い浮かんだ。同時に、昨日の亜美の言葉も。

「これ、私のラッキーアイテムかも」

 そう、あれがあるじゃない。幸せの黄色い傘が。だから大丈夫。きっと大丈夫。

 紗恵は祈るように繰り返し自分に言い聞かせながら、走り続けた。


 駅前のロータリーが見えてきたあたり。まだ行き交う人も多い居酒屋やコンビニが並ぶ通りで、紗恵はタクシーをつかまえることができた。後部ドアが開くと共に、自分や亜美が住む町の名前を運転手に告げながら乗り込む。パンツのデニム生地が腿に張り付いて座りにくかった。

 途中、もう一度電話してみる。前髪を伝って、雨の滴がスマホの画面に落ちた。

 亜美は、やはり出なかった。





 二階に三つ並んだうちの真ん中にある、亜美の部屋の前に立った時、雨の降りはますます強くなっていた。紗恵が立っている外廊下にも吹き込んでいる。

 チャイムを鳴らした。応答は無い。

 ドアをノックした。顔を近付け、名前を呼んでもみた。

 やはり、何の反応も無い。

 ここにはいないのか。

 ダメ元で、レバー型のドアノブに手を掛ける。カタンと下りたので手前に引くと、ドアが開いた。

 どうしよう、入ろうか。紗恵は迷った。

 いなくても、中で帰りを待ってればいいか。捜そうにも行くあては、すぐには思い付きそうにないし。それに、何がどうなっているのか、知る手掛かりがあるかも知れない。

 だから入ることにした。

 まずは覗き見るように、顔だけ入れる。頬にひんやりとした空気。エアコンが効いているらしい。

 灯りは消えているが、部屋の奥が白くなったり、青くなったりしている。そちらから、誰かの声が聞こえた。テレビがついているらしい。

 紗恵はドアの内側に、そろりと体を入れた。「亜美」と大きめの声で呼んでみたが、返事は無かった。

 そのままそこにたたずみ、息を殺して周囲をうかがう。誰かがいる気配はない。何かが動く気配も。

「これは二宮聖香さんが大学入学の日に撮影されたビデオ」

 テレビからの声が、はっきりと聞こえた。多分、夜の報道番組だ。あの事件を取り上げているんだろう。

 後ろ手にドアを閉め、上がり口の壁にあるスイッチを押す。何度も来ている部屋だ。勝手は自分の部屋のようにわかっている。

 頭上でオレンジ色の灯りがついた。下駄箱に立てかけられた黄色い傘が目に入る。

 濡れたスニーカーを脱ぎ、濡れた素足で部屋に上がった。

 玄関と続いているキッチンの蛍光灯のスイッチを入れる。四畳半のそこに、特別変わった様子は見受けられない。

「嬉しそうにピースサインをしてみせる聖香さん」

 流しの横に、汚れた皿と茶碗が重なっている。いつもと同じだった。

 ガラス戸を引き、奥の居間に進む。そこの灯りもつけた。

 誰かいる!

 ギョッとして腰が砕けそうになる。が、すぐに大きく息を吐き出した。窓ガラスに映った紗恵だった。カーテンが開けっ放しだったからだ。

 落ち着け!

 肩からバッグを下ろすと、深呼吸を二度繰り返し、ゆっくりと視線を巡らせた。

 窓の横、部屋の角に黒いローボード、その上にテレビがある。画面右上に「詳報!雨宿り殺人事件」とあった。

「高校の卒業文集に聖香さんは、こう書いていた」

 今まで聞こえていたのと同じ、男性のナレーションが流れる。画面は、その文集の一ページのアップ。女性のナレーションが入る。

「将来は海外の貧しい国の人々の役に立つ仕事がしたい」

 男性の声に切り替わる。

「そんな希望も、卒業して僅か三ヶ月余りで無残に打ち砕かれた」

 部屋の中央に置かれた白い座卓の上に、テレビのリモコンと、水が半分入ったグラス。フローリングの床に敷いた、淡いピンクのチェック柄のラグの上に、同じ色のタオルケットが丸まっている。

 ここで寝ていたのかも。

「明るく朗らかな聖香さんは、誰からも好かれていた」

 左手の間仕切りの襖が、中途半端に開いている。紗恵はそこから、隣の部屋を覗いた。

 畳敷きの上には、ゴタゴタと化粧品が並んだドレッサー。無人のベッド。小ぢんまりとした白い箪笥。いつもの位置に、いつもの家具。

 ベッドの下……

 思い付いてしまった。ベッドの下にも、何も無い?

 確かめずにはいられなくなった紗恵は、忍び足で部屋に入った。心臓が破裂するのではと思うくらい、鼓動が高鳴る。

 ベッドから少し離れた位置に立った。ゆっくりゆっくり、かがんでいく。

 変な物があるかも。物じゃなくて……人がいるかも。

 体を小さく丸める。畳に両手をつく。下を見た。

 ……何も無い。暗いが、何かがいたり、あったりはしないことはわかった。

 紗恵はその場に、へたり込んでしまった。

 バカみたい、私。思わず笑いが込み上げる。こんなとこ、もしもドッキリで撮られてたら、とんだ笑いものだ。

 気を取り直して立ち上がった。

 お風呂場も確かめておこう。あとトイレも。どうせ今みたいに、何もあるわけないけど。

 居間に戻り、通り過ぎようとして、テレビに目が止まった。

 うちの大学だ。正門前で、ショートカットの女子学生がインタビューに答えている。

 いつ撮ったんだろう。今日は行きも帰りも西門からだったから、全然気付かなかった。ひょっとしたら、私がバイトに行ってから?

「友達思いで、真面目で。あの日も、私と友達は最後の社会学の講義、さぼってしまったんですけど、二宮さんだけは出席するって言って。でも、こんなことになるんだったら」

 こらえきれなくなったその学生は、口を手で覆った。俯いた頬を涙がつたう。嗚咽がおさまると、続けて言った。

「無理矢理にでも一緒に連れて帰るんだったって思って」

 あの日最後の社会学の講義って、私と亜美が抜け出した、あの?

「また、近所に住む人は」というナレーション。

 画面が切り替わる。六十前後といった年恰好の、痩せた色黒の女性が映った。自宅だろうか、サッシの玄関前に立っている。

「いい子だったよ。あたしらにも、ちゃんと挨拶するしね。あの日の朝も、あたし、話したんだから。黄色い傘持って歩いてるから、あらー聖香ちゃん、綺麗な日傘だねー、なんて言ったら、やだなーおばさん、これ日傘じゃないよ、雨傘だよ、なんて言って。おばさんも気を付けた方がいいよ、今日降るかも知れないから、なんて心配までしてくれて。それがさー」

 言葉が詰まる。込み上げるものをこらえ、目をしばたたかせる。

 やがて女性は唇を震わせ、声を絞り出した。

「酷いことするよね」

 悪寒が止まらなかった。

 そんな、まさか……

 二宮聖香の笑顔の写真がアップになる。ナレーションがかぶさった。

「最後まで真面目に講義に出席した聖香さん。持って出たはずの傘をどこかで紛失し、たまたま雨宿りしたコンビニで命を落としたのだとしたら。不運というには、あまりにもやりきれない」

 紗恵はたまらず玄関へと走った。

 まさか、そんな。そんな偶然って。

 下駄箱の脇の黄色い傘を取り上げ開くと、隅々まで探した。これがあの子のものだという証拠を。

 証拠って何?名前とか?子供じゃあるまいし、大学生が傘に名前なんか書くわけないじゃない。それに、書いたとしても、それが名前じゃなかったら?自分にしかわからない、マークみたいなものだったら?私には判断つかないじゃない。意味が無い。今、私がしてることには何の意味も無い。でも構わない。この傘があの子のものだと、私にわかりさえしなければ、それで私は救われる。

 一通り見終わった。どこにも無かった。名前も、マークらしきものも。

 やっぱりこれは、あの子の傘じゃない。

 自分を無理矢理納得させて傘を閉じた時、初めて柄に目が行った。白いプラスチックの、少し汚れた柄。そこが目線と同じ高さになるようにして、傘を逆さに持つ。そのまま中棒を軸に、ゆっくり回していく。

何も無かった。ひっかき傷があるだけだ。

 傷?

 柄にくっつくほど、目を近付ける。擦り減ってはいるが、細い針の先で刻んだようなそれは。

 紗恵はキッチンの蛍光灯の真下に移動すると、光にかざした。

 文字?

 ハッとして、傘の向きを逆にして持ち替える。やはり文字だったそれが読めた。

 S……e……i……k……a……セイカ!

 体中の力がすうっと抜けた。傘を右手にだらりと提げて、夢遊病者のような足取りでテレビの前まで行く。

「これって、あなたの、だったの?」

 画面の中の笑顔に問いかける。

 亜美に知らせなくちゃ。

 紗恵は足元にあったバッグの横にしゃがみ込み、傘を置いた。スマホを取り出し、画面に触れようとして手を止めた。

 何だろう、この違和感。

 顔を上げた。テレビの中から、笑顔の二宮聖香が紗恵を見ている。

 この画面、いつまで続くの?

 傘を調べに行く前からだから、もう五分以上経っている。長過ぎる。しかも無音だ。

 紗恵はスマホをテーブルの上に置き、代わりにテレビのリモコンを取り上げた。他のチャンネルのボタンを押してみる。1、8、どれを押しても切り替わらない。聖香が見ている。

 故障?

 腋の下から脇腹へ、汗が流れ落ちていく。

 電源ボタンを押した。消えない。何度押しても、聖香の顔はそこにある。

 強く押してみた。長押しもしてみた。何度目かの長押しの後、プツッと画面が暗くなった。

 胸をなでおろす間も無く、画面が徐々に白み始める。呆然と見つめていると、やがて再び聖香の顔が現れた。

 紗恵は力一杯、電源ボタンを押さえ続けた。故障だ、これはただの故障だ!

 今度は一回目で消えた。が、またすぐに、じわりと聖香の顔が浮かび上がった。

 どういうことなのよ!

 叫び出したい衝動を懸命に抑える。不可解な現象を、なんでもなかったことにしたかった。麻痺寸前の脳みそを力の限り回転させる。テレビを消すには……テレビを消すには……コンセント!

 リモコンを放り出し、紗恵は倒れ込むようにテレビの後ろに回った。画面の裏側から伸びるコードを辿る。壁の下の方の差込口からプラグを、引きちぎるように抜いた。

 これで終わり。これなら、もう。

 膝立ちのまま動いて、テレビの前に回った。

 息が止まった。そこには聖香の変わり果てた顔があった。

 ほつれた前髪が、何本も顔面に垂れている。両目は閉じているが、口は少し開いている。前歯が何本か覗いて見えた。蠟のように白い肌。でも、頬から顎、首にかけて血しぶきで染まっていた。

 さっきまでの笑顔とはかけ離れた、けれど紛れもなく聖香の、紛れもなく死んでいる顔だった。

 目を逸らしたい。なのに魅入られたように、紗恵の目は画面に吸い付いて離れない。

 いきなり聖香の目蓋が開いた。白濁した瞳が紗恵を見据えた。

 思わず飛びのいた。テーブルに背中を打ちつけ、グラスが倒れる音がした。画面が暗転し、顔が消えた。

 後ろ手をついた恰好で、紗恵はどうしようもなく震えていた。涙が止まらない。

 怖い、怖い、怖い、怖い。

 逃げようと思った瞬間、右目の端で何か動いた。ゆっくりと窓の方に顔を向ける。

 紗恵の後ろに、人の形をした影のような黒いものが立っているのが、ガラスに映っていた。

 咄嗟に床にへばりついた。そのままの体勢で首だけを回して後ろを見る。

 何もいない。再び窓ガラスを見たが、何も映っていなかった。

 逃げたい。逃げなきゃ。

 しかし、下半身は自分のものではないみたいで、思うように動かない。代わりに両腕を突っ張って、どうにか上体を起こすとテーブルに突っ伏した。グラスからこぼれていた水が腕を濡らす。目線の先にスマホ。

右腕を伸ばしてそれを引き寄せ、紗恵は激しく震える指を苦心して操り、電話帳を開いた。亜美の番号に指先を押し付ける。

 どこにいるの、亜美、早く帰って来て!

 直後に電話のベルが鳴り響いた。聞き覚えのある音。亜美が設定している着信音だ。

 どういうこと?亜美は、ここにいる?

 が、すぐに打ち消す。そんな馬鹿な。だって、そんな。

 三回。四回。紗恵の耳元にあるスマホから聞こえる発信音に合わせて、ベルは鳴り続ける。隣の部屋からのように思えた。

 スマホが、スマホだけが隣の部屋にあるってこと?

 伝言メモの応答メッセージが始まったところで通話を切り、もう一度亜美の番号を押した。ベルが鳴り始める。音の出処は、確かに隣の部屋だ。

 紗恵は息を詰め、テーブルを支えにして両腕に力を込めた。腰を引きずり上げるように意識すると、両足がどうにか伸び、立ち上がることができた。

 覚束ない足取りで襖の間を通り抜け、一歩一歩、音に近付く。

 押し入れの前まで来た時、ベルが鳴りやんだ。音は、その中から聞こえていた。

 何してるんだろう、私。早く逃げろ、早く逃げろって、頭の中で警報装置が鳴り続けてるのに。でも、この押し入れを開けるだけ。この中に、本当にスマホがあるかどうか確かめるだけ。確かめたら逃げよう。

 紗恵は押し入れの襖に手を掛け、少しためらった後、一気に引き開けた。

 目の前の上段に水色の布団が一組。来客用で、紗恵も使ったことがあった。その上に、折りたたまれた白いシーツが乗せてある。襖で隠れた右奥には、プラスチックの衣装ケースが二つ重なっている。スマホは見当たらない。布団をめくってみたが、無い。

 下の段?

 しゃがんだ。

 目の前に亜美がいた。紗恵は尻餅をついた。

 亜美は、靴やバッグや家電製品の空箱の間に挟まり、両膝をそろえて立てた格好で座っていた。膝の上に、首を捻り真横になった顔を乗せている。目は大きく見開かれたまま。しかし、その瞳は何も見てはいないのだろう、全く動かない。口もぽっかり開き、洞穴のようなそこから、吐瀉物の跡が素足の脛へと続いていた。上にはTシャツを着ていたが、下は下着一枚のようだった。両腕はだらりと床に垂れ、探していたスマホは右手に握られていた。

 亜美が、死んでる――

 とてつもなく大きな声が喉の奥からほとばしった、はずなのに聞こえない。声が出なかった。尻をついたまま足を滑らせながら何度も畳を蹴って、僅か数センチの距離を後ずさりする。

 そうして紗恵は、四つん這いで玄関に向かった。涙と鼻水がだらだら流れる。途中にあった黄色い傘を手で払いのけた。

 何が幸せの黄色い傘だ!あんなもの持ち帰ったばっかりに。亜美が盗ったんだ。私じゃない。私は止めたのに!

 ようやく玄関に辿り着くと、下駄箱に掴まり、力の入らない足を精一杯踏ん張る。なんとか立ち上がり靴を履こうとするが、足が震えて上手く入らない。靴は諦めた。

 早く外へ!

 ドアのレバーを掴んだ。

 動かない?

 ありったけの力を込め、何度試しても下に回らない。

 どうして?

「お願いだから動いてよ!」

 必死の叫び声が、やっと口の外に発せられた時、背後で聞こえた。濡れ雑巾を床に落としたような音。

 ビチャ、ビチャ、ビチャ。

 次第に近付いてくる。

 体が硬直した。紗恵にはそれが、雑巾ではなく、雨と血で濡れた足がやって来る音だとわかったから。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 紗恵はきつく目を閉じた。「でも私じゃないの。あれは友達がやったの。本当よ。私は止めたの。そんなことしちゃ駄目だって止めたの!」

 すぐ後ろで足音が止まる。何の物音もしない。

 静寂に耐えられず、紗恵は目を開けた。

 と同時に、両方の肩越しに血まみれの腕が伸びてきて、紗恵にしがみついた。

 耳元で聖香が囁いた。

「カエ……シテ」

「違う、私じゃない、盗ったのは私じゃない!私じゃない!わた――」

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