1.シンシア
木漏れ日の降り注ぐ静かな森の中。穏やかな風がうたた寝する青年の黒髪を揺らす。彼は人が2、3人は乗れそうなほど大柄な白い獣を枕にしていた。獣の方も、穏やかな時を満喫するかのようにまどろんでいる。彼らに近づくものは誰もいない、そう思った時だった。
ぴくり、と獣が耳を立てて首をもたげた。風が不穏な声を届けたのだ。青年はまだ眠たげにそれを見やる。獣は警戒していたがすぐには動くそぶりを見せなかった。青年は気だるいのか、寝転んだままだ。どうでもいい、そう言外に言っているようにも見える。
ガサリと草をかき分ける音と共に、少女が二人の前に現れた。彼女は栗色の髪の毛をした、年の頃10代半ばの少女であった。少女は息を切らし、驚いたように青年と獣を見る。
一方で青年の方はゆっくりと上体を起こした。闇色の瞳はまだ眠たげではあったが、手ぐしで髪をとかして少女を見る。
「ずいぶん急いでいるんだね。何かあったのかい?」
緩やかな声色でそう問いかけると、少女は弾かれたように顔を上げた。
「は、はい。詳しくは言えないんですけれど、追われているんです」
おどおどと少女が答える。青年はしばし考え込んでいたが、ゆらりと立ち上がった。それに倣うように、白い獣も立ち上がる。何をするのかと少女が考えているうちに、青年は獣の背に跨がった。
「乗れ」
青年は自分の後ろを指さし、少女に手をさしのべた。少女はわずかにためらっていたが、彼の手を握った。その小さな体を引き上げると、青年は獣の首元を軽く叩く。
「頼むぞ、シゴロモ」
バウッと低く吠え、シゴロモと呼ばれた白い獣は身をかがめた。次の瞬間、二人を乗せているにもかかわらず高く跳躍した。
「ひゃっ!?」
少女が思わず悲鳴に似た声を上げてしまったのも無理はない話だろう。なぜなら、シゴロモはひとっ飛びで大木の高い枝に登ってしまったのだ。大柄な体でありながら、器用に枝に乗っている。が、それ以上どこかへ行く気配はなかった。逃げるのかと思っていた少女は面食らう。
「あ、あの、私――」
「しっ、声がでかい」
何か言おうと開きかけた口を、青年に塞がれてしまう。それでも少女は叫ぼうとしたが、青年の緊張した面持ちを見て暴れるのをやめた。彼にならい、眼下の道を見つめる。
やがて、数人の声が聞こえてきた。それから程なくして、迷彩服を着込んだ男達が駆け込んでくる。彼らの姿を一目見た途端、少女は体を強張らせた。
「どこへ行った? こっちの方に来たと思ったが」
「まだそう遠くに入ってないはずだ! 探せ!」
そんなことを言い合いながら、迷彩服の男達は草むらをかき分けている。見上げられてしまったら見つかるんじゃないかと思うが、幸いにして誰も少女らに気付くことなく立ち去ってしまった。
完全に男達の姿が見えなくなってから、少女は息をついた。そして、隠れるのを手伝った青年に向き直る。
「あの、ありがとうございました」
少女は丁寧に頭を下げた。見上げると、青年はなんでもない、というようにじっと少女を見ている。
「私はシンシアといいます。貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「ニグルム」
シンシアと名乗った少女が尋ねると、青年は無感動に答えた。シンシアは再びぺこりとお辞儀する。
「ニグルムさん、ありがとうございました。……それで、あの、ここから降りないんですか?」
彼女の問いに、ニグルムはわずかに目を見開いた。
「もしかして、急ぎの用でもあるのか?」
「え」
逆に尋ね返され、シンシアはきょとんとした。そんな彼女に、ニグルムは面倒くさそうに言い直す。
「奴らが捜索を諦める夜まで待てないほど急ぎの用件があるのかと聞いている」
彼の声色は穏やかではあったが苛立ちがわずかに混じっていた。
「い、いえ、大丈夫です。待ちます」
ニグルムの言葉に小さくなりながら、シンシアは消え入りそうな声で答えた。ニグルムはそうかと答えた後、シゴロモの白い毛並みに顔を埋めた。
「ね、寝るんですか……?」
「ああ、昼寝を邪魔されたからな。どうせ夜まで暇だ。お前も休めるうちに休んでおけ」
そう答えた後、すぐ寝息を立て始める。その幸せそうな顔に、シンシアは困惑するのだった。