【昭和】便所
子供の頃お世話になった、社宅のぽっちゃん便所。
薄暗く、うそ寒く、じめじめしている。
おもいでの便所。なつかしの便所。
拙著『昭和の道草』所収の一編です。
お手洗い、手洗い所、洗面所、手水場、灌所、閑所、閑所場、厠、憚り、雪隠、御不浄、糞壺、化粧室、WC、トイレ、トイレット、レストルーム……。いろいろ呼び名はあるが、そこは「便所」がぴったりだ。
社宅の、東むきの玄関をあけると靴脱ぎ場。入って、三十センチほど上がると、左右に走る狭い廊下があり、正面に二枚障子、そのむこうが四畳半の茶の間。廊下の左の突き当たりに祖母と叔父の四畳半の部屋があり、右の突き当たりに便所がある。
便所の戸は木製で、左側に、よこに細長い取っ手がある。右にスライドさせると引っ掛かりがはずれるしくみだ。戸の右側の柱には、なかの電燈の、スイッチの紐が垂れ下がっている。紐は茶色い紙を縒って作ったもので、濡れると切れやすい。紐の上の端は細い鎖につながっている。引くとカチンと音がし、確かな手ごたえがある。
戸の取っ手を右にすべらせ、手前に引いてあける。そこは半畳ほど。床は板。手前にスリッパ。窓はない。正面に小便用の白い便器。なかに黄色や緑の芳香玉が入っていて、小便をかけると、みるみるうちにちいさくなっていく。蒸気が目にしみ、鼻がつんとする。左下の床に、水が入ったプラスチック製の赤い桶があり、その上のほう、壁にタオルがぶら下がっている。母が手洗い用に置いたものだ。水はいつ取り替えるのだろうか。タオルは心なしか薄汚れているようにみえる。なんだか不潔だなあ。わたしはそこで手を洗ったことはほとんどない。ちなみに、左のうすい壁のむこう側に白黒テレビがあり、音がきこえてくる。
小便用の便所の右に木製の戸がある。今度は右側に取っ手。左にずらし、手前に引いてあける。と、そこも半畳ほど。うす暗い。中央に大便用の白い便器が鎮座している。もちろん和式。むきは小便用の便器とおなじ。汲み取り式の、ぽっちゃん便所だ。いつごろからか、白いフタがしてあるようになった。市販の強化ビニールのやつを適当なサイズに切ったものだ。フタを取り、右の壁に立てかける。便壺ににおい消しの薬を入れているのだろうか、くさいとおもったことはない。便器をまたいで立つ。正面上部に二枚窓、下に掃き出し窓。左上、隣りの小便用の便所との境の壁が、十センチ四方くらいくり抜かれていて、そこに二十ワットほどの電球がある。電球は点けていてもうす暗い。点けるとよけい暗さが増す感じだ。
ズボンとパンツをずり下げ、しゃがむ。右前方すぐに、チリ紙台とチリ紙。ほかにはさっきのフタ以外、なにも置いていない。お化けが怖いので、なるべく正面だけみて用を足す。七歳くらいまでは、戸を二枚ともあけっ放しにしていた。天井にだれか張り付いているんじゃないのか、うしろにだれか立っているんじゃないのか、下の便壺から手がにょきにょき~って伸びてくるんじゃないのか。ああ、はやくうんちだしちゃおうっと。怖さのせいなのか、夏でも暑いと感じたことはない。いつもうすら寒い。怖さを紛らすために、チリ紙を取って、みいる。しわしわの粗悪な再生紙だ。新聞紙や週刊誌の「政」や「ぽ」などの文字がときどきみつかる。掃き出し窓のガラスの模様をじっとみていることもある。人の顔や乗り物にみえてくる。いつものやつをみつけると、「やあ、けろスケ」「かけ子」「べん太」などと声をかけることもある。足の下は厚さ二センチほどの板だろうか。いや、一センチくらいか。足をずらすと、みしっと鳴る。その下の便壺の深さは二メートルくらいあるのかなあ。落ちたら死ぬなあ。ずぶずぶずぶってもぐっていって、窒息死しちゃうなあ。蛆虫がいっぱいいるのかなあ。ボウフラもいるのかなあ。おおきな蛇が住んでいたりして。などとおもってみる。
うんちをして、それが落ちた勢いで、なかのやつが跳ね返ってくることを「おつりがくる」という。下に汚物がたくさん溜まっていて、ちゃぽんって音がしても、おつりがきたことはない。よほど深いのだろうか。それとも糞がかたいのかな。いや、そんなことはないだろう。小便も入っている。あ、隣の小便用の便器のまえに、父か叔父さんが立った気配がする。ジャアアア……。用を足している。そのお小水が、ちろちろちろって、こちらの便壺に流れてくる。すこしして、父か叔父さんがでていく。わたしもうんちをだしおえた。チリ紙を三枚とって四つに畳み、右手に持ってうしろからお尻にあてがい、三回ガシガシ前後させて拭く。拭いたら放して捨てる。たまに手に張り付いて、放れてくれないときがある。あせって手をふると、チリ紙が頭上に舞い上がる。ひらひらひら……。落ちてきて、あたまにのったことはない。
二カ月か三カ月に一度、汲み取りのおっちゃんが衛生車に乗ってやってくる。すぐ外の地面に、汲み取り用のフタがある。マンホールのそれのように、丸い金属製。おっちゃんはそれをあけて、ホースを突っ込む。
ごぼっ、ごぼごぼごぼ……。
「奥さーーーん、水みずぅーーー。もっと入れてええーーー」
おっちゃんが壁をバンバン叩きながら叫ぶ。水っけがないと、吸い込みがわるかったり、チリ紙が便壺にこびり付いて取れなかったりするのだろう。わたしは母を手伝って、台所でバケツに水を汲み、トイレまで持っていく。
きゅる、きゅるきゅるきゅる、きゅきゅきゅきゅきゅきゅぅぅぅ……。ホースの先が、順調に汚物を吸い取っていく。外にでてホースをみていると、たまにブルブルっと震える。大蛇のようだ。
「奥さーーーん、水はもういいですよおおーーー」
やがて、ずずっ、ずずずぅぅぅ……。コップ入りソーダをストローで飲むのといっしょ。さいごは、ずずずぅぅぅ……。
吸いおわるとおっちゃんは、ホースを引き抜き、フタをする。ホースの先のほうを両手で持って、抱きかかえるようにして運んでいき、バキュームカーのタンクにくるりと巻いてから、玄関にくる。
「三百五十円になります」
料金は、「基本料金+家族人数分」で決まる。おっちゃんは分厚いゴム手袋を片方はずし、素手を差しだす。
「ご苦労様です」
母はおつりをもらわなくても済むように、ピッタリわたす。
「はい、ありがとさんです。またよろしく。次は十月二十日ごろうかがいます。(正確な日時は回覧板で知る)」
おっちゃんはもらったお金を、腰にぶら下げた茶色い袋に入れる。おつりがあるときはここからだす。
そのあと外であそんでいると、地面にホースを引きずったような跡を発見することがある。
便所には毎日お世話になったが、ふしぎにそこでの記憶はあまりない。怖かったからだろうか。おとなになってからそこは、くつろぎの場になった。