5.訪れない平穏
翌朝。陽気がソノードの町を温める頃、シンシアは宿屋の老人に案内されて大きな屋敷の前に立っていた。その後ろでニグルムは眩しそうに目を細め、シゴロモは彼の傍に付き添っていた。
屋敷は石造りで山形の屋根をかぶっており、赤茶色の縁取りが白塗りの壁にアクセントを加えている。それはシンシアの記憶にあるベネット宅と一致した。
「ごめんください。エフィンジャーさんはいますか?」
老人はドアの傍にある呼び鈴を鳴らした。だが中から返事はなく、誰かが扉を開ける気配もない。老人はもう一度呼び鈴を鳴らしたが、結果は同じだった。
「静かすぎる」
ぽつりとニグルムが漏らす。彼は眉根を寄せ、辺りを見回している。それを見た老人は困ったように頬を掻いた。
「留守かもしれないのぉ……」
また時間を改めてみようかと老人は言った。シンシアはしょんぼりと目を伏せる。連絡は入れなかったのだ。必ずしも都合がいいときとは限らない。
「いや、違うな」
険しい顔でニグルムはドアを睨む。やがて向こう側からわずかに足音が聞こえてきた。そのことに安堵するシンシアと老人の腕を掴み、無理矢理後ろに引き下げる。乱暴にドアが開き、銃を持った男が数人飛び出してきた。
「ちっ、嫌な予感が的中しやがった…!」
舌打ちと共にニグルムの口から悪態が吐き出される。男達はぞろぞろと出てくると銃口を先頭にいるニグルムに向けた。
「そこの少女を渡せ。そうすれば命までは取らない」
指揮官らしき男が冷たい声で言い放つ。シンシアはびくりと体を震わせ、状況のわかっていない老人は突然の事態に顔を引きつらせた。ただニグルムだけは、涼しい顔で相手を見据えている。
「断る」
言うやいなや、背中から剣が抜き放たれた。目にもとまらぬ速さで刃が振るわれ、男達に斬りかかる。鞭のような剣が風を切り、金属音が響き赤い雫が飛ぶ。ほとんど一瞬で男達は武器を取り落とした。痛みにうめき、あるいは驚きで呆然としている。
だが一人、いまだに黒く輝く筒を構えていた。狙いがはずれたのだ。ニグルムは刃を引き、その勢いで剣を突き出す。銃口が陽光をきらりと反射した。爆発音が辺りを震わせる。
「ぐっ…!」
ニグルムの右肩に赤い線が走った。痛みに顔を歪め、危うく転びかける。踏ん張って立て直し、男に突進。無傷の左手で拳を作り、踏み込んで相手の腹に食い込ませる。男は短くうめいた後その場に膝をついた。
だがドアの向こうから新手が現れる。それを認めたニグルムは後方に駆けた。立ちすくむシンシアの手首を掴み、乱暴に引っ張る。
「来い!」
シンシアは腕を引かれ、足をもつれさせながらも懸命に走った。その後ろで、いくつもの銃がニグルムを狙う。
「シゴロモ!」
ニグルムが呼ぶと、シゴロモは大きな獣に姿を変えた。鼻先で器用に二人をすくい上げ、背中に乗せる。銃声が轟いた刹那、鉤爪のある足は地を蹴っていた。軽い動作で家を飛び越え、屋根を伝って俊敏に駆ける。間もなく白い毛並みは見えなくなってしまった。
シゴロモは町を離れ、森の中を走る。その上でニグルムは苦しそうに呻き、シンシアはしがみつきながらおどおどしていた。やがて川沿いの木陰でシゴロモの足が止まった。
「主、もう誰も追ってこぬようです」
シゴロモは岸辺でしゃがみ込んだ。ニグルムは声もなく頷き、背中から下りる。ふらつく足どりで木の根元に歩み寄ると、倒れるようにもたれかかってしまった。その後を追ってシンシアも降り、押さえる右肩をのぞき込む。ばしゃりと水を汲む音がして、いつの間にか人の姿になったシゴロモがニグルムの傍にしゃがんでいた。
「主、傷を」
ニグルムは頷き、上着を脱いだ。あらわになった右肩は一直線に肉がえぐれていた。血は止まらず流れ続け、腕を赤色に染めている。酷い傷に、シンシアは思わず口元を押さえた。シゴロモは臆することもなく、汲んだ水で傷口を洗い流している。染みるのか、ニグルムは始終苦悶の声を上げるだけだった。
「幸いかすっただけのようです。あとは止血をすれば――」
適当な布を引っ張り出し、シゴロモは手際よく傷を覆った。だがあふれる血はすぐに布を赤く染めてしまう。傷はいくらか深かったらしい。シンシアは震え、こっそりと奥歯を噛んだ。直接押さえても意味が無いと知ったシゴロモはすっと目を細め、別の布を取り出す。その布で腋を縛ろうとしたとき、シンシアがニグルムに抱きついた。
「おい?!」
「じっとしていてください」
うろたえるニグルムを余所に、シンシアは彼をぎゅっと抱きしめる。淡い光が彼女の体から発せられた。光はニグルムを包み、傷口に集まっていく。戸惑う二人の前でいつしか光は収まっていた。シンシアはニグルムから離れ、地べたにちょこんと座る。
「どうですか?」
彼女の問いに、ニグルムは自分の腕を見つめた。力を入れ、握ったり開いたりして確かめている。巻かれた布がほどかれると、そこにあったはずの傷はなくなっていた。痕すら残らず、傷なんて最初から無かったかのように綺麗な状態だった。不可思議な現象に、シゴロモは目を丸くする。
「奇跡の力、か」
ニグルムはぼんやりと呟いた。傷があったはずの場所を撫で、右腕を動かして痛みもないことを確認する。彼の言葉に、シンシアはただ小さく頷いた。